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老人と海

投稿日:2011/6/30

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老人が言った。彼はいつからこんな風に謙遜に思えるようになったのかにたいし、何も気にならなかった。そうするには、彼はあまりにも単純だった。しかし、彼は少なくとも自分が謙遜になったということを知っていたし、それを恥ずかしく思わなかった。そしてまた、それによって彼の中にある自尊心は少しも失われることはなかった。

去年の暮れに相模湖でライフスクールを準備し今年の評価と来年の計画を立てているときだった。「老人と海」の最初の部分で少年と老人の会話がなされ、こんな言葉がでてきた。そして「謙遜」という単語に瞬間、身動きがとれない思いでした。夜盲症の症状があったらビタミンAを摂取しなければならないように、私に必要なことは「ビタミン謙遜」ではないのだろうかという直感がはたらいたのでしょう。海、船、道具、そして魚との対話をしている老人に「謙遜」を発見しました。だから、ライフスクールの本になったし、私の2011年の計画が謙遜をテーマにすることになりました。

謙遜は考えと行動の出発点が違うのだと思います。今の私は私が作り出すイメージの私から始まります。うぬぼれと可能性、そして退屈さが入り混じった状態が前に踏み出すエネルギーを発生させ、そこから慣性が生じてどこかに向かうようになり、若干のノウハウ、そしてそれを包んでよりいいものに見せていく技術と共に形を持っていきます。過程を通して結果に対するうぬぼれと可能性、そして退屈さと言う目線から評価をしていきます。賞賛を受けるとうぬぼれるし、けなされると可能性をもっていきますが、2週間くらいがすぎると退屈になってきて、腐った獲物を探し続けるハイエナになってもう一度草原にでていきます。「老人と海」に惹かれる理由は、自分が作り上げたうぬぼれと戦う人生を振り返る老人の態度なのです。老人と周辺の状況に動揺しても方向性をもっていること、そして自分が設定した方向に向かって黙々と歩いていくこと、もう一度ライオンの夢を見る生命力を持っている人間だということなのです。

謙遜はどうしようもなく弱い人間から始まります。しかし、うぬぼれの自分自身から実在する自分に方向転換をしてくれる魔法を持っています。魚を捕まえたい気持ちと、自然に順応するしかないという衝突、人に適応する良識と自分の経済的な余裕をもたらしてくれる魚に対する論理をつくっても、その魚の状態をその存在自体としてみようとする努力が物事をありのままに受け止めさせてくれるのと同時に、動機付けになっているのです。

今年の計画を立てながらこんなことを考えました。今まで私の人生は方向を決められない霧の中であっちにいったりしながらもっといい場所、私の根源を探してもがいていたのではないか?こんな条件では自信、方向、目標、推進力、リーダーシップこそが必要な能力でした。

でも、それを捕まえられるのか?

私の中にそれがあるのに、違う新しいところで探そうとしてはいないか?

心の中に風邪がふいてものごとが簡単に見えるのではないか?

探している途中に死が訪れたら意味があるのだろうか?

私の中に眠っていることを発見するよりも、知っていることをより深く見つめていかなければならないのではないか?慣れている条件化で、新しいことが生まれるか?

そんな悩みの中で各地点にベースキャンプを設置しました。

私の中に深く入っていなかければならないということ

存在の根源と親しくならなければならないということ

新しい条件でなければならないということ・・・・

この3つのために自然、文章、そして福岡プロジェクトを計画しています。「老人と海」は私にとって「謙遜」を認識させてくれたし、ある転換点になる機会になりました。

老人が敗北したといった部分は、もう一度始まる人間の偉大なる能力を内包しています。

「やつらが私を敗北させたんだ、マノーリン」

彼が言った。

「完全に敗北だよ」

「魚にやられたんじゃないよ、そうだろう?」

「そうじゃない、敗北は、その後に来たんだ」

老人は敗北と言う単語が浮かんでくるその瞬間にも、風が吹いてくれたからといって感謝し、船が丈夫であったと信じた。そして敗北を「俺があまりにも遠くに行ったんだ。」と慰労しています。体はとても疲れているけれど、いつもそうであるように家まで道具を運びます。そして長い眠りにつき、ライオンの夢を見ます。もう一度おきたら少年と海に出て行くでしょう。

