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「写真人文学」第2章 ②古い写真から刺される痛みを感じる
投稿日:2017/8/27
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写真人文学
第2章 バルトのプンクトゥム
:記号が溢れる世界で刺された痛い傷
古い写真から
刺される痛みを感じる
刺される痛みを感じる
チェ・ミンシク(1928~2013)は韓国を代表するドキュメンタリー写真作家です。朝鮮戦争後の韓国の状況が写真からそのまま伝わります。けれど、私には強い痛みや何かを感じることはありませんでした。当時を時代背景にするドラマなどで感じる態とらしさや不自然さはない、生き物をそのまま見るような生々しさを認識したぐらいでした。自分の母親や祖父母の世代の話として強く感じないのを見ると、自分の「ヒューマニズム」は薄っぺらいものだな、と思います。正直、一枚の写真で強い痛みを感じたことのない私がプンクトゥムについて話すのも気まずいですが…。
チェ・ミンシク Seoul, Korea 1950
私に写真は「仕事」でした。撮影というサービスを提供して堂々と金額をもらうのが主な仕事だったので写真を通じて何かを成すつもりは特にありませんでした。それでも写真に対する努力を怠らなかったのは写真を通じて競争力を確保することが私の役割だったからです。10数年前、韓国の写真市場は写真の質により顧客の傾きが特に目立つ時期でした。イシューを作り、新しい写真を作るしかない状況の中で生き残るためもがき続けました。この部分以外では写真を媒体に人間関係を形成する程度で止まっています。だからある水準になった以降からあまり発展できていませんし、それが当たり前だと思っていました。
だけど、写真においてもう一つ強調していたことがあります。
写真教育をする時よく話すことですが、「写真の基準は自分である」ことです。当たり前のように見えますが、実際そうではない撮影者をよく目撃するので特に強調しています。自分よりは自分が所属しているスタジオや顧客の反応を基準にする場合が多々ありました。一緒に働いている撮影者の実力に大差がなかったり、顧客からのクレームがなければいい写真だと信じてしまいます。日本の写真館で撮られた写真が似たようなイメージで時代遅れになった理由もここにあります。日本全体的に似たような写真が大量に生まれ、特に顧客からの問題の声がなかったので自分の写真が良いと判断します。むしろ、顧客が自分の写真を好きでいると思っている撮影者が以外に多いです。基準を自分に置かないで外部に置くならそれは撮影者でしょうか、それとも単純労働の繰り返しでしょうか。写真の本質はカメラを間に置いた私とあなたの出会いです。私はどういう人間で、あなたは誰かに対する理解の深さによって写真の質が来ました。外部の環境を基準とすると自分の外部に写真を依存する受身的な姿勢で止まるしかありません。しかし、対象は私が送る信号に対応する反射隊です。私が青を考えて信号を送ると青と関係した何かを送り返します。受け取った内容に基づいて撮影者は撮影をします。私が考えたこと以上を対象が見せることはできません。撮影の主題は撮影者です。同じ対象でも違う写真が出る理由がここにあります。
私は撮影において「ストゥディウム」を発見しようとする意思が強い方です。ストゥディウムとは一般的な軌道のバランスを通じて平均的な情緒を感じさせます。こんな情緒は多くの人々に共有されます。より多くの人に共有されればされるほどストゥディウムは強くなります。ある女性を撮影するとしたら「あ、これだ」と感じる瞬間があります。これがプンクトゥムなのかストゥディウムかを仕分ける基準は何でしょうか。時々繁華街を歩いていると美しい女性がたくさん街を歩いています。それを見ていると気分が良くなります。なぜそうなるかは分かりませんがただ気分が浮きます。しかし、ごく稀に私の足を止まらせる女性が現れます。動くことも、目線を外すこともできない、そんな瞬間があります。美しい女性を見て気分が浮くのはストゥディウムで足を泊まらせるのがプンクトゥムなのでしょうか。足を泊まらせる女性の中には気分を浮かせる美しさと同時に特別な何かがあります。ストゥディウムは客観的な記号のバランスが整っている状態で、より多くの人々が共有できます。しかし、プンクトゥムはそんな客観的なバランスが整ってさらに自分に蓄積されている無意識を響かせる力までをも持っています。
私は撮影をする時、普遍的な美しさについてよく考えます。普遍的な美しさとは多くの人が共有できる何かです。井の中の蛙のような話かもしれませんが私が満足すれば顧客も満足するだろう、と撮影に入ります。もし、私が満足しても顧客が満足できない時は仕方がないと思っていました。だから顧客と意見がぶつかることもありました。プンクトゥムが私の撮影領域には入れなかった理由もここにあるようです。私が満足するとは、自分が表現できる普遍的な美しさの最終的閣下だと断定していたのです