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第4回 ライフスクール

投稿日:2011/5/12

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ここギャラリーは少しずつ変わっていく自然を感じることができます。寂しかった枝ももう緑づいています。自然の変化ほどに、私たちも少しずつ前に向かっているでしょうか?確認のしようがないので、そうだと信じて生きていくことが健康にいいのだと思います。

 

524日(火)第4回目のライフスクールを自由が丘店で行います。

 

ソフィーの世界は何度読みました?哲学に初めて触れる人は一度読んでも理解することができないかもしれません。内容は大体わかっても、それがそんなに重要なことなのかという疑問がわきませんか?現実と離れた内容だと考えれば考えるほど、興味はなくなり自分の行為に意味を付与していくこともなかなか難しいでしょう。楽しんでいくためにはいろいろな方法を同時に利用しなければなりませんが、義務的な読書だけでは時間の無駄になってしまうでしょう。ですから、これから2週間ほど時間があるので、2つの方法を提案します。

 

-. ソフィーの世界をもう一度読む

-. ソフィーの世界に出てきている内容について、周囲の人に質問をする

 

ソフィーの世界をもう一度読みながら重要な部分に線を引いてください。少しでも疑問がわいたり、重要だと考えればボールペンのインクをもったいないと思わずに、どんどん線を引いてください。そしてその線を引いた部分を何度も何度も読んでみてください。前にはわからなかったことについて、少しずつ見えてくるでしょう。ソフィーの世界は哲学の歴史というとても広い内容を少しずつ整理したものです。哲学史を学ぶ理由も哲学の基本主題が何なのかを知るためです。ですから、一人の哲学者の主張よりは全体を理解することが重要です。哲学者たちの主張が少しずつ変化している原因に対する疑問をもってもう一度読んでみていただければと思います。

 

そしてソフィーの世界に出てくる内容のうち

人間とはなにか?意識とはなにか?正しい認識とは何か?正しい人生とは何か?死の後ろには生きるということが存在するのか?などの質問を、周囲の人にしてみてください。多くの人が似たような答えを言うだろうし、人々の限界を発見できると思います。これらはその限界線からその次の段階について悩めるという条件ができるということなのです。そしてその限界の時点で少し悩みを深めてください。そうするとソフィーの世界から哲学者たちが主張する内容を発見することもできます。

実際にその限界で私たちの討論が始まっていたらという希望をもっており、見方によってはそれが当然なのかもしれません。でも、集まって討論することがその限界線を発見することで終わってしまっています。残念ですがそれが私たちの水準なのでしょう。

 

今回ソフィーの世界の下巻は2つの討論主題で進めます。

 

1つ目の主題は、世界は私が感覚を通してみるものと同じだと確認することができるのか?です。

 

哲学とは結局必死で真理を探していく過程ではないでしょうか?何が真理だと主張するためには私が考え認識しているものに対する証明をする必要があります。その証明をするためにいくつかの大きな部分にわかれてきます。まずは私の感覚器官から入ってくる多くの情報、その情報が私の中に入って加工される過程、その過程を通ってこれがこうで真理なんだと叫ぶほどの論理を作り出すことになります。その過程で一番最初に出てくる感覚を通してみるひとは何かという質問をするようになります。私たちは生きていくうえで最初にもった考えがどんどん変わっていく経験をするようになります。あんなに愛していた恋人も、あるときは獣のように思えたりもするし、あんなに美しかった世の中も暗く感じてしまうことがあります。写真撮影をしているとこれだと声をあげて自ら満足することがあっても、数日たってみると自分が恥ずかしくなることもあります。横に引くものはドアだと思っていたけれども、今は横に引くものといえばi-phoneになりました。

私たちの感覚器官に入ってくるものは私たちが自らもっている観念形態の中で判断をし、保存をしています。

そんな判断と保存にエラーが生じるときにそれがそれだとどうやって確認することができるでしょうか?彼を決めるとき、誰かの保証になるとき、全財産をかけて銀行にお金をかりて家を買うとき、いつもとは違う印象を持ちます。当然だと思っていたことも、少し見方がかわれば確信がもてなかったりもするでしょう。

 

そうしたら、感覚器官から入ってくるものとは何でしょうか?真理でしょうか?真理という名のおばけでしょうか?私たちはどんな方法でそのおばけを判断できるでしょうか?入ってくるものをどんな風に判断するべきでしょうか?コンピューターのように1を入力したら1として保存され、2から1を抜いたら1だと正確に現象を把握する方法はないでしょうか?もしそんな方法があったら本当によくないですか?そんな方法を研究することが哲学なのでしょうか?

多くの人の悩みはここから始まるのだと思います。最初は1だと思っていたのに、よくみると2だったから腹がたったということではないですか?いちご味だと思っていたアイスクリームを買ってみたけどバニラだったときに、そう思いませんいか。最初からバニラだと思っていたらそんな気分にはならないのに・・・・でも、とてもおかしいでしょう。こんな風に話をしているとこんな主題が本当に重要な気がするのにだれも教えてくれないから・・・世の中を認識する方法よりは世の中をこうだと決め付けている私たちはおかしくないですか?

私たちの感覚器官を通してみることと同じだと確信することができなければ、いったいどうしたらいいでしょうか?確信を持つためには何が必要でしょうか?今まで磨いてきた自分だけの秘方はないでしょうか?

