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「写真人文学」第4章 カントの主観
投稿日:2018/1/4
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写真人文学 第4章
カントの主観
:創造性の近代的領域探し
全ての写真は近代的なのか?
「写真人文学」には難しい言葉がたくさん出てきます。知らない単語が羅列された文章を推測・類推しながら読みほぐします。パズルを合わせていくうちに「これかな?」という希望が見えてきます。その希望とは、正しい何かを探すことではない。つまり答えは無いということです。ある哲学者は目と耳の事を指し、ある哲学者は心臓が大事だと強調します。しかし、目も耳も心臓も結局は私という人間を組み立てる色んな要素の一つなので、その一つ一つに対する羅列になるのです。撮影をしながら積もった小さいかけらが「アウラ」の概念で整理され、「プンクトゥム」で確認されます。今まで見て、聞いて、感じたことが一つずつ整列されながら単語になり、概念が作られるのだと思います。その単語と概念の中からなぜか親しみを感じたり、心地いいと思ったりするものが発見されます。それが私なのか、またはそれが現在の自分の段階なのかを考えるようになります。今まで歩んできた過去が地図として書かれ、その地図の形から自分を発見する楽しさがあります。
今回の第4章の内容もそうでした。
古典主義の限界を指摘するカントを取り上げながらモダニズムと実存主義を説明します。古典主義は調和とバランスの洗練された形式美を強調する芸術だそうです。本質を明確に表すのが美しさとみなされるので、正確な比率と一定の規則を重要視しました。撮影の時によくあることが被写体に対する凝視です。子供の上半身がフレームの中に入ってきた時、その子の何かが感じられます。カメラを巧みに操るより自分が感じた感情を的確に引っ張り出さなければならないと思っています。比率とバランスを考慮してシンプルにその子を撮影しようと心がけます。思ったよりこういう場合が多々あります。邪魔くさいものを排除してその子からもらったインスピレーションだけを表現したくなります。何だか、その子の本質に一歩近づく感じと言うか・・・。初めて撮影者になる人たちへ一番に強調するのが調和とバランス・正確な比率と一定の規則です。それが写真の基本だと説明しました。その基本を身に着けてから自分が求める、自分だけの何かを探せと言います。実際カメラ教育で一番問題になるのが写真館から提示される基本と自分だけの表現方法(=スタイル)の衝突です。写真館は一定水準以上の写真、顧客がこの写真館を選択した基準以上を表現しなければなりません。そうでないと問題が発生します。基本を拡張すると写真館で美しいとみなす基準です。その基準は調和とバランス・正確な比率と規則です。その基準からはみ出した個人の表現方法をどこまで制限するかによってその写真館の方向性が決まります。伝統を重視する写真館、着物撮影が主な写真館では古典主義的な傾向がはっきりしています。正しいとも言われる着物のラインの見せ方や、昔からのいわゆる定番のポーズを再現することに価値をおきます。しかし、時は流れ空間は変わります。撮影者は繰り返される同じような写真に渇を覚えます。撮影者は基本的に美しさを表現しようとする意思を持っています。美しさの基準は写真館にもありますが、各個人にもそれぞれあります。写真館の基準が各個人の領域まで至りきることはできません。ここで混乱が始まります。
この本にも似たような話しが出てきます。
「近代が始まり芸術は本質から脱皮して物質を通じた感情の創出、対象の喪失、現実の主体的な解釈、想像空間の創造、意味の排除などを一気に注ぎ込んだ。古典主義の真理を顕示する美学を根こそぎにしてしまった。そうしてヘーゲルが姿を消したところに現れたのがカントである。」
イマヌエル・カント
(1724~1804)
