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「写真人文学」第5章 エリアーデの原初

投稿日:2018/2/20

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写真人文学
第5章 エリアーデの原初
:永遠の回帰に向かったメタ時間
 

 
写真を読む時、私たちは普遍的になれるのか。



 
「宗教学者のエリアーデは、近代性とは必ず治癒すべき対象であり、その近代の崩壊を原初的時間の中で治癒しなければならないと信じている。そして世界は人類が忘れている神話の世界であるという。」
 
写真人文学の本文の一部にこんな話がありますが、これは一体どういう意味なのでしょうか。

一般的に治癒は薬を飲むか病院で手術を受けることだと思いますが、彼は神話の世界で治すべきだと言っています。宗教は遠い世界のものですし、よく分からない分野ですが…。しかし、本の中には宗教の話が続けて出てきます。分からないから飛ばしながら読みますが、何度も出てくると困ってしまいます。だけど多くの人が認めている学者の話だし、学問的にも体型が整っているので何があってもあるだろうと信じるしかありません。なのでまずは単語の意味を理解するところから初めてみようと思います。憶測と無理やりの解説で間違った結論に至るかもしれませんが仕方がありません。
 
本文の中にこういう話があります。
「すべてが聖と俗に別れた世界。人類が向かった太古の時間の「あの時(illum tempus)」は全てが生まれた母胎である。だからその中では私たちが見習い、従うべきである一つの原型がある。その神話の中の原型から世界は成り立ち、その中で人類はヒューマニズムを具現し、つまりそれが人類の求める理想の世界なのである。」
 
子供が生まれたとしましょう。いや、その前に子供が初めて出来る過程を考えて見ましょう。父と母の愛によって、生死と卵子が出会い最初の細胞が作られます。その中にはこれから生まれる子供の未来が含まれています。腕は二つで、鼻は一つのはずです。息をして光に対する反応で世界を認識する目を持つことになります。太鼓の時間、遠い遠い昔であるその時、初めて作られるその瞬間から決まっているものがあります。その子の顔や身体、そして内部の機能は父と母が愛し合うその瞬間からすでに設定されています。しかし、子供が成長する中で父と母の影響を受け、環境に適応しながらいい人にもなれるし割る人になってしまう可能性もあります。最初に作られた時の純粋性、世の荒波に揉まれ「変質された私たち」が見習い、従うべき原型は母のお腹にいたその瞬間のものかも知れません。人は、毎日そのことを意識している訳ではないけれど、根本に関する質問をしています。複雑に絡まっている人生の中で何か根本的で単純な正解を探したくなります。心配や苦痛のない、一番平穏だった状態を想像します。現代社会が盲信してやまない合理性というものも時代が産み出した産物であり規則に過ぎません。昨日の基準が今日も当てはまるとは限らないし、明日はどうなるか分かりません。その時その時の基準に合わせて修正し、常に誤謬を犯しながら生きているとふと根本的な何かを求めたくなります。エリアーデは最初に作られた原型というものがあり、そこにたどり着くことを「永遠への回帰」という単語を使って説明しているようです。近代性が現在の私たちの持っている常識なのであれば、その常識によりたくさんの問題が発生しています。それを資本主義が持っている根本的な問題だと指摘する人もいれば、人間はそもそも自分しか気にしない利己主義の塊だと解釈する人もいます。エリアーでは原初的時間の中に治癒の方法があると言っています。ではさらに深く彼の理論に近づいて見ましょう。
 
「宗教はどんな外部要因も侵害できない領域であり、どんなものでも還元できない永遠の時間の中にあるものである。だから人間、社会、物質、変化などでは解釈できないし、そう解釈すると絶対まともに理解出来ないであろう。ただ、その理解は原初的概念に対するエポケー、つまり「勝ちに対する判断停止」、そして現象としての技術を通じて成されるべきである。従って、人間が解釈しなければならない究極的な目標は宗教的人間の行動と精神世界の理解のみである。その中でエリアーデは原初の統合的行動のみを関心の対象としていて、その行動が社会の中でどう発現され、機能され、結果を生み出すかについては価値を置かない。ただ解釈があるだけで、分析はあり得ない。つまりエリアーデの宗教解釈は人類が共通的に持っているものと分類される。その類型が持つ性格はエリアーデの思う原初的神秘主義の中で各自の現象に差別化し理解される。そうすることで特定の信仰と行為、そして経験の価値と意味が互いに比較され解釈される。」
 