自分欲望現実乖離彼に敗北を感じさせたがその敗北を受け入れ、もう一度明日の希望を話します。すなわち、敗北は希望を同伴しているため、結果や最後ではないという人生の過程になるのです。おそらく自分だったらおきてすぐに少年に自分の武勇伝を話しながら自慢をしたでしょう。結果魚はさめに食べられてしまったけれども、その海での闘争と自分が生き残った人間としての意思に対し、大げさに話をしたことでしょう。それが敗北なのだと思います。魚をもってかえることが勝利であり成功であり、頭だけもって帰ってきたことが敗北だと考えるからその敗北を成功に変えるための人間の傲慢さがみえるのです。成功と敗北の基準は当事者の態度にかかっています。自分が作り上げたうぬぼれは魚をとって高い価格で市場に売ることであり、自分の内面は海と魚、そして物質を見つめる態度なのです。その人生の態度が5回も休みながら道具を家まで持っていく忍耐とペドリコに魚の頭をやるようにということも忘れずにいます。2番目の主題である老人が言った敗北とは、自分の中にあるうぬぼれに対する敗北なのであり、もう一度生みにでることを前提にしています。そしてその敗北は本物の漁夫になっていくための過程として理解しています。

失敗と敗北の違いは放棄するのか?それとも放棄しないで過程として理解するのか?から差が出てくるでしょう。見方によっては人生とは放棄の連続でしょう。理由は簡単です。放棄がもっとも楽な選択だからでしょう。でも、放棄よりももっと危険なことは漠然とした喪失だと考えます。何度かの放棄を経験して自分がどこまでも低くなっている状態を感じると、目標を低く設定します。そうすると平凡な人生に向かっていくことになり、失敗と敗北は小さくなっても同時に成功もなく、その中で漠然としている喪失が存在していきます。「自分のうけもった業務はしっかりこなす」・・・・結論は一つではありません。人生が面白くないでしょう。感情の動きになれて新しい考えと行動を警戒し、固まった自分自身に満足します。私たちの社会も同じように、業務をこなして成功した人間の伝説にもにた話を消費する構造に浸っています。私たちも老人と海を読んで討論することが、自己満足を感じ欲求が満たされていくことを感じようとしているだけかもしれません。

実際に何かが起こって投げ出したくなるとき、私たちの頭の中に「放棄」という言葉が浮かんで着たりはしません。後で考えてみると「放棄」だったということでしょう。いつもなんとなく過ごしていこうとしていませんか?だからなんとなくではなく、決めてみるのはどうでしょう?これは失敗なのか?敗北なのか?こんな風にしたからこれは失敗で、私は次はこの方法で・・・・または、これは敗北だから、これはもう放棄しようと自分の中で決めていくとしたら・・・・

サガナムをやめた理由は「これは失敗だ。一緒に過ごす楽しみをつくっていくいことができない。一緒に過ごしていく理由がなくなった。それなら、構造を変えていかなくちゃいけない。」という思いでした。日本に来て一緒に過ごす楽しさを感じられなかった理由に対して、暫く悩みふけていました。理由は簡単でした。「一緒に過ごす楽しみは構造的な問題なのに、人間的な部分だけで接近していた。構造がまずつくられなければ人間的な部分もいきてくるんだ。だから、構造をしっかりと作る必要がある。」ということを、知ることになりました。私がサガナムをやめ、人間的な部分さえもなくなって、パートナーたちはバラバラになりました。もしあの時日本に来るとき、一緒に過ごす楽しさという命題を放棄して他の部分を中心にしていたら、ライフスタジオの姿が今の姿とはぜんぜんちがったのではないか?また試行錯誤を経験していたでしょう。

3つ目の主題である失敗は一つも敗北を知らない人間はみたこともないし、本や映画の中だけなのでよく分かりません。その代わり、失敗と敗北を自分の中で決定し、次に進みことが現実的な代案になるのではないでしょうか?

 

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