近代という言葉から難しくて頭が痛くなりますよね。近代以前は宗教が支配する世界でした。今で例えるなら今日から北朝鮮の金正恩体制が終わり、民主主義政権が始まるとしたら北朝鮮の住民にとっては全く違う世界が広がるのではないでしょうか。近代以前と近代はそのぐらい劇的な変化があったのではないかと思います。全ての基準は聖書と宗教の権力者にあり、市民・国民・主権などは立場がなく、人間はただ神様を無条件に信仰する下部ぐらいにされた頃でした。そんな時代が終わり、人間が主体として立つことで人間の理性と合理性が厚く遇されるようになります。神は一人で人間は数十億人です。当たり前のように多様性が生まれます。欲望と想像が「羽があえて飛ぶように」広がります。自分の個性とは関係なく決まった宗教の内容に自分をはめ込んだ人生から「自分は自分で、あなたとは違う」という人生の新たな基準が出来たから実に大きい変化が伴いました。感情・喪失・主体・創造・意味などが以前とは全く違う世界になったのです。着物の線を目立たせる為に極力シンプルな背景が良かったならば、これからは着物を着ている被写体と撮影者という両者が主体になり表現の範囲と条件が変わります。
カントにとって美しさとは、認識ではなく快感であり従って芸術の本性は真理の内容にあるのではなく芸術の形式にあると言います。真理が1としたら、全ての人は1を取得した時美しいと感じるべきですがその感覚は人によって違います。美しいと感じるのは個々人ごとに違うので自分なりの方法を見つけ自分が思う美しさを追求すべきだと言います。だからカントは美しさとは手段ではなく目的だと言います。写真館で美しさを目的として接するということは当たり前のように聞こえますが実に難しいことです。制限された時間と空間の中で美しさを探すと言うのは高い技術と能力を要求します。相手が求める美しさと自分が感じ取る美しさの中にギャップが生まれます。そのギャップを静かに埋める同時に、自分の思う美しさを更に表現しなければなりません。だから写真館の写真が芸術のくぐりに入るのは贅沢な気がします。カントにとって芸術は自立性が必要であり、想像力の自由な遊戯です。この部分が現在のライフスタジオがぶち当たっている課題でもあります。店舗のインテリア工事をする時に撮影者達が自由に遊べる運動場を作らなければならないということと、特定のイメージが具現できる具体的な印低リアをしなければならないという二つが常に衝突します。写真館を強調すると撮影者達の自立性が殺され、自立性を強調すると品質の維持が難しくなります。だからこれでもあれでもない選択をしてしまいます。問題が発生しない程度で個人の自立性を配慮しようと心がけます。しかし、この言葉は「何もしない」と同じ意味を持ちます。写真館だからどこか目指していかなければならないという脅迫概念はありますが、特に写真の優先順位が高いわけではありません。誰か、もしくは一つの勢力がライフスタジオの次の写真を提示してくれることを待っている状態です。一つの勢力が全体に向かって何かを主張するためには大変な労力と能力が必要です。だから身動きが取れないままいます。
カントから始まった人間の理性と合理性はモダニズムに続きます。正直いまだにモダニズムが何かも良く分かりませんが、本分を移してみると
「事実主義は人生の実在を客観的で普遍的なものとして把握しようとしたが、モダニズムは実在を主観によって変わるしかないものだとみなす。したがってモダニズムは客体よりは主体を、外的経験よりは内的経験を、そして集団意識よりは個人の意識をより重要視する。今にモダニズムの作家達にとって自然と人生はこれ以上触れることの出来ない宇宙的有機体ではない。自分から始まる経験の世界に過ぎない。結局モダニズムは人間の兆件を実存主義的観点で扱うことである。」
モダニズムは既存の秩序に対する抵抗です。真実に近づこうとする意思です。既存の秩序に自分を当てはめると歪みが生じます。私は1なのに、2を演じなければならない境遇が多々あります。ここで1は人間の理性と合理性を武器とします。これも変化発展プログラムです。2は古いもので1は新しいものです。この新しいものは紆余曲折を経て主流になります。ここで1の動力は主体・内的経験・個人の意識です。だからモダニズムは自然に実存主義と仲良くなります。実存主義は私達全員が経験しています。各自は色んな名前で呼ばれます。誰かの母であり、友達であり、納税者であり、電車に一緒に乗っている無名の勇者です。たくさんの名前がついていますが、その名前が自分ではありません。ついた名前として生きていくのが慣れていて、普段は呼び名に相応しい行動をしていますがふとした瞬間「自分とは何か」を考えます。そういう考えは自分しか出来ません。実存主義は「人間とは何の理由も無く一人である」存在であると言います。徹底的な個人主義に基づいています。自分の人生が何者かによって決まっている本質的な存在なのではなく、意味と価値を自ら作っていく存在です。そうして外部の拘束から完全に自由になるのが重要です。ライフスタジオでいう自立もこれと多く離れてないです。「自らによって自ら自由になる」。