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冷静と情熱の間

投稿日:2018/4/27

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姉と義兄が日本に来ました。姉とは7歳年の差があり、幼い頃は母よりも恐ろしい存在でした。小学校高学年までお風呂にいれてくれ、ほうきで私のことを叩きもしました。ところが、よくありそうな兄弟の思い出のようなものはありません。社会生活をしながらも、特別に関係を形成したこともありません。義兄とも祭事や誕生日に、年に一度か二度会う仲でしたが、男として格好よく素晴らしいと思っています。特別な理由はないですがそう思うのです。。

姉と義兄には、ただ申し訳ない気持ちがあります。互いにやり取りがあったわけではないですが、ただ申し訳ない気持ちがあります。弟として、義弟として、社会で通用する一定の役割や責任を果たしてきませんでしたが、それだけでは説明できない申し訳ない気持ちがあります。社会が提示する固定観念から抜け出さなければならないと思いながら生きています。兄弟だから、姉と弟だから、最小限の何かをしなければならないということが嫌でした。私と一緒に仕事をする仲間と、姉との仲に、差がないと思っています。一緒に過ごす時間や経験が多ければ、それだけ情が行くものであり、関係を設定する場数が多くなるのであって、単純に兄弟という理由で連絡を頻繁にしないといけない理由を探したくはありません。姉は姉であり、義兄は義兄であり、私は私です。[それでも家族だから信じられるんだ]という質問を受ける時は、ただ笑って返します。事実、父、母、姉達にも同じ考えです。

しかし、なぜか姉と義兄には申し訳なさがあるのです。今回の2泊3日の旅行の中で義兄が私にこう言いました。[義弟。。。私が今まで義弟に何もしてあげられなくて本当に申し訳ない。]この言葉を聞いて気分が良くありませんでした。私の心がばれてしまったかのようでした。私が姉と義兄に対して申し訳ないと思っている気持ちと、義兄が私に言った申し訳ないという言葉はさほど違いはありません。私が持っていた申し訳ない感情は他のものだと防御線を張っていたのに、いざ義兄から申し訳ないという言葉を聞くと、同じものであったと思いました。既存の慣習から抜け出したいという漠然とした考えと責任と権限の関係を混同したのではないでしょうか。人は誰でも自分の合理化をしながら生きていきます。世界平和の話をしても、人類共栄に貢献するという名分を持っているものの、その中を覗いてみると、自分の合理化の変奏です。自分の論理を強化すればするほど見えてくる薄っぺらい姿が表れてきます。姉と義兄と2泊3日を一緒に過ごしながら、たくさんの考えが交差し、空港で別れ家に帰る途中、何か鮮明になる感覚がしました。卑怯な手段を使う達人ではなく、単純で明快な率直さが良いということ。私が姉と義兄に持っていた申し訳ないという感情は、兄弟という固定観念でもなく、人間関係で発生する自然な現象であり、それを包むことで発生する不均衡さなのでした。それでも子供の頃の多くの経験があり、その間に、父もいて、母もいて、大きく小さな繋がりとなっています。。

姉がこんなメールを送ってきました。[横も見ながらゆっくり行こう。。。]

日本旅行は姉にとっても何かいろいろあったのでしょう。遠くも近い弟を確認したであろうし、感謝の気持ちともやもやした感情が共存する。。。私もそうです。。。

人が人を人としてという言葉をむやみに言ってはいけませんが、大切に隠す理由もありません。何であれ私に来る刺激と反応を純粋に受け入れ前に進むしかありません。
 

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それは、出会う全ての人が生きている証を確認できる場所になること。
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