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「写真人文学」第3章 ハイデガーの存在

投稿日:2017/10/16

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写真人文学 第3章 ハイデガーの存在
:事物の再現ではなく存在の体験
 

 
写真はハイデガーの「存在」を表すことが出来るのか
 


現実で理性と感性はいつも自分の方が偉いと喧嘩します。理性的な分析により未来予測が出来ることに喜びを感じる人もいれば、自分の目の前にいる人との感情的な交流が本当の人間らしい姿であると力説する人もいます。世の中の全てのことがそうですが、時間と空間により理性と感性の適切なバランスが必要です。哲学もそういう側面があります。「写真人文学」の本によるとヘーゲルは「芸術とは、精神を表すものだ」と言うそうです。人間の精神世界を精巧に加工して合理的に表現することを芸術と見たのです。ヘーゲルが芸術作品を見たとき、自分の論理より足りない部分があれば芸術では無かったでしょう。前の章でロランバルトが話すプンクトゥムの概念は芸術とは程遠い、瞬間の気分だと無視されたに違います。近大が始まって芸術が週末を告げたという傲慢な表現もしたそうです。
 
ハイデガーは存在と存在者という概念で自分の論理を説明します。道を歩いて以前恋人と一緒に聞いた音楽が流れると自分でもよく分からない分泌物が体中に広がります。その当時、ドキドキしていた瞬間が思い浮かび、一緒に食べたトッポギを思い出しよだれが垂れます。不思議なことです。もう20年も前のことですが、いまだに彼女が自分の中に存在する気がします。彼女はもう、世の中のどこかで、誰かの奥さん、誰かの母親として生きているでしょうけれど、それと同時に20年前の私の記憶の中にも存在しています。では、私の中に彼女が存在していると言えるのでしょうか。存在とは「現実に実在としてある」ことです。現実に実在としてあることが存在ならば、私の記憶の中にいる彼女も実在として私の頭に残っているのでしょうか。もしそうならば、私の精神世界で彼女をいることから無いことに、無いことがらいることにすることも出来るのでしょうか。写真撮影にこの問題を代入すると問題はさらに複雑になります。よく、存在の証明が写真の役割だと言います。自分の目の前にいる被写体を複写することを超えて、目には見えないけれど被写体の中にある存在を撮影したいです。ではその中にあるというのはどういうことでしょうか。撮影された写真を分析して、文章に写す家庭でその存在者である被写体は一つなのに、分析によって規定されたその存在は無限大に近いです。分析する人によって違う存在が現れます。おかしなことです。被写体は一つなのに、みる人によって存在が変わるとは・・・。


 

Martin heidegger 1889~1976
 

 
「知」に対する態度が哲学だそうです。「知」に関して初めて浮かぶ質問が「ある・ない」です。あるならどんな形で、それが何を意味するのかを考えてみます。意味が明らかになるとその意味にどんな価値を付与するかを決めます。そして、行動します。このようにあること、そしてその実体が何であり、自分にどういう意味なのかを深く掘り下げてしくのが哲学だと思います。しかし、最初にぶつかる問題の「ある・ない」において理解できない部分があります。私の前に家族写真があります。家族写真があるのは分かりますが、その写真を見つめていると大昔家族と一緒に旅行に行ってあったことが思い浮かび、父親に会いたくなったり、訳のわからない感情にとらわれたりします。正直親と一緒に行く旅行はあんまり楽しくないです。義務に近いでしょう。だからだ当時はあまり感じなかったことが、時間が経って写真をみていると親への感情が改めて湧き出ます。自分の頭に無かったことが、あったことにする能力が自分にあるならば、人間の精神世界は神様同様ということなのでしょうか。
 
こんな問題を解決するためにハイデガーは存在者と存在を区分して話します。以前から何度も引用している韓国の有名な詩があります。良い文章だからもう一度移してみます。
 

 
人が来るという事は、実はとてつもない事だ。

彼は彼の過去と現在と彼の未来が共に来るからだ。

1人の人生が来るからだ。

壊れやすく、だから壊れもした心が来るのだ。

その思い惑う心はきっと風がなでてあげる心。

私の心がその風のようになれるなら、歓待を受けるだろう。
 
「訪問客」
金ヒョンジョン作


 
人が来ることは、実は数千万個の要素で構成された一人の人生が来ることです。数千万個の要素で構成されているけれど、普段は何歳で仕事はどこで、結婚はしているかの程度でその人を判断します。私たちの頭の中は早い判断と太初のための情報処理に慣れています。まず、男性か女性かを判断し、何を求めているかを把握し、空気を読んで適切な単語や表現を選びます。こういう過程を踏まないで最初から「あの人が一番好きな数字は何だろう」を悩むと関係設定は不可能に近いです。しかし、そんな一般的な判断や対処とは関係なくその人が見せる行動、単語、雰囲気、表情などが私の頭の中に入ります。その人は数千万個で構成されているからです。隠しきることが出来ません。数えきれない要素が送る信号は意識的でも無意識的では自分の中にセーブされます。会えば会うほど蓄積され、無意識の中で自分も知らない間に整列されたり、削除されたり、意見交換もされます。こんな過程を繰り返して自分の中の相手が色んな形で私の人生に関与します。いつの間にか、全然認識していなかったその人の違う面が思い浮かび、認識の転換も起こります。
 
