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この一枚の写真-16 [新松戸の愛亜]

投稿日:2011/6/3

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この1枚の写真を1ヶ月に一回上げることになっている。私がやろうといって毎月ちゃんとあげないといけないという強迫観念をもっている。しかし、写真がない。先日のハイキングで何ヶ月も時間が過ぎた。現場検証にいくチョンア、若い彼女にメロメロのウニョン、全身運動のあけみ・・・・写真に関心があるわけでもないので、好きな写真作家がいるわけでもなく、好きな写真を集めているわけでもなく、写真撮影をしてもいないのでこの1枚の写真がとても苦痛だ。でも、今まで書いてきたものをみると、とてもいい。一回限りで終わってしまうのではなく、何かが積み重なってそれが価値になり、成熟していくのをみてみたい気持ちからギャラリーを準備したように、今までの文章と写真を見ると、多くは偽善も含まれてはいてもそこで誰かと、彼らと、何かを作っている関係が少し見えてくる。大切なものをいつも遅く知ることに対して後悔もするが、遅くても感じる事が出来る事に感謝する。

 

恵比寿で愛亜の撮影をして、初めてカメラを持ったのも愛亜だった。青山がオープンして気分が良かったとき、オープンするたびに愛亜は私が撮ってあげなくちゃ。結婚写真まで私が生きて、愛亜の撮影をしなくちゃいけないだろ?そんな話をしたのだが、なみはそれを鮮明に記憶している。既に何回目なのだろう・・・・1歳が過ぎて韓国、木更津、青山、浜松、所沢、成城、横浜、国分寺、恵比寿、そして今回は新松戸まで・・・・

なみのウェディング撮影までいれると親子で11回。この写真を全て集めてみると、私の写真の技術がどんな風に変化してきたのかを知ることが出来るだろうか?たぶん、写真の技術よりもインテリアの変化で写真が少しはかわって見えるのだろう。そして、写真の定義づけをしていくためのいい資料になるのではないだろうか?

カメラマンが愛亜の1歳から新松戸までの写真をみたら、そこで私が執着している何かを発見できるのではないだろうか?恵比寿店のカメラマンからまずは始めてみよう。なみが準備して・・・・

 

執着するというよりは、私がいいと思う要素が1枚の写真に全て入っている写真をいい写真だと判断し、またそれを探しながら撮影を進めている。

251カットの写真から迷わず212番目のこの写真を選んだ。母親であるなみが選ぶ1枚の写真と同じかどうか、期待している。今までなみが私の写真を何度も見てきたし、他の人と区別できる私だけが追及している写真を知っていれば、同じになるかもしれないし・・・

私がいいと思う写真を整理してみると

まずはデザインされている写真・・・

バランスとは少しちがった話だ。バランスは四角形の中にあるいろいろな要素がうまく調和して構成されている部分にポイントがあるとすれば、デザインされているというのは四角形の中にあるいろいろな要素が調和して構成されていることを基本にして一つのイメージが形成されていることを言う。これも、どこかの本に書かれているのではなく文章を書いてみるとそうなるのだ。バランスを基本にして四角形の中に色々な要素がお互いに関係を持ちながら一つのイメージの中で物語的なものが含まれているものを好む。

次にそのままとまれ・・・

通常子供の天真爛漫な姿を瞬間とらえるという。でも、瞬間を捉えるということはカメラマンの意思が少ないことがほとんどだし、被写体が見せる姿に依存しなければならない短所を持っている。だから子供だけを撮影する人にはポーズのぎこちなさと単純さが発生することがよく見られる。公園に行ってカメラをもち、無邪気に遊んでいる子供たちを捉えるのではない、演劇の演出家のように全てが予定されていて、準備された状態で演出家の頭の中の構成が現実に現れたものでなければならない。そして準備して設定し、待った末にそれがカメラの四角の枠の中に現れるものこそ、叫びたくなるのだ。そのまま、とまれ

