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ノルウェイの森
投稿日:2011/4/4
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男女の愛をテーマにした映画には“この愛を永遠に・・・”を、約束する場面がよく登場する。彼らだけの愛が永遠ならば、映画の素材にはならないように、その愛には亀裂が入っていく。世界が二つに分かれても私たちの愛だけは変わらないと固く信じているが、時間がたって二股をかけたり、特別な時間がなくても外部的な要因ではなく、自分の内部から少しずつ変化が現れる場合も多い。つかみとることができたら、この感情の変化をとめてしまいたいが、それが気持ちだけではできないのだ。また、失恋の痛みが死ぬまで続くようだが、1,2ヶ月が過ぎたらまた違う異性が目に入ってくるようになる。この世の中に決定されているものは無いだろうが、人の気持ちよりも簡単に変わってしまうものもない気がする。そしてその変化すること自体、この世を発展させる基本動力と考えれば、そんな気持ちの変化が理解できたりもする。
しかし、本人が固く信じていることに対しての変化過程を目撃するということは、苦痛を伴う。それが時には裏切りや侮辱を感じ、立ち直れなくなったりする。だから年が経てば経つほど約束をしないようになる。世の中を渡っていく方法も少しずつたくみになる。傷つけたりしたくはないが、傷つけられることはもっと避けたいと思うからだ。その中で夢も小さくなり理想を現実に合わせていくことに忙しくなる。傷を負って失うことを商売にしている人もいない。20歳でも40歳でもその痛みの重みは同じだからだ。むしろ、それを振り払うことが20歳のときよりも少し、難しい。もう1ヶ月間毎日お酒を飲んで過ごすこともできないし、渡辺のように傷を癒すためにただ歩いて過ごすということもできない。だから、傷つかない方法を考え、活用していく。たぶん、私が結婚というものに対する考えがあまりわいてこないのも彼女をつくろうとする積極的な行動をしないことも、傷つきたくないという法則があるからなのかもしれない。だから、成長が滞る。
20歳のときは人がやってみるようなことは大体やってみた。図書館で生活もしてみたし、彼女と熱いラブストーリーをつくったり、警察に世話になったり自分の事業を起こしたり、長期間旅行にいったりもした。
今考えてみるとわざと傷つくような生活をしたわけではないが、そのための準備をして自ら傷つき、その傷に耐えられないふりをしながら、その痛みを楽しんだりして・・・・
傷というものはデミアンで言う自ら気づくために必ず必要な過程だ。失うことなくして存在というもの自体、理解することはできない。失ったり、それを得たりする過程の中で価値を知るようになり、その価値が集まって価値観を形成する。
でも、多くの人々はそんな過激な傷を経験する程度までいかないのかもしれない。傷というよりは小さな痛み、良くない記憶程度が積み重なっている。そして失うことに対してとても敏感に反応する。これが資本主義と出会って個人主義によって包装された利己主義が体に浸透し始める。映画の中やテレビのドラマの中で主人公が傷、すなわち喪失を消費する。失敗と挑戦が推奨される社会では、傷というもの自体がどうしようも出来ない過程なのだ。その過程を依然として歩いて行く時自分も気がつかない間に自分の体に、それが何なのか、自然に入ってくる。それがどんなものであろうと・・・・
“ノルウェイの森”は、この世を美しく生きていく上で価値があるという無意識を、友人の死によって停止してしまったことから始まる。そして10代後半を過ごしながら美しく価値あるものとは何なのかを、愛と死、そして関係を通してしることになる。ほたるや直子と共に歩いた道、礼子との情事は傷を予想し何かを得るための過程を表現している。そして三角関係でなりたつ異性たちとの関係で感情の変化を経験しながら、自分の中心を探していく渡辺がいる。この本の題名を“愛の時代”だとしたからといって大きな問題はないだろう。でも多くの内容が渡辺の愛に対する感情よりは、状況と関係の中で自分を探していく過程になっている。そして小説の全体的な雰囲気が何かを失った人たちの葛藤とさまよいを描いている。理性の中で楽しんでいたら、眠りから覚めぼーっと立ちすくんでいる自分を発見して、ビートルズの歌のように生きていく慌しさに突然、押し寄せてくるむなしさが全体的な雰囲気にわたっている。
私たちは何も知らない時期を過ぎ、疾風怒涛の青年期に、多くの変化を経験する。とても美しく見え、自分の意思のまま世の中は回るという錯覚が崩れて自分と世の中に対する新しい視覚ができてくる。その過程で“私とは何者か?”そして“生きる意味とは何か?”という質問をするようになる。今どこにいるのかというみどりの質問に、自分はどこにいるのだろうと、自らに質問をするようになる。意味のあったことが、瞬間意味を失い美しいことが日常のむなしさになって押し寄せてくる。存在に対する認識はすなわち、生命力をもっている。特別な考えなく特別な関係をつくろうしない渡辺にも、直子の死と治癒されていく過程で自分の存在に対する認識をすることになり、もう一度生まれ変わる瞬間を迎える。友人の死でどうしようもない青春を送っている渡辺に直子は死をもって小さな贈り物にしたのかもしれない。
私はいまどこにいるのかという悩みは、いつもあるものではない。私が願うからといって持つ悩みでもなければ、持ちたくないといってどうにかなるものでもない。お互いを認識し、方向を考えるその瞬間に、私の地図は変わってくる。その瞬間を迎えるための謙遜さが必要だ。
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