「知る」ということはその人が結婚しているのかどうか、女なのか男なのかという明確な情報よりはその人の中にある、人には見せない、だけど人間なら誰もが共通的に抱えている本姓と本質、欲望と現実の間の葛藤に関する話ではなないでしょうか。この本ではこんな話があります。
 
「ハイデガーはそれを靴という存在者がその存在の非隠蔽生の中にはみ出たものだと説明する。ここで存在者が非隠蔽(ひいんぺい)されるのをギリシャ人の概念に従い真理と言い、その存在者の心理を非隠蔽することが芸術と言った。だから芸術は存在者を模倣や再編する存在者になる対象との一致ではなく、忘れられた存在、つまり目に見えないものを見えるようにすることである」
 
文章で読むと当たり前に聞こえますが、現実ではそうではないから問題だと思います。存在者は固定観念の固まりではないかと思いました。固定概念は個人と社会が過去から伝えられながら固まった数多い試行錯誤の結果物です。複雑な計算や論理的適合性を必要するものではありません。直下的に分かる水準で形成されます。固定概念によって関係形成が円滑になり、素早い判断と行動がきます。しかし、固定概念だけでは人間は生きていけません。一人の人間にも数千万個の構成要素があり、それぞれの要素には理由と名分があります。自らが大事な存在だと思うのと同じように目の前にいるこの人も大事な存在そのものです。固定概念は人生というシステムを維持される力がありますが、だからと言って人生の価値までを提供してくれません。計算機は計算をしてくれるけど価値を作ることはできません。その数字一つ一つにこもった意味が重要です。会社の会計担当者が誰かの給料を計算するために計算機を叩きます。計算機に出た数字が10だったら10を構成する数多い構成要素があります。朝起きて、電車に乗って、顧客におもてなしして、会社に勤めた期間や、日本の経済状況とも緊密につながっています。10が持つ数字が現実で自ら現れる瞬間が存在です。資本主義の犠牲者かもしれませんし、広告に騙された消費者かもしれません。もしくは家族を養う重い荷物かもしれませんし、労働のやりがいかもしれません。10が持つ意味が現れる瞬間が存在だとハイデガーは表現しているようです。苦労してiPhoneを買ったからと言って自分が今までとは違う何かになる訳ではありません。瞬間の満足で終わります。iPhoneは世の中と出会う道かもしれませんし、自分の人生において思い出の倉庫になるかもしれません。iPhoneは存在者でありiPhoneで活用される全てが存在です。価値はiPhoneを所有することにあるのではなく、iPhoneを私たちの人生に使う時にその能力が発揮されます。
 
自分の中に100があるとしましょう。人々は私を李社長と認識します。李社長という名前が存在者です。しかし、私の中には数千万個の要素が混ざっています。私も自分を分かりません。私の中にある数千万個は秩序良く、時には無秩序に人に近寄ります。人々は李社長という存在者が噴き出す存在の粒を受け取ります。その粒たちは各自の頭の中に入り、それぞれが持っている粒と比較分析したり、距離したり、時には一致することもあります。すぐつながるものもあれば、10年後のある瞬間ふと封印が解除される時もあります。その一致される瞬間が何か本質的で根本的で根源的な何かです。その何かが真理であり、色んな様式で表現されるとそれが芸術になるでしょう。その時代の多くの人が認めると芸術として崇めを受けることになり、千万人のうち一人が認めるならその人だけに芸術として残るでしょう。写真が芸術かそうではないかという質問がもう陳腐です。芸術は芸術家に与えられた特権ではないからです。水準の差はあっても我々、各個人の人生自体が芸術です。ハイデガーは目に見えることを単純に複写し再現する写真は芸術になれないと言いました。まず、ここから誤謬があります。ゴッホの「靴」は存在を現したから芸術と認めました。しかし、ゴッホもある靴を参考にその絵を描いたはずです。その靴を100人に撮影させます。恐らく100人の写真は全部違うはずです。100枚の写真を100人の人に見せて感想を聞くと100人はみんなそれぞれの答えを出すはずです。その中で多くの人に感動を与え、何か心を響かせるものがあったらそれは芸術として関心を浴びると思います。

 


ゴッホ 「靴」

 
撮影者たちと写真に関する話をしながら「○○さんの写真は良い」という話をします。特別な技術を使ったり、自分なりのやり方で既存とは違う写真を撮ったりすること以上の、その人の写真を見ると言葉では説明できない何かがあります。ハイデガーが道具は目的があり、作品は存在に気付かせ見せるものだとだと言いました。ライフスタジオで作られている写真はほとんどが道具です。特定の目的を持っています。家族の愛や光の活用や神秘的な雰囲気なども特定の目的を持っています。しかし、存在を見せてくれるということは固定概念の作用を超えるその何かのような気がします。即答でこれは何だ!と規定出来ないけれど、理由はわからないが気分が良くなる写真があります。「○○さんの写真は良い」という言葉は溢れ出る道具の洪水の中で存在に気付き、見せてくれる作品が少しでも発見された時に使われる言葉だと思います。存在者を撮影するけど、存在を表現しなきゃいけない撮影者たちが背負っている責任の重さが感じられます。
 

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