世の中には無数の宗教があります。宗教は世の中の始まりを話します。原初的な根原がどこにあるかという主張から種類が分かれます。始まりは一つしかないはずなので、誰かは嘘をついてイタリ、もしくはみんなが嘘つきなのかも知れません。色んな宗教と仮説が存在していますが、とにかく始まりはあったはずで、その始まりには何の不純物もない人間の理想的な世界があるはずです。だから神の話、世の中が作られる前を描く「神話」は事物の原型が存在している可能性について語っています。
 
混乱なことがある時、「あなたが最初にこの仕事を始めた時を思い出して見てください。あなたは一体何がしたかったでしょうか。何もないまま始めたその時、あなたが本当に求めようとした理想があったはずです。それを基準にいまを判断して見て下さい。」のように人を励ます言葉がたくさんあります。自分の成り立ちを考える時、自分を生んで育ててくれた親と置かれた環境を見返すことが多いです。貧しかった幼少期の思い出や、お酒を飲んで母に暴力を振った父の顔、いい大学に行くことだけが唯一の目標であった社会で負犬として疎外された記憶などが浮かびます。現在の自分を説明するために遡ってこの結果を生み出した根本的な原因を探します。時には言い訳になり、時には極的な和解のきっかけにもなります。エリアーデは社会に通用される基準で原初的に根原に対する分析は不可能であり、ただ原初的概念を含んでいる神話の中から比較・解釈することで何か紐解くことがあると言います。宗教に対して人間がとる行動と精神を比較すると解釈できるということです。宗教でいる論理とはつまり「信仰」です。分析出来ません。神様が世の中を作ったはずなのに、水を、火を、いつ、どうやって作ったのかを分析することほど無謀なことはないでしょう。神様がそれを作る光景を目撃した人もいなければ、当時人間がどう生まれたかを記述した歴史の本もありません。結局、人が主教に対する態度と行動、その家庭の中で生まれる精神世界を類推することしか出来ません。例えば、どの宗教にも「天」は必ず登場します。天は高く、変化し、常にそこに存在します。どうしようもない自然の力を目の当たりにして、無気力な人間は天に対する神聖性を付与します。また、特定の大きさや形をしているものに宗教的意味を付与して、永遠への道を作ろうとします。各地域にある神社や、何百年を行きつつけている樹木、特別な形をしている石などは永遠の時間や根元を思い出す刺激物になり、さらに各種の物語が加わって時間と共に神聖性が増します。このように人間が作った神に対する象徴物は永遠の回帰を求める全ての人間に、自分は無神論者だという人でさえ持っている、誰にも教わってないけれど何故かしつこく根付いている原初的世界に対する想いがつまり宗教の源になります。
 
エリアーデは世界を聖と俗の対立と見ています。原型に当る聖があり、その聖から派生して現在で変化した俗があります。俗が聖になることを聖賢と言い、そういう過程を通じて真理に近づく事ができると説明します。世界を把握するのは観念や科学的調査では不可能で、ただ直感による没入の経験を通じてこそ可能だと言います。時々街を歩くと出会う「神様はあなたを愛しています」と説破する信徒の論理が思い浮かびます。毎日神様に祈り続ける事で主を受け入れる事ができ、その主の御心に沿って生きていく宗教人たちの論理として正確に合致するエリアーデのお言葉です。聖の側面から見ると聖しか映りません。俗の人に聖を話し、それを受け入れてもらうのが宗教人にとっての真理です。
 
