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福岡プロジェクト1:「彼らが言わない23通り」 (チャンハジュン)

投稿日:2011/5/31

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 チャンハジュン教授の文章はわかりやすい。経済学というものは難しい単語と概念が複雑に絡まりあっているものであり、膨大な資料のつながりも楽なものではない。しかし、チャンハジュン教授の本は経済学をよく知らない人を前にして話をするように、相手を配慮しているという感覚をうける。これは著者の文章力もあるが、彼の意見に同意するからでもある。‘レクサスとオリーブの木’のいやらしさがない理由も、それと同じではなかっただろうか。やっぱり頭で理解するよりも心で感じることがその差なのではないか。

 

彼らが言わない23通りは‘はしごを蹴飛ばす’と‘悪いサマリア人ら’の延長上にあり、その要約本にも近い。彼らが言わない23通りを企画していっぺんで書き上げようとしたというよりはいろいろな場所でのコラム形式の文章を整理したとでも言おうか。何度も繰り返される事例と主張が見え隠れし、深く入っていかない側面もあるが前の本から感じた退屈さはなくなったのでそれなりに良く感じた。もう一度確認して整理した印象をうけたし、現在李ミョンバク政府の経済運用に対する批判意識をより高める時間になった。

 

私たちが生きているこの社会は私たちの決定権から離れており、厳格な資本主義システムを警告する。とまったら爆発する機関車のように前に、そしてより早い速度で走っていく要素を持っている。しかし、早い速度を出すためにはより‘自由’を追求しなければならないという栄目から抜け出さなければならないという主張からこの本は始まる。そして、これを支えているイデオロギーの克服が必要であり、その方法を提示している。理由は簡単だ。今世の中に出回っている‘自由’は本当の‘自由’ではないということであり、私たちが望み、向かうべき世の中とは大きな違いがあるということだ。

 

現在韓国で企業型スーパーマーケットの戦いがすごい。何百メートルという単位で顧客を形成している小規模自営業者に対して、企業型スーパーマーケットはダビデとゴリアテの戦いほどのものだ。経営、マーケティング、資本の劣勢であるしかない零細商人たちは彼らとの戦いに勝つことができない。維持するだけで簡単にいってしまえば血を流すことしかできない。だから公正取引委員会や国会に意義をとなえ生存権の保障のための裁判を起こしている。しかし資本主義社会は‘自由’に営業行為をもとに行うシステムになっており、特にいろんな国との自由貿易協定過程で過度な営業行為の制限を改めなさいという要求を受ける。大資本を武器にしている大企業が少しずつ領域を拡大させながら地域の商圏までも奪っていこうとする行為は‘自由’の側面から正当ではないが、当然なのだ。現在国会で渓流中の法案は零細商人の保護に重さ中心を置いたが根本的に企業型スーパーマーケットが路地商圏で入って来ることを阻むことはできない。それならばどうするべきなのか?地域の零細商人の生存権を保護しながら資本の自由な移動を確保することができる方法は?

この本はそれを悩むための主張だ。単純に保護貿易がいいとか、今の先進国もそうだから少し大変な国の状況を理解しようといったような話ではない。一方にかたよるのではなく、共存することができる道を悩んで見ようというのだ。

大資本が地域の商圏まで揺らがすようになるからといって、私たちの人生がよりよくなるということではないというのだ。1000ウォンする牛乳を900ウォンで買うからといって私たちの人生がどれほどよくなるだろうか?お互いがお互いを配慮して緩衝し、よりよい方向を模索していく人生こそ、結局は人類に進歩をもたらしたのではないだろうか?

 

ライフスタジオでもこんなことがしょっちゅう起こる。日本の大地震の関連送金を集める過程で、自発的に解決する問題を強要するといった意見を耳にした。給料、休日、撮影件数、インセンティブ、勤務時間、福利厚生などすべての部分において決められており、見方によってはそれもすべて強要なのにどうしていくらにもならないような金額の送金は自由によって決められなければならないと考えるのだろうか?ライフスタジオでは自分の決定権を各自に任せていると私は考える。自分の決定権は自由の原理にもとづいている。そんな自由の制約は共同体が維持され発展していくための条件でだけ一定部分、制約される。そんな自己の決定権の付与という基準で各リーダーたちはその権限を委任され政策をつくりだし、執行する。すでに決まっていたり社会の通念上決まっていることは自由という範囲ではなく、それ以外の小さな部分から自由を行使しようとしているのではないか?国民が選択した権力や国民の権限を委任される公務員たちがする仕事は自分の決定権から抜け出しており、少しずつ私たちは狭い個人になろうとしているのではないだろうか?

だから本社スタッフには少しやりすぎかとも思えるほど強要した。もしこれが強要だと考えるのであれば、強要なのだ。これを受け止めることができないのであれば、共に仕事をすることができないという風に意見を伝えた。スタッフたちの心うちは知ることができないが、何が正しいのかに対する基準には少し助けになった。

各オーナーたちが2号店を考えている。おそらく、特別な処置がなければ私もあなたも・・・2号店をオープンしていただろう。銀行からお金を無理なく借り、オープンほど楽しいこともないし、本社の立場ではロイヤリティ、加盟費の収入も増えライフスタジオ全体的にも何かしているという錯覚をすることができる。しかし、店舗の拡大が私たちが望むものなのか?に対して悩んでみると、やはり店舗の拡大は目標ではなく、手段にならなければならないという結論に到達する。店舗拡大が目標になる瞬間、砂の上に城を建てていくような結果をもたらすほかはない。規模は大きくなったが中は空っぽで小さな揺れにも衝撃をおびえる。すなわち、私たちがスタジオでいったい、何をしようとしているのかということに対し、店舗オープンは答えなければならないのだ。だから、店舗オープンは‘自由’であるがそれがどのように店舗オープンよりもより高い概念であるライフスタジオを‘自由’にしてくれるのかということに対する答えにならなければならない。その答えがなければ、それは自由ではなくうぬぼれなのであり、上記で言うようにブレーキがきかない機関車になってしまうだろう。

 

私たちの社会は急速に変わっている。それを操作することはできない。30年前にはフィリピン産のバナナ1本が現在の価値では5000ウォンしていた時代があった。10の房が5000ウォン程度だし、もっと安い。しかし私たちの口に入ってくるおいしく安いバナナのために、多くのことが行われている。おいしく安く、簡単に手に入るバナナほど、私たちは安く解雇をすぐにする社会に暮らしている。どんなに簡単に変わるといっても、私たちが生きていく根本的な理由は変わることがない。その理由にあった社会をつくることが、私たちが次の世代に伝えることのできる唯一の贈り物なのだ。

 

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