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「Movie Story 7」フォレストガンプ
投稿日:2018/1/4
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Movie Story 7
「今は正しくあの時は間違い(Right Now, Wrong Then)」という映画があります。見たことはないけれど、タイトルが印象的でずっと頭に残っています。二重性に関する話です。命とも変えられる大切なものがあると、そうではない人は人間として認めなかった、そんな時期がありました。自分の主張の正当性を超えて敵と味方を区分する悪い癖はいまでも私の体の中に生きて動いています。悪いやつです。例えを一つあげて見ます。二十歳頃の時はコカコーラを全く口にしませんでした。アメリカに対する無条件な反対が支配していた時期だったから、コカコーラを「アメリカ製のクソ水」と表現しました。さらに約束があったバーガーキングの前で待ち合わせをする時は体がモゾモゾして仕方がありませんでした。今はわざわざマックを探して、ビックマックを思いっきり口いっぱいかじっています。当時もハリウッド映画を見るのは一つの楽しみでしたが、コカコーラは受け付けないという二重性が何とも言えません。
映画 「今は正しくあの時は間違い(Right Now, Wrong Then)」
過ぎ去った日々を思い出すと恥ずかしくなるエピソードばかりです。それは今でも同じですが・・・。人々にこれが重要で、これが核心で、他は妥協の対象ではないと言いながらも、自分には寛大で怠慢で、本質を濁らす蛮行を今日も行っています。「人が人を人として」をいつどこでも叫んでいます。この言葉の適応対象は目の前にいる他人であって、私自身はまるで完璧に実現しているかのように話します。「人が人を人として」を実現している自分が、そうではない「あなた」と(勝手に)既定した人々へ中に入って来いと叫んでいます。こういう風に自分の二重性が確認できる度に、私自身がとてもみすぼらしく見えます。幸いに、そんな瞬間を機会と思い、悔い改める時間を持つようにしています。「今は正しくあの時は間違い」と「今は間違いあの時は正しい」が変化発展プログラムの中で変化と発展のきっかけになるのは事実です。たとえ、それがつかの間の悔悟だとしても私が立っているこの世の真実と遭遇する大切な時間です。
だけど、常に人間が持っている二重性を警戒しなければなりません。
二重性の真実から背ける瞬間、俗物になります。
先日見た映画の感想を書くつもりが、懺悔の境地にまでなってしまいましたね。映画サークルで選んだ「フォレストガンプ」を見ながら「今は正しくあの時は間違い」が思い出されました。1994年の作品なので、当時の私は軍隊から除隊して家でごろついて日を送っていました。そんな時、感動とユーモアが絶妙に混ざり合ったハリウッドの代表作の一つだった「フォレストガンプ」を人生の映画として上げる人々も多くいるのではないでしょうか。私にもそんな映画でした。成功神話、やれば出来る、何か一欠けら足りない私たちを励ましてくれる映画でした。しかし、今改めて見直すとその時の感動とは少し違います。「今は正しくあの時は違う」のか、「あの時は正しく今は違う」のか、それともそもそも当たり外れは無かったのかさえ分かりません。「フォレストガンプ」はアメリカに対する憧れを最大化するための装置が巧みに配置された、よく作られた映画です。「アメリカンドリーム」はアメリカに対する最高の賞賛です。全ての人に均等なチャンスを与え、誰でも一生懸命に働けば必ず成功できるという「アメリカンドリーム」はアメリカに対する熱烈な支持の理論的根拠です。しかし、皮肉にも国の平等の程度を示すジニ係数で、アメリカは常に上位にランクされる不平等国家です。フォレストの成功はあいにく誰かの失敗があるからこそ可能なことであり、その都度発生する「運」というのは万人に訪れるものではありません。海老採り漁船の成功はハリケーンの影響で他の漁船が全てダメになった結果であり、軍隊でもらった勲章は小隊の全滅があったからこそ可能な結果でした。アップル社の投資が儲かったのは、それほど犠牲にされた投資者達がいた事の反証です。映画のような作り話に一々厳しいな、と思うかも知れません。