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ソフィーの世界(下)
投稿日:2011/5/30
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1. 世界は私が感覚を通してみるものと同じだと確信することができるか?
30数年を韓国で生きてきた。そして日本で5年程度の時間を過ごしながら、30数年の韓国をもう一度振り返ることになる。日本に来てあまり経たない韓国人たちが話すことは、大体似ている。しょうゆ味に驚きを見せたり、泣き言ばかりだ。短い制服についての話をし、電車でのにおいに驚きもする。そんな判断の共通点には韓国がある。韓国の基準で日本をみて驚くこともあれば、少し馬鹿にした様子を見せることもある。
私もそうだ。灰色の都市を強調するアスファルトの黄色い線が一番最初に目に入ってきたし、店員のサービスに驚いたりもした。どこに行っても列になって礼儀を守り、少しすれ違っても短い言葉を発する日本人の配慮がうらやましく思えた。時間が過ぎよくない部分も目に見えるようになり、連日問題点ばかりを探すようになった。そして、そのすべての基準は韓国だった。
今韓国に行くと、日本の基準をもとにいろいろな場所で腹がたったり嬉しくなったりする。韓国に行って帰ってくると、みんな自分の基準が変わったという。そんな風に成長していく。
何かを認識して判断する基準は少しずつ変わる。木だけをみて森をみないでいる人が私の運命の器さえ、木にしかならないのだ。
世界は私が感覚を通してみるものと同じだと確信することはできない。現象の中に隠れている本質を探さなければいけないし、すでに出た結果の原因を見つめてこれが特殊な状況で発生したものなのか一般的なものなのかを判断しなければならない。それはどうやって?現象と本質の関係は理論的にはわかっていても個別の何かに対して判断することは、その人の人格的な幅の広さによって変わってくる。
日本に来て感じたことは、韓国を少し客観的に見れるようになったことだ。韓国にいたらわからなかったこと、韓国人が日本にきて同じように言う話は、韓国の基準なのであり多くの主観性を含んでいる。韓国の基準で判断することは不安定さをもってスタートするしかない。特性を探していくことではない、真理を探していくときにより、そうなのだ。すなわち、自分がつくった判断の基準から抜け出すには自分を作り上げている要素を変えるか、検証して見なければならない。それを自分が目的意識をもって自分なりのプログラムとして定着させることが必要だ。
飛び出せ見知らぬ世界へ、つまらない毎日の繰り返しから・・・・
私の方法はこれだけだ。私が持っている固定概念、先入観、我執、経験の一般化を克服するためには既存の基準や観念から私を離脱させてより、客観的な条件をつくることだ。抜け出すこということが逃げとは違うと区別するためには自ら主観化に沒入している自分を立証しなければならない。そしてその中で認められなければならない。私自身と、と私たちのすべてから・・・
2. 何によって道徳の基準が決まるのか?
道徳に関して何度か討論をしていく過程でもし人間の道徳が決まっているのならばそれは誰が決めたのであり、その道徳はどこにあるのかという質問をするようになる。宗教をもっているのであれば神様にもなりうるし宗教がないのならば自分も知らない間にどちらかの方向に向かうのであるだろうし、発見できるという答えを聞くことになった。‘人間はもともとそうなんだ’という言葉はとても危険だ。自分の中で起こることに対する放棄にもなりうるからだ。
私たちは一日が遠いといい、動物たちを摂取する。殺してはいけないということを人に限って決めたのは誰だろう?神様なのか?人間はもともとそうなのか?命を基準にするのであれば私たちは毎日毎日道徳的によくない人生を過ごしているのではないのか?
殺生の範囲を決めるのは結局人間であり、人間の決定方法を決定するのもまた、人間だ。それならば人間が決定することはすべて正しいとみれるのか?人間の中にもその決定に疑問を持つ人間がいるとしたら、それも多数決するべきなのか?
グローバルスタンダードが流行して多くの国で既存の経済秩序を変えている。これも結局強者たちの基準だと考えられないか?だから戦って代案を立てるべきであるというのではないか?
自分の中から湧き上がる声に耳を傾けてみながら、ある声が聞こえてくる。その声を聞くこと自体が貴重だ。その声のままに行動することはより、貴重だ。だからといってそれが真理ではない。真理である可能性があるのであって・・・・
カントが行っている道徳律も自分の内面から静かに語りかけることが真理の可能性が高いといってはいるが、真理ではない。そしてそれも時間がすぎれば変わるのであり、変わるべきだ。真理ではないのだから・・・・
道徳の基準は私が今まで見て聞いてきたことは、行動で証明する過程で生じる規則である。その規則をいつも深く解釈しながら、前に進んでいくことが道徳的な人間だ。道徳とは規律の問題ではない。誰がみてもいい規律をもっていたとしても、お互いに違う状況にそれをどうやって適応させていくのかによって、道徳的なのかどうなのかを判断することができる。
父母の場合もそうだ。父親だから母親だから、子供としての道理を果たさなければならないという話をきいて育ってきた。そうだろうか?それは誰が決めたのだろう?決めたのではなく、父母と子供の間の数多くの関係が積もり積もってそうだといっているが、それを私たちはただ、受け止めている。そして、抵抗する。
‘私の鏡は父母だ’と考える。自分のだめな部分をみてほしくはないが、父母を見ていると私がみえる。だから、距離を置くこともあればあるときには父母を見ると涙がでる。だから私の人生が父母のための最高の親孝行になるように行動する。
他の人に対するときも私自身に対するようにしろというカントの言葉に同意するが、道徳という規律が歌舞伎町の入り口の左側3番目のボードブロックにあるものではない。マルクスが行っている社会的関係が意識を規定するという主張に対して同意せざるを得ない理由は、道徳とは信じることではなく、信じたい心なのであり社会的関係の現われだと私は理解しているためだ。
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