実存主義が何かは良く分かりませんが「自らによって自ら自由になる」ことこそが人間の歩むべき道だと思います。写真が「自らによって自ら自由になる」ことに服すことが出来るのであればそれが芸術になる関門なのだと思います。ライフスタジオの撮影者達が同じ場所で同じ写真を刷り出している光景はこれとは合わないように思います。だから今は芸術を論ずる資格が無いのだと思います。私達が「写真人文学」を勉強する理由もここにあります。理想と現実があり、私達は毎日撮影をします。私達の写真はもう一つの私達を作る作業です。写真と私は個別に存在しません。私が撮影しているこの条件と環境、作られた写真から自分を発見することが出来ます。現在、何かが欠乏されていて個人の自由意志、無意識の通路として写真が役名を果たしていないのは事実です。瞬間の楽しさではなく、根源的な法則とその法則を使う過程で「自らによって自ら自由になる」ことが出来そうでもあるのに・・・この4章ではまさにそのことについて書かれています。
この章の主題は「全ての写真は近代的なのか」です。そして、最後にこんな文章があります。
「歴史的に見ると写真が近代主義と形成期を共にしているのは広く知られている事実である。従って全ての写真は近代的である。では写真は近代性が持っている批判と実存、そして創造性の世界と切っても切れない密接な関係を持つ。しかしながら写真は最初登場した時近代的ではなかった。つまり主観的になれず、存在者を模写する水準に留まるしかなかった。長い間、写真はその価値を切り下げられてきた。そうして近代の世界が本格的に始まり、今は近代性が言う物質性と歴史性を持つようになった。写真が模写を超えて再現と想像の世界に入り、その中で主体の役割が決定的に作用しはめた」
読んでも読み直しても何を言っているのか良く分かりません。写真が発明された時、多くの人がびっくりして(実際に)気絶するほどの衝撃がありました。当然なことです。有線電話を使っていた昔の人が、1人1つの電話を持って自由に歩き回る光景を見るのも衝撃的なことです。固定電話から携帯できる電話になり、個人の所有物になるまで世の中は目まぐるしく変化しました。絵を一枚描くのに何日も掛かったのに「パシャ」という音と共にそのまま写されるなんて、びっくりすることです。しかし、写真がコピー機だったら模写やら再現やら云々の話しも無かったはずです。コピー機はただコピーをするだけです。コピーの鮮明度や速度ぐらいで良し悪しを判断するだけで、それが芸術なのかモダニズムなのかを議論する必要はありません。しかし写真はコピー機と違い同じ場面を撮っても人によって出来上がりが千差万別です。絵も同じです。目の前の人を同じく描いたつもりでも、あるものは落書きにされ、あるものは数千億円で売れる作品になります。ここで芸術が登場します。写真が発明されてから間もない時はコピー機扱いをされました。しかし、撮影されるイメージが増えながら存在・真理・価値・表現などが重要なキーワードとして浮上されます。単純な複写を超えて再現と創造の領域に進入したのです。再現と創造をする主体はカメラでもなく、レンズでもなく、それを撮る人間です。カントが話していた人間の理性と合理性に基づく美しさ、モダニズムが話した主観・個人・内的経験、実存主義が話す意味と価値を自ら生み出さなければならないという人間の本質が写真に投影されるしかありません。器械が撮影するのではなく人間が写真の主体であるからです。
ライフスタジオにこの内容を適応してみると問題が複雑になります。写真館には写真に対するルールがあります。多くの構成要素が組み立てられて出てきたルールです。撮影者はこのルールに大体同意します。しかしこのルールはあくまでも現段階でのルールであり、死ぬまで守り続ける必要はありません。むしろルールは破られる宿命があります。ルールを破るのは写真館内の構成員達です。写真館の構成員は人間です。人間が美しさを受け入れ、表現する方法は互いに違いながら、似ています。時代によって同じという部分が新しく定義されます。この章では人間が個人として個別的に存在し、自ら目覚めて作っていかなければならないと言います。それが時代の区分としての近代であり、モダニズムと実存主義だと説明します。この章で一緒に考えるべき質問はこれです。
ライフスタジオの写真を支えている哲学的根拠は何でしょうか。
モダニズム?
実存主義?
それとも・・・人が人を人として主義?
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