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サウスバウンド

投稿日:2011/3/7

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20年前の韓国には時代の変化に葛藤する若者が多かった。自分の内部にある問題よりも、社会や国家、権力などの変化が優先されていたし、その反対側にいる人たちも彼らが持っている合法的な方法を動因して今の状態を維持した。お互いに正常ではない考えと行動だったし、そしてそれが正当化されていた。時間がすぎて真実が少しずつ明らかになって過ぎた過去に叫んできた自由、平等、開放という単語が私たちの社会に安着していくのではないかと期待したが、今でも私たちの社会は力のあるところが最高だと受け止められているし、それが強化されているように思う。

 

道にでた多くの人たちは、今何をしているのだろう?

 

それでも残るものは、歴史の進歩と慰労してみるが、そんな変化は少しも感じることができない。

 

少し前、韓国のホンイク大学で小さな事件があった。その学校でサービス業者を通して10年以上も掃除などの仕事をしていた人たちが仕事がなくなり図書館の前でデモをした。デモは継続したが、以前のように社会的な流れを作ることができず、その学校の総学生会の意見表明によって、韓国社会に論争をつくりだした。総学生会では図書館の前でのデモによって学生たちに不便な状況をつくりだしているから学校の外にでてくれという要求をしたが、韓国の市民社会が介入することによって‘学生たちさえも困難な人々を追い出すとはこの社会の定義は何であり、どこにあるのだろうか’という社会的な問題が提起された。契約社員と派遣社員の問題によって韓国はデモが継続しており、すでにそんなデモも日常化した。国会、工場、政党、市内の中心においてどこにでもデモをする姿が見受けられるし、少しずつそんな苦痛に対して何も感じなくなっている私たちを呼び覚ます事件になったのだ。学生たちの多くが既得権を持つ側に立つか、彼らを追従する時、私たちの社会は少しずつ保守化して健康を失っていくのだと考える。学生たちは純粋だし、また、そうでなければならない。既存に作られた壁を壊して新しい価値を作り出すことが若者が持っている最高の武器だし、それが私たちの社会と歴史を発展させるのだと信じている。特に大学は、その多くを国からの支援を通して成長してきたし、個人の所有物ではないため、私たちすべてのものでなければならない。そんな場所でデモをしている人たちがきちんと払っている税金の一部がその学校の奨学金として、研究開発費として使われているのかもしれない。いや、使われたというのがただしい。国の税金が学校に戻り、それを問題視しないということは私たちの社会の若い世代に期待をしているからだ。すなわち、この社会が固く守ってきた壁を壊し、新しい価値を作ってほしいと古い世代からの希望がこもっているのだ。困難なひとびとを助け、彼らが構造的な問題を知って努力し、その過程で私たち社会が少しだけいい社会に変わっていくという世界観を形成する時期が、まさに二十歳を前後する大学生なのだ。勉学の雰囲気が壊され、図書館で勉強することに少し被害があったということの前に、この寒いコンクリートの上でデモをしている人たちの苦しみを理解することが先だといいたいのだ。公務員の試験のために、資格をとる勉強のために図書館で勉強をすることも重要だが、もっと正しい人生と社会のために悩むことこそより重要だということは誰でも同意するが、現実は自分に対する被害に対する考えが常に先にたつという現実をみながら、それこそ多くの人々が自責する理由でもある。

抵抗するということはすなわち、生きるという積極的な行動だと思う。ホンセファという人が雑誌社との対談で「‘楽に生きていきたければ不意を避け、人間らしく生きたければ挑戦しろ’と言いたい。正義、真実はそれ自体は力を持たない。‘権力’‘金力’という言葉を使っても‘正義力’‘真実力’という言葉を使うことはない。こういったものがどうやって力を得ることができるようにするのかが、これからの課題のようだ。」と、言った。サムソンの機密費事件に関する対談だったが、これは韓国の社会が権力と金力というカップルが真実を避け、お互いの間違いに対して知らないふりをしていることに対しての指摘なのだ。権力と金力の力が大きければ大きいほど、社会の方向がその方向に傾き、真理と自由、平等に対する執着は信念ではなく適応なのだ。資本主義社会に適応し、21世紀に適応し、相対的に他の人よりも良くなろうとすることが結局、適応の限界から抜け出せない原因だ。信念は自分の内部から沸き起こる自分の主体性と関係がある。感情の渦を理性で整理し、これを行動に移すこと自体を信念だと理解している。学生たちが少しいい給料と名誉のために図書館でひとつの問題を解く能力をもつことは、適応に関することなのであり、デモをする原因と彼らの痛みを理解することは信念に関するものなのだと考える。大学は適応するのが上手な人を育成するところなのか?信念を形成する方法を学ぶ場所なのか?