しかし、1994年に見た「フォレストガンプ」は感動とユーモアの教科書であり、アメリカに対する憧れを内在化するのにぴったりの映画でした。なのに20年ぶりに見た同じ映画がとてもぎこちなかったです。ぎこちなさ自体を何とも説明できないのですが、ただそんなことを感じたと言いたくなりました。似たような映画が韓国にもあり「国際市場で逢いましょう」というタイトルですが、過去に対する懐かしさと同時に発生する歪みは仕方ないようです。映画を映画としてみて、2時間の娯楽として楽しめばいいことを、どうしても心残りがあってぎこちなくなるのは世の中を見る目が深くなったせいなのが、それともそこに自分の二重性を投影してしまったせいなのか分かりません。
映画 「国際市場で逢いましょう」
今は正しくあの時は違うのか、その逆なのかを知ることが出来るから映画を見るのではないかと思います。映画が持つ魅力とも言えます。多くの政治家が世に向けて叫ぶ話を歴代にまとめてみると、面白いほど二枚舌であることが分かります。蓄積された自分の文章をだいぶ時間が経ってから読み直してみると、当時の自分がどれほど無知だったのか、その時を逃れる為にどんな逃げ道をしたのかが明らかになります。それらを見るのも記録が持つ面白さではないでしょうか。時間が経ってから見る映画は心を厳かにさせる場合もあります。「ニュー・シネマ・パラダイス」でアルベルトがトトに残したフィルムのプレゼントは映画が持つ独特な役割を端的に見せてくれます。映画を作った人の意図とは別に、自分を投影して映画を見ます。主観的な自分の立場から映画を見ます。時間と共に変わった自分を確認するいい方法が、昔の映画を見直すことだと思います。
「フォレストガンプ」は経済的成功、幼い時の色あせない愛、人に対する無限な信頼や約束など人間が持つ希望とその実現を上手く表現した映画です。しかし、その背後にある影が見えました。同時に自分に対する二重性を考えてみました。今は正しくあの時は違ったのかも知れません。現時のみすぼらしい自分に対する抵抗なのか、それともまだ咲かせることが出来なったことに対するおねだりなのかかも知れません。だけど「私にも出来るかも」のような夢は見なくなりました。ただ、目の前にある現実を一つずつ着実にやっていくこと。早くホームページに内容を5つにしなければ、と思うこの頃です。
フォレストガンプ
「今は正しくあの時は間違い(Right Now, Wrong Then)」という映画があります。見たことはないけれど、タイトルが印象的でずっと頭に残っています。二重性に関する話です。命とも変えられる大切なものがあると、そうではない人は人間として認めなかった、そんな時期がありました。自分の主張の正当性を超えて敵と味方を区分する悪い癖はいまでも私の体の中に生きて動いています。悪いやつです。例えを一つあげて見ます。二十歳頃の時はコカコーラを全く口にしませんでした。アメリカに対する無条件な反対が支配していた時期だったから、コカコーラを「アメリカ製のクソ水」と表現しました。さらに約束があったバーガーキングの前で待ち合わせをする時は体がモゾモゾして仕方がありませんでした。今はわざわざマックを探して、ビックマックを思いっきり口いっぱいかじっています。当時もハリウッド映画を見るのは一つの楽しみでしたが、コカコーラは受け付けないという二重性が何とも言えません。
映画 「今は正しくあの時は間違い(Right Now, Wrong Then)」
過ぎ去った日々を思い出すと恥ずかしくなるエピソードばかりです。それは今でも同じですが・・・。人々にこれが重要で、これが核心で、他は妥協の対象ではないと言いながらも、自分には寛大で怠慢で、本質を濁らす蛮行を今日も行っています。「人が人を人として」をいつどこでも叫んでいます。この言葉の適応対象は目の前にいる他人であって、私自身はまるで完璧に実現しているかのように話します。「人が人を人として」を実現している自分が、そうではない「あなた」と(勝手に)既定した人々へ中に入って来いと叫んでいます。こういう風に自分の二重性が確認できる度に、私自身がとてもみすぼらしく見えます。幸いに、そんな瞬間を機会と思い、悔い改める時間を持つようにしています。「今は正しくあの時は間違い」と「今は間違いあの時は正しい」が変化発展プログラムの中で変化と発展のきっかけになるのは事実です。たとえ、それがつかの間の悔悟だとしても私が立っているこの世の真実と遭遇する大切な時間です。