 

もうひとつは、道徳に関する内容ですが、カントとマルクスの2つを引用してみます。

 

まずはカント

カントは最初から正しいかどうかの差は感情の問題以上のものでなければならないと強く思っていた。その点で彼は正しいかどうかを区別することは人の理性にかかっていると考える合理主義者たちと同じ考えをもっていた。すべての人は何が正しく何が間違っているのかということをしっている。それは、どこかから学んだのではなくそれが私たちの理性の中にもともともって生まれたものだからだと考えた。カントはすべての人には道徳の領域において何が正しく何が間違っているのかということを常に知らしめる「実践理性」があると信じていた。

それならその理想は生まれもったものなの?

正しいかどうかを判断する能力は理性のすべて違う属性と同じように、生まれ持っているものなんだ。すべての人は世界で起こる事柄を生まれもって決まっていたこととして把握する。それと同じように物理的な自然方式と同じように、絶対的な妥当性をもっている。すべての物事には原因があったり、7512だったりすることが私たちの理想的な人生の土台になるように道徳の法則も私たちの道徳的な人生の基礎になる。

そうしたらこの道徳の法則が私たちに何を物語ってくれるの?

それはすべての経験に先立って与えられたものであるから、形式的なんだ。それはすなわち道徳的な選択がおかれている特殊な状況に支配されたりしない。それはすべての社会、すべての時代に生きているすべての人に適応される。だから、道徳の法則は私がどんな状況でこんなふうに、あんな状況ではああいう風にしなければならないとはいわない。それはがすべての状況でどうやって行動すべきかを教えてくれるんだ。

….

私たちはいつも私たちが信じて従う決まりがすべてのものに同時に適応されるという不変的な法則になるように行動すべきだと言っている。

しかし、ただ私が人気を得るためにほかの人と関係をもつのであれば、お前は道徳の法則に従って行動しているとは言えない。たぶんお前は道徳の法則に対する内的な尊敬によって行動しているのではなく、ただ見た目だけ道徳の法則と一致させて行動をしているだけだ。もちろん表面的な一致だからといってまったく違うといえるわけではないが、道徳的行為といえるためには自分を克服した結果でなければならない。お前が道徳の法則に従うことは義務だと考え、何かをするときにだけ、お前はそれを道徳的行為だと言う事ができるのだ。だから、カントの哲学を義務倫理学だといったりもするんだ。

私たちが道徳法則に対して尊敬のために行動するということを自ら知るときにだけ、私たちは自由に行動するのだ。

私たちがただ自分の実践理性に従うのであれば、それは私たちが道徳的選択能力を持つのであれば、ただそのときにだけ、私たちは自由意志を得ることができる。

しかし私たちが不変的な理性に従うのであれば、私たちは独立的で自由な人になるのだ。

 

次はマルクス。

ヘーゲルは歴史発展を推進させる原動力を世界精神世界理想だとしたが、マルクスはこのような観点が真理を混乱させると考えた。マルクスは物理的な状況が物理的変化をもたらすのではなく、その反対で物理的な状況が精神的な状況を決定すると考えた。マルクスは特に、ひとつの社会の決定的な力が、違うすべての分野に変化をもたらし歴史を発展させると強調した。

マルクスはひとつの社会の物理的、経済的、社会的状況をその社会の下層構造だとし、考える方式、政治制度、法律、宗教、道徳、芸術、哲学、科学を上層構造とよんだ。

マルクスはひとつの時代の生産方式がその社会の政治的、イデオロギー的関係を決定すると主張した。今日、私たちが以前の封建社会に生活していた人たちと違う考え方をし、若干違う道徳をもっているということは、偶然ではない。

だからマルクスはすべての時代に適応できる自然法を信じなかったのね。

そうだ。マルクスは社会の下層構造がその社会の道徳律を決定すると考えた。実際に昔の脳号社会では父母が子女の配偶者になる人を決定したということも偶然ではない。結局だれが農場を継ぐのかが問題だったのだ。現代大都市では社会的関係がついてくる。だから、自分の人生の伴侶も違う方法で探す。私たちは未来の配偶者とパーティーやディスコにいって出会うことになるかもしれないし、充分に愛しているのであればまずは一緒に暮らしてみるということもできるんだ。

“.. そのほかにマルクスはひとつの社会で何が正しく間違っているのか決定するのはいつも支配階級層だということを強調している。すべての歴史が階級闘争の歴史だと考えたからだ。すなわち、生産手段を誰が所有するのかに関する対決の歴史だと考えた。

 

 

このような内容を見てみると、核心になって分かれる部分が何のために道徳の基準が決められれているのか?ということになります。カントは不変的道徳とは経験以前に決まっていて、それを探しだすことができると言ったが、反対にマルクスは社会の下層構造によってすべてがきまるとした。

どう考えますか?

正しいことと間違っていることの判断が、時代によって変わることもあるのか、7512だというようにきまっているのか?時代によって違うのであれば私たちは道徳的判断のために何を重要に考えるべきでしょうか?変わらないのであれば、その真理をどうやって探しだすべきなのでしょうか?

 

人の心を揺らがすとき、たくさんの比喩をだしたりしませんか?ゆれる心の正体を定義づけ、平和に暮らしてみたくないですか?

では、24日に自由が丘でその正体と会いましょう。

 

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