この2つが同時にできればいいと思うが、やはり問題はバランスなのだ。すべての適応のために片方だけを利用するから楽しくすることは不可能になるのだ。

 

二郎の父が行った一連の行動はすなわち、抵抗だ。一郎式の抵抗なのだ。この抵抗はすなわち、良く生きるという積極的な行動であり、その行動派信念に基づいている。社会が向かう方向と反対に向かうことは危険を伴ない、それだけその危険を受け入れるだけの信念が必要だ。力が大きくなればなるほど、その中で生じる集中と官僚主義の問題が生じ、主体と客体が変わってしまうと一郎は考えた。だからより小さな単位の経済共同体を作ることが彼の解決策であり、だから南に移動した。しかし、現在社会の問題はその小さな島でも起こっていたし、パイパティローマに行くことになる。一郎が持っている信念はホンセファ氏が言っていた正義を守って真実を知っていく力であり、より小さな世界で労働と人生、自然と人間の調和のとれた統一こそが究極的に私たちの望む世界なのだ。

 

そこの道で、現場で、警察の留置場にいたその多くの人々は今どこに行ったのだろうか?選挙でハンナラ党がいつも勝利をおさめ、朝鮮日報は購読率1位を譲らない。あの時一緒に変化を叫んだあの多くの人たちの信念は、賞味期限切れなのか?若者たちの押さえ切れないエネルギーの消費のためにあんなに変化を叫び、社会に出たらその信念が権力と金力に変わってしまったのか?

私が所属していた市民団体の代表にあっていろいろな話をしながら、会員たちの会費の話がでた。10数年前、1人あたり平均1-3万ウォン程度を払っていた。私もそのとき1ヶ月の会費が2万ウォンだったような気がする。給料平均60万ウォン程度だったから、3-5%程度をだしていた。多くが20代前半から中盤だったから、その2万ウォンさえも小さくはない金額だ。今の会費も1-2万ウォンだという。30代後半から40に変わり、給料が2-300万ウォン程度になはっているだろう。3-5%だったら8-15万ウォン程度は出すべきなのに10数年前のまま、1-2万ウォン程度の会費を出しているという。あの多くの人々はいったい、どこにいったのかという疑問さえ、馬鹿らしい質問のようだ。信念がなくなったというよりは、とまってしまったというほうが正しいのではないか?その信念を現実に適応して発展させて拡散すべきなのに、時間だけが流れ、信念はその市民団体の事務所にそのまま置き去りなのではないか?

信念は行動を前提にする。行動なくして頭だけに存在するものを信念とは言わない。自分が維持している世界観と行動が一致する人生を見つめたとき、私たちはそれを信念という。市民団体にいても学生のときでも、また自分がそんな状況に陥ったときだけ一緒にと叫び、実際に自分が一番近くにいる家族や経済活動の空間では典型的な小市民として生きていくことを、信念と呼ぶことができるだろうか?

 

では、私は信念を持っているのか?そしてその信念を行動に移しているのか?

 

信念があるないは決めることが難しい。重要なことは、自分の行いにその信念が適応されているかを基準に設定することだ。家族、友達、会社、方向性、日常生活で自分の信念をどのように適応させ、その後自分の考えの変化を注視していくことが信念そのものよりも大事にすべき概念だと思う。

 

ライフスタジオは経済活動の空間でありながら、自分と社会に対する闘争の空間でなければならないと考える。闘争は行動を前提にしてその過程で新しい価値が生まれる。その新しい価値が私たちを美しくし、より良い社会に向かっているという思いを提供する。その闘争中心にはがいて、成長がある。

ライフスタジオで行うすべての事業はこのような基盤の上に緩く進んでいる。

 

人間には、受け止められるだけのことが課される。

人だけが希望だ。

木が、木に言いました。私たちは一緒に、森になって、守っていこう。

 

実際、信念という単語を使ってからあまりにも時間がたって、「あなたの信念はなんですか?」という質問が新しい。20代のときは命をかけて信念を守らなければという強い社会的雰囲気があったが、今は信念を脅威する要素が小さいために、相対的に信念の重要性が低くなった。むしろ、いろいろな経営関連のホンの内容が経営者たちの意思とその適応に関するノウハウを多く含んでいる。でも、そのような話は結局、信念というよりは方法に関するものに聞こえるし、そこに命をかけるほどではないという考えにいたる。行動方針のようなものにも思えてくる。

伝説を作りたいという話をしてきたが、その伝説の始まりと終わりは、信念の維持と適用にあるだろう。本に出てくるそのような話よりも。私たちが生きている現場の隅々に私たちの信念が息づかせたい。

誰かのようにヒマラヤの頂上を征服する程度の信念はなくとも、私の墓碑に信念にも似た単語が入るような幸運のために、今日も悩んでみる。

 

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