だけど、常に人間が持っている二重性を警戒しなければなりません。
二重性の真実から背ける瞬間、俗物になります。
先日見た映画の感想を書くつもりが、懺悔の境地にまでなってしまいましたね。映画サークルで選んだ「フォレストガンプ」を見ながら「今は正しくあの時は間違い」が思い出されました。1994年の作品なので、当時の私は軍隊から除隊して家でごろついて日を送っていました。そんな時、感動とユーモアが絶妙に混ざり合ったハリウッドの代表作の一つだった「フォレストガンプ」を人生の映画として上げる人々も多くいるのではないでしょうか。私にもそんな映画でした。成功神話、やれば出来る、何か一欠けら足りない私たちを励ましてくれる映画でした。しかし、今改めて見直すとその時の感動とは少し違います。「今は正しくあの時は違う」のか、「あの時は正しく今は違う」のか、それともそもそも当たり外れは無かったのかさえ分かりません。「フォレストガンプ」はアメリカに対する憧れを最大化するための装置が巧みに配置された、よく作られた映画です。「アメリカンドリーム」はアメリカに対する最高の賞賛です。全ての人に均等なチャンスを与え、誰でも一生懸命に働けば必ず成功できるという「アメリカンドリーム」はアメリカに対する熱烈な支持の理論的根拠です。しかし、皮肉にも国の平等の程度を示すジニ係数で、アメリカは常に上位にランクされる不平等国家です。フォレストの成功はあいにく誰かの失敗があるからこそ可能なことであり、その都度発生する「運」というのは万人に訪れるものではありません。海老採り漁船の成功はハリケーンの影響で他の漁船が全てダメになった結果であり、軍隊でもらった勲章は小隊の全滅があったからこそ可能な結果でした。アップル社の投資が儲かったのは、それほど犠牲にされた投資者達がいた事の反証です。映画のような作り話に一々厳しいな、と思うかも知れません。しかし、1994年に見た「フォレストガンプ」は感動とユーモアの教科書であり、アメリカに対する憧れを内在化するのにぴったりの映画でした。なのに20年ぶりに見た同じ映画がとてもぎこちなかったです。ぎこちなさ自体を何とも説明できないのですが、ただそんなことを感じたと言いたくなりました。似たような映画が韓国にもあり「国際市場で逢いましょう」というタイトルですが、過去に対する懐かしさと同時に発生する歪みは仕方ないようです。映画を映画としてみて、2時間の娯楽として楽しめばいいことを、どうしても心残りがあってぎこちなくなるのは世の中を見る目が深くなったせいなのが、それともそこに自分の二重性を投影してしまったせいなのか分かりません。
映画 「国際市場で逢いましょう」
今は正しくあの時は違うのか、その逆なのかを知ることが出来るから映画を見るのではないかと思います。映画が持つ魅力とも言えます。多くの政治家が世に向けて叫ぶ話を歴代にまとめてみると、面白いほど二枚舌であることが分かります。蓄積された自分の文章をだいぶ時間が経ってから読み直してみると、当時の自分がどれほど無知だったのか、その時を逃れる為にどんな逃げ道をしたのかが明らかになります。それらを見るのも記録が持つ面白さではないでしょうか。時間が経ってから見る映画は心を厳かにさせる場合もあります。「ニュー・シネマ・パラダイス」でアルベルトがトトに残したフィルムのプレゼントは映画が持つ独特な役割を端的に見せてくれます。映画を作った人の意図とは別に、自分を投影して映画を見ます。主観的な自分の立場から映画を見ます。時間と共に変わった自分を確認するいい方法が、昔の映画を見直すことだと思います。
「フォレストガンプ」は経済的成功、幼い時の色あせない愛、人に対する無限な信頼や約束など人間が持つ希望とその実現を上手く表現した映画です。しかし、その背後にある影が見えました。同時に自分に対する二重性を考えてみました。今は正しくあの時は違ったのかも知れません。現時のみすぼらしい自分に対する抵抗なのか、それともまだ咲かせることが出来なったことに対するおねだりなのかかも知れません。だけど「私にも出来るかも」のような夢は見なくなりました。ただ、目の前にある現実を一つずつ着実にやっていくこと。早くホームページに内容を5つにしなければ、と思うこの頃です。
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