 

3番目に、圧縮したい。

圧縮というと望遠で被写体を浮き上がらせて背景をぼかすことだと考えやすいが、それだけではない。隙があってはいけないし、ぎゅっと編まれているがその中に自然さと余裕がなければならない。これも最初にデザインされた写真と同じようなものだが、撮影をしながらデザインされた写真と共に圧縮させたいという思いにかられる。何が違うのかについては正確にはわからないが、四角形の中の全ての要素を1回ずつたたいて眠っている何かを起こし、左右に整列をすべきだという負担感をいつも持っている。これは広角を通してこれはハイアングルを通して、彼らを起こして左右に圧縮されたイメージを作っていきたいと思う。そしてその全てがその場で各自の役割を全て果たしたときに初めて、自由を手にするのだと思う。

 

212番の写真は広角の長所が浮き出ている。熊をはじめとした小物たちと窓が広角を通して彼らだけの余裕を確保しているし、その前にいる愛亜は若干の歪曲により目立っている。真っ白な部屋で平凡ではない衣装を着た愛亜が私の美しさをとらえるんですか・・・それがそんなに簡単ですか?という表情でその部屋の中の雰囲気が対立をなしている。その雰囲気を強化しているのがカメラの前に引っ掛けた黒のパーテーションだ。ただ明るい白い部屋では愛亜の衣装と表情が力不足だったが、前の黒アイアン素材のパーテーションが愛亜を助け、イメージのバランスがあったのだ。

少し前に、なみがスパゲティを食べながら、こんな質問をした。社長はイメージを考えて撮影をしていますか?いつもイメージを考えながら撮影をしなければならないと、撮影教育をしながら説明をしているからこそ映画や本を通して学ぶことが多いのだと何度も言ってきているが、すぐに答えた答えは“いや”・・・被写体をみてすぐにイメージが浮かんでくるというのは天才しかできないといろいろな言い訳でその瞬間を逃れようとしていた。言葉と行動が違う自分をまた発見してしまう状況だった。でも、家に帰って来ながら考えてみると、私の答えが言い訳ではなかったのだと思った。もちろん頭の中のイメージ、そして撮影できるように努力するのはカメラマンの義務に該当する。瞬間にイメージが浮かんでくるというのはとても難しく、多くは撮影した後に確認されるのだ。そしてイメージが浮かんでくるというのは結局繰り返しである可能性が高い。同じイメージでも自ら違うといいはる可能性が高い。

愛亜撮影をしながらイメージに関する話が頭の中をぐるぐると回った。そして今回の撮影を通して結局イメージをつくるのは自分の限界の分だけ出来るのだということを知った。新松戸のインテリアをしながら窓枠の感覚を何センチときめ、白のペンキの価格はいくらだったのかを考えながら撮影はしない。しかし、そんなものたちが全て集まっている私の無意識の世界で撮影を行うその瞬間、各自が受け持った役割を果たすのだ。鮮明なイメージが浮かびあがってこなくても、その数百の要素を指揮する私の内側からこの1枚の写真に適応しているのだろう。だからイメージを作る作業は急ではないが、継続してやっていくべきことなのだ。だからカメラマンはインテリアをしてみなければいけないし本も読まなければいけないし、この社会に愛情をもっていなければいけないのだ。そしてまた、こんなこの1枚の写真を撮っていくのであり・・・・

 

愛亜が学校に行くようになった。チョコレート色のランドセルをもって入学写真を撮影し、私との会話でも“それは違うでしょ・・・”と、自然に話す子供になった。もう10回くらい、もっと撮影をしたら“いや・・・デニーズじゃなくて居酒屋にしましょうよ”といわれる日が来るだろう。そうしたらこう答えよう。“俺が20回撮影したんだから、今から20回は酒を飲みにいって、愛亜がおごれよ。最初の居酒屋に、行こうか?”

    

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