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喪失の時代 村上春樹
投稿日:2010/11/26
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離れなければと考えるのは大切なものがあるからだ。
その大切な対象の大部分は自分の自我であるだろうし、その隣にくっついて寄生するものを捨てるためである。だから得ることよりも捨ててくるという表現があっていると思う。
体と心が相当疲れていた10年前のある日、フィリピンへ行った。何故フィリピンへ行ったのかはわからない。エメラルドと海にヤシの木に囲まれた地上の楽園での休息を考えながら、それがフィリピンだと考えたのだと思う。そのまま飛行機に乗り、マニラに到着しタクシーに乗った。日本円で500円あれば行ける距離を、20,000円払えという。そのタクシーの運転手は哀願と脅迫を混ぜながら「ぺチャラ」と叫んでいた。結局10,000円程度で降りた。後味が悪く、おなかもすいた。ハンバーガーで空腹を埋め、歩き出した。約15時間くらい歩いた。暗くなり、また明るくなるまで歩いた。民家の町も見て、首都高速のような車しか走らないような道を歩き、フィリピンの人と話したりもした。
どの国でも都市の夜と夜明けに見える風景は似ているけれど、全部違う。だから、その夜明けの姿を見ると旅行の半分は大体終わっている。
朝11時くらいについに韓国料理店を発見し中へ入った。そこで韓国の新聞を買い、韓国人が運営する下宿先をみつけた。その下宿先には本棚があり、約100冊程度が並べられていた。その下宿先の主人が長老だからか大部分がキリスト教関連の本であり、民間人の本は20冊程度だったが、その本棚の中に村上春樹の本がたくさん入っていた。その長老の息子が村上春樹を好きだと言った。そこに「喪失の時代」もあった。
その当時韓国でも村上春樹烈風が起こり、少したった後だったので酒の席でもたまに話題になっていた。私はそれまであまり読んだことがなかったため、良い機会だからと、食事をし部屋で読み始めた。朝遅くに起きて本を読み、ご飯を食べまた本を読み、暗くなつたらお酒を飲みに行くという生活が1ヶ月間続いた。
フィリピンへ来て1週間ほどで、その部屋にあった村上春樹の小説4~5冊全てを読んででた結論は「なんだこれ?」。
私はいつも2つしかないように思う。心の底から感動するか、「何だこのゴミのようなものは!!」と完全に無視するか...単純に生きてきたからか悩みもあまりないというのがそれでも長所といえば長所だ。
期待していなかったため、「何だこのゴミのような物は!!」とは言わなかったが、「何を言いたいんだ」というようなことを言った気がする。その4~5冊の本が何故か1冊の本のように感じた。
そして、約1年前村上春樹の「1Q84」が出版され、また韓国に村上春樹烈風が起きた。だからその本も買って読んだ。水準が高くて私が理解できないのか、でなければこの本が水準が低いのかわからないが、最後まで読みながらもう一度10年前と同じ言葉を言った。
「なんだこれは?」
そしてギャラリーへ行き「喪失の時代」をもう一度読んだ。
10年前に読んだ時は一種の拒否反応を示していた。私の周辺をいくら見回してみてもあのような音楽、あのような本、あのようなお酒を飲む人はいなかったし、自殺する人もいなかった。多分、とても「クール」に生きている主人公の人生に心がねじれたからかもしれない。適当に消費し、適当に楽しみながら、自分なりのロマンスを楽しむその主人公、そして当時の社会問題を適当に避けていく姿に、自分とは違う人生だというように思った。今は少し読みやすくなったが、その拒否反応はまだ残っている。少し歳をとり、「お前はそうやって生きろ」と硬い意地ができたからか、こんなウイルスを発見すると、見て見ないふり、ただ通り過ぎていくのかはわからない。どうあるにせよ、その異国的で都市的な表現がこの本をベストセラーになったことに少なからず影響を与えたであろう。
主人公渡辺はキズキという高校の親友を失いながら世の中と断絶される。彼の唯一の楽園は、本と音楽、そして一人で考えている時だ。しかし人生と世の中を結ぶのはキズキの彼女である直子...しかし直子も彼が頼るにはとても弱く純粋だ。キズキの死という喪失の前に、彼女もだんだんと死んでいく。そして喪失という大した事でない幼い子供のままごとのような事をしながら、知り合いの先輩と心に傷を持っているが、明るく生きようとするみどりという女学生が登場する。この2人との関係の中で自分が守ろうとするものに対する、執着と虚像を経験しながら少しずつ成長していく。直子が死に、彼の病気の看護を手伝ってくれたレイコとの 정사 を最後に渡辺喪失の時代1部が幕を下ろす。
傷つきやすい10代にとって死とは、彼らの人生をことごとく変えていく素材になる。その衝撃の中でどうやって人間は妥協し、守り、時には自身の命の代わりにその孤独をなくそうという姿をよく見せてくれている。その死と愛する人との別れが絶妙に調和を成しながらストーリーが進む。死と試練という二つの措置は人に大きな喪失として歩み寄り、その喪失が私達に来た時、各人物達は、お互い違い、又は同じ反応をし、その過程で成長し、挫折しもう一度起き上がる過程を作者の文章力で私達にうまく見せてくれている。この本の後ろに乗っている感想ノートに、詩人であり、文学評論家であるキム ジョンランが「とても美しく、軽いけれど、でもその全ての物は完璧な象徴的処置の中に配置されている。」という主張に同意する。
喪失を一度経験すると人は甘い誘惑の前に、少しためらうようになる。諸論、本論、結論と流れる過程で本論の後半から始まる喪失の影がとても辛いが、それを受け入れる感覚機能の発達状態により、行動の優先順位が変わってくる。特にそれが異性間の愛という素材になるならば、よりそうであり、人間に対する礼儀と欲求本能の優れた才能の中で迷う人間は本当に妙な状況を演出する。バランスを保ち適度に越えるとシナリオはできず、その後に訪れる冷たい風を堪えるのがつらい。全て過ぎてからもう一度考えてみるとこう考えることができるが、血が沸き立つような若者はもっと無防備でその衝撃はとても大きい。しかし、それは通らなければならない宿命と同じである。その宿命の前に自身の中にあるその空気の塊を見つめること、それが喪失の時代を生きていく若者の人生だと考える。
誰でもこのような似た経験を持っている。自殺まではいかなくとも、人間の存在、そして試練、欲望、社会的人間になるための練習の過程で、自分の中で湧き上がる風との衝突は避けられない。
私も高校生活の間中、一人で空を見上げている少年であったし、大学に入ってからも1年間は一人でいた。図書館へ、山へ行きながらわざと外面的にもがいていた。女性と付き合い、別れ、社会に抵抗しながら傷つけられ、物理的暴力の前に膝をつきながら少しずつ強くなりながらも、みじめにもなっていたように思う。良く言うなら成長であり、文学的に言えば喪失の時代であり、悪く言えば「死にそうだ」だった。
過ぎたことだから、それを美しく包装できるが、その当時の状況は辛い1日1日だった。
もう何を見て、読んでもその時のように興味を感じることは少なくなった。最近映画でどのようにしてより残忍に殺すことを描写できるか競争しているように、感覚に訴える社会の雰囲気に合わせていっている。末梢神経の刺激で眠っていた感覚器官に訴えることも思いのほか鈍くなった。
それならば、離れる方法しかないように思う。見知らぬ場所へ。
この本を読みながら重要だと思う文章を集めてみた。
“私が今までの人生の過程で失った多くのものを考えてみた。失った時間、死んだり離れて行った人達、もう取り戻せない思い出達”
“その時は何をみても、何を感じても、何を考えても、結局全てのものがブーメランのように自分自身の手に戻ってくる歳だった。”
“キズキが死んでから、高校を卒業するまでの約10ヵ月の間、私は私を取り巻いている世界の中で自分自身の位置をはっきりときめることができなかった。”
“東京に上京してきて寮に入り、新しい生活を始める時、私がしなければならないことは一つしかなかった。全ての物を深刻に考えないこと、全ての物と自分自身の間に適度な距離を置くこと。それだけである。”
“しかし、いくら忘れようとしても、私の中に何かぼやけている空気の塊のようなものが残っていた。そして、時間が過ぎるにつれ、その塊は単純でありながらもはっきりとした形を持ち始めた。私はその形をこの言葉でしか表現することができない。それは、これだ。
死は人生の反対側にあるのではなく、その一部として存在している。”
“私はいつもそのような沈黙の空間にきらきら浮かぶ光の粒子を見つめながら、自分自身の心を確認しようと努力してきた。一体私は何を探しているのか?”
“その歪みが呼び起こす現実的な痛みや苦痛を適切に自分の中に定着させられず、また、そのようなことから遠く離れるためにここに入ったのだ。”
“その火花は私にとって焼け残った霊魂の最後の震えと同じものを連想させた。”
“初めにも話したが直子を助けるという考えを捨て、あの子を回復させながら自分も回復できることを願うのだ ”
“成長の苦痛とはね。私達が支払う時に代価を払わなかったから、その督促状がきたんだよ。だから、キズキはああなって、私はこのように今ここにいるんだよ。私達は無人島で育った裸ん坊の子供のような存在だった。おなかがすいたらバナナを食べ、寂しくなったらお互い抱き合いながら眠ったんだ。だけど、そんなことはいつまでも続かないだろう?私達は成長し社会の中に出ていかなければいけなかった。だからお前は私達にとって重要な存在だったんだよ。お前は私達2人と外の世界を繋げてくれる、鎖のような意味を持っていたんだ。結局はうまくいかなかったけれど。”
“渡辺も私のように本質的には自分にだけ興味を示す人間なんだ。”
“彼女が起こした私の心の中の渦がなんだったのかを理解した。それは埋まることのなかった、そしてこれからも永遠に埋めることのできない少年期の喜びとも同じことだった。
そして私は今よりももっと強くなる。そして成熟した人になる。大人になるんだ。そうならなければいけないから。今まではできるなら17、18の姿のままでありたかった。だけど今はそうは考えない。私はもう10代の少年ではないのだから。私は責任というものを感じる。おい、キズキ。私はお前と一緒にいた時の私じゃない。私はもう20歳になったんだ。そして私はずっと生きていくための代価を払わないといけないんだ。
私は一体これからどうなるのだろう。私を取り巻く世の中はどのように変わるのかを熱心に考えてみた。
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