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心―夏目漱石

投稿日:2010/11/30

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記憶の中に、そして無意識の中に私について回る、または、その中で寝ながら身を縮めている幽霊のような欠片達がある。ふと、その欠片が合わさる瞬間は何か私を捕まえる感じだ。明け方霧のようにもうろうとした状態のこの不快な気持は、冷笑的に変わっていく私を見つめるようにする。露のような透明な状態を想像できないが、その期待さえもなくなっていくことが不安だ。

純粋さは本来生まれた時からあったのか、でなければ少しずつ獲得し、少しずつ無くなっていくのかはわからない。純粋な心に対する追求をしてみると人生の意味まで至る。純粋でありたいという欲望と、少しずつすり減っていくことに対する抵抗が同時に作用されている。そして、私がそれを願っているのと共に、外部からそれを要求することが混ざっている。いろいろな混乱の中で、日常で起きる事件がロトのボールのようにごちゃごちゃになる。

人を殺したいと、一度だけ思ったことがある。20年前情熱だけあり、方法は分からず世界に抵抗していた時期に、とても強力な壁が私達に立ちはだかった。巧妙論理で武装し、武力までもっている彼らは私達をつぶしにかかった。力でも論理でも技術でもどうにもならない無気力の中で「お前も死に私も死ぬ」以外考えられなかった。

ツンドラの青く澄んだ空の色のように純粋な心に初めて傷がつき、今なお治癒されないその残酷な記憶は私にずっと付きまとっている。その当時彼らは彼らの仕事が正しいと信じ行ったし、私達もそうだった。道理に合わないことは度々発生するが、初めての傷は簡単に癒えることはない。

どうにもならない巨大な力の前に、自ら倒れる人間の弱さと実存の問題を初めて経験しながら、その時から私の敗北意識は成長し始めた。

月日が過ぎ、治癒というよりは妥協という長い時間が流れたように思う。私が持っている理想と純粋を守ろうとする力は私と社会を妥協させる。そして、適度に妥協する。

夏目漱石の「心」は妥協せず、死で持って抵抗する一人の人間に対する話だ。

財産管理を任せた親戚に裏切られ、人々と徹底した壁を作り生きていく先生はKという唯一の友達がいた。あまりにも自分の自我に深くはまっているKに一定の憐みの情を感じるようになる。一言で言うならば「私よりももっと脳味噌が空っぽじゃないか」程度。。。

Kを助けるため自分の下宿先で一緒に暮らすようになるが、問題はその下宿先にきれいな娘がいたということ。彼はその娘を好きであったが、人を信じることができない状態であったため、これが愛なのか味噌なのか区別できなかった。そんな時にKがライバルとして登場する。虎を自分の手で招いてしまったまぬけな人になったのだ。どうでもいいことでの嫉妬と疑いのまなざしが、だんだんひどくなり、Kも彼女を好きになる。その時愛の戦争が始まりながら、彼は先制攻撃で娘にプロポーズをし、受け入れられた。Kに強い裏切りをしたのだ。そして、その友達は自殺をする。彼も長い時間が過ぎ自殺する。

………. 私は寂寞した。この世のどこにも敵を作らず一人で生きていくという感じを受ける時がよくあった。そうしながら私はKの死因に対してよく思い起こす。彼が死ぬ前、私の頭の中は愛という一つの単語で埋め尽くされていたこともあるが、その時の私の判断はとても単純であったし、また一方的だった。Kは失恋の傷により死んだと判断した。しかし月日が流れ落ち着いた状態でその事件をもう一度見つめてみた時、そんなに簡単な結論を出す事ではないと思った。理想と現実の衝突-これで十分に説明することはできないが-私はこんな考えもした。Kが私のように一人残された孤独感に耐えられず、結局最後の道を選択したのではないか。その考えにたどり着いた時突然鳥肌が立った。

私もまた、Kが選択した道を、彼の後を追いかけるのかもしれないと予感した。音もなく木の葉を通り過ぎる風のように。そんなふうに忽然と。。。

….. 私はただ人間の罪ということを痛感した。その気持ちは毎月私をKのお墓に連れていくのだ。その気持ちが妻に優しく接しなさいと私に命令した。私はその気持ちに捕まりながら道行く隣の人が私を踏みつけてくれないかと思った時もある。そんな過程を一つ一つ積んでいく間に他の人に踏みつけられるよりも、私が私自信を踏みつけなければと考えだした。。いや、私が私を虐待するよりも私自信を殺してしまうことがいいのではと思った。そして結局は死んだという心情で生きていくと決心した。。。

人間から受けた傷でより自分の自我に追い立てられながら自分だけの城を築いていく。しかし、その城がもっと丈夫になり高くなるほど寂しさと、自己虐待も成長する。私は誰なのか?この世界に希望はあるのか?不条理な人生は何の意味を持っているのか?などの質問が自分の中でずっと起こるが、その脱出口は見えず、その中で生まれるガスにより息ができなくなる。

「悩む力」で中さんの、自分の城を建てる者は必ず破滅するという言葉を引用しながら、自我というのは他社との関係の中でだけ成立し、人との関係の中での「私」というのが存在するから「相互認定」以外の他の方法はないと主張している。だから認定を受けるためには自分を他社に対して投げかけることが重要だと言っている。そして、ライフスタジオが2010年の主題として決めた真正性に対する強い動機を付与するメッセージを伝えている。

[「真剣に悩み真剣に他社と向き合うこと。そこに何かの突破口があるのではないか?どちらにせよ、自我の悩みの底を「真剣に」ずっと深く掘り進んでいくとその終わりがあり、他社と出会える場所に到達できるでしょう

韓国の映画「ハッカ飴」で自殺直前まで窮地に立たされた主人公に、昔の初恋の彼女の旦那が探してくる。借金取りが送った人だと思い、彼に銃で脅しにかかるが、その旦那は彼女が死にそうだということを話し、死ぬ前に一度あなたにあいたいといっていると伝える。病室を訪れ遅い再会をし、涙を流しながら彼にカメラを渡す。写真に関心があったあの時期の主人公を記憶しながら大切にしていたカメラだった。主人公はカメラを売り、そのお金でパンと牛乳を買って食べた。後ろを汽車が過ぎながらカメラに入っていた昔のフイルムを見ておんおん泣いた。その純粋な記憶の象徴物であるカメラと、年月の流れを暗示する汽車と、現実を示すパンと牛乳があった。彼の涙は告解の秘跡とも似た、自分の自我を確認していた。

熾烈に喧嘩しながらその深くに隠れている自我を引き出し、いろいろな定義をする。結局その定義が真正な何かになるためには、人との関係の中で証明される。人との関係は自信の必要に応じてだけなされるのではなく、いつでも私の位置を守っている灯台とも似ている。それなのに、私達はそんな練習が何故できないていないのだろうか?

「心」では一緒に、若干の神経衰弱まではいかなくとも、携帯でメールを送るくらい当たり前になるのが当然の事なのではないだろうか?

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それは、出会う全ての人が生きている証を確認できる場所になること。
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