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この1枚の写真-4 [愛亜]

投稿日:2010/4/29

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写真に携わる人間は2種類に分かれる。

自分の写真を誇りに思う人間と、恥ずかしいと思う人間・・・

 

写真の技術をもっての話ではない。

自分の基準は、被写体に最善をつくせたのか?または、被写体の心の中に入りこむことができたのかということを基準にしているため、いつでも恥ずかしい。

写真の技術は相対的な概念だ。

自分が、他の誰かよりも技術的に上だから自慢することができても

人の中にはいっていくということは絶対的な基準である。

だからその目に見えない絶対性まで追求するという論理は、それ自体が成立しないのだ。

したがって・・・私の写真はとても恥ずかしい。

 

なみに初めて出会い、いろんな話をして日本に一緒にいって少し親しくなり、

一緒に仕事をすることになって、韓国でなみの娘である愛亜の撮影をすることになった。

 

愛亜を、愛亜として受け止めたのだろうか?

 

日本で写真に対してはオーバーな話を繰り返し

過去になみのウェディングの写真を撮って私の写真の技術を知っているため

なみの写真に対する基準を超えていこう・・・と、努力をしてみた。

愛亜を、愛亜としてみるのではなく

なみがもっている写真の基準を超えるために・・・・という目標がそこにはあった。

技術的にはどうだったかわからないが、恥ずかしい事実である。

 

撮影した写真を見ながら、なみはとても喜び

その反応を見て、その瞬間少しは舞い上がっていたが

今思えばとても恥ずかしい。

どこに基準をおくかによって、その人の人生が決定される。

私たちが知っていることは、幼稚園ですべて学んでいることであり

方向性の設定によって、それ自体が芸術になっていくかどうかの境界線が引かれていく・・・

 

この1枚の写真は愛亜特有の「凛」とした表情だ。

母親としてこの写真を見たとき、とても喜んだ記憶がある。

その当時、愛亜の特徴は「凛」だった。

周囲を見渡し全身で警戒をしながらも、自分の主体性をもっている・・・その表情こそ、

その当時の愛亜だった。

母親と、私がしっている愛亜が、写真に現れているのだ。

 

だから、技術は2番目だと考えるのだろう。

その、「凛」は、写真の技術では作ることが出来ないからだ。

愛亜だけが知っていて、私たちはそれを発見したに過ぎないのだ。

 

 

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