ではここまで話したエリアーデの話が一体写真とどんな関係があるのか気になります。この章のタイトルが「写真を読む時、私たちは普遍的になれるのか」です。宗教は私たちの生活の深いところまで入っています。韓国の場合、宗教を持っていると答えた人が人口の50%を超えるという調査結果があります。日本でも七五三シーズンに神社へお参りに行ったり、パワースポットなど町を代表する象徴物が存在したりするのも宗教と紐付いています。人間は弱い存在です。明日どうなるか、現在の自分は何か、規定できない場合がほとんどです。基本的に不安な状態で行きていくしかありません。だから何かに頼りたくなるのは人間の本性なのかもしれません。あるアンケートでは「宗教を持ちたい理由」に心の安らぎを求めるためという答えが70%近いという結果がありました。身体が弱ったり、周りに悪いことが起きたりする時主に宗教に頼ります。常に変わらない、私たちの人生を支配する絶対者に近く事で心の平安を取り戻そうとする心理があるのです。しかし、宗教は信仰を基盤としています。なぜなら証明できないからです。エセ宗教が繁盛する条件の一つにこの人間の弱さがあります。証明できないけれど信じるしかない、ということは現在私たちが作った常識や技術、社会で通用される基準では説明が不可能です。変わらない絶対者、現在の私たちでは知り尽くせない現象を作った最初の設計者に縋る心理と、証明できないしただ信じることでしか神に近づく事ができないというのが宗教の限界である同時に可能性です。カメラを持って自然の中で撮影した事がある人はわかると思います。名の無い葉っぱや花をファインダー越しに覗いているとある種の畏敬のような感情が起こります。どこからきて、どこへ行くのかを知りたくなります。何か意味を探そうとしても答えは出ません。会議や討論で出てくる単語や論理では説明しきれない感情に巻き込まれます。「何か」という疑問自体が自分の狭い世界観を反映しています。私が住んでいる世知辛い世の中の基準で、名も無く咲いている野花の意味を探すことはできないことに気づきます。人間と社会、物質と世の中が作り出す無数の構成要素に対する分析はちっぽけな人間のわがままにすぎません。この全ての根底に流れている本質に対する質問が残ります。永遠とは何で、あなたはそこで何をしているのか、というちょっとセンチメンタルな考えに移ります。現在当面している問題を乗り越えると、このような分からない永遠の世界を語るようになります。こ子まで来ると永遠に対する専門知識で溢れている宗教が入ってくる隙間ができます。直感による没入の経験を日常的にする人にはエリアーデが言うように世の中が聖と俗に別れて見えるかもしれません。私たちが言う普遍性というものも現在を住んでいる私たちの基準による普遍性です。証明できないけど信仰で構成されている永遠の世界から見ると、普遍性は嘲笑われるものかもしれません。
 
撮影者は基本的に被写体の存在を証明しようと努力します。被写体は私たちの観念の中であれこれの料理の材料になります。結局私が持っているフォルダーの中でしか存在の証明はできません。ある程度はそれが普遍性を持っているとさえ言い張ります。しかし、もう一歩踏み出して撮影をしてみると私が持っている基準とは間違いだらけだったことに気がつきます。普遍性も結局は私の恣意的解釈が作り出した偏見です。その存在たちの中でゆっくり流れている永遠に対する渇望は常に存在します。永遠に関しては宗教が専門家であり、その隙間から入り込む可能性を持っています。エリアーデは直感を通じた没入の経験によって聖の世界を認識できると言いました。聖と俗の弁証法的な関係を通じて真理に近づけるとも言います。私の目の前に見える数千万の存在を普遍性で規定しようと心がけるけど、たちまち諦めて、永遠のものを求めると最終的に出会うのがエリアーデであり宗教なのでは無いかと思います。
 
まるで覚醒剤を飲んで幻覚状態で撮影されたようなボワっとした写真を好む撮影者たちがたまにいます。その大半が論理よりは直感に充実しています。また、そんな写真がいい写真のようにも見えます。説明はできないけど何か気を引くような写真は魅力的です。自分の直感と瞬間の感じを言葉で説明するのは難しいです。直感を通じた没入の経験……。写真を構成する一つの要素であることは間違い無いです。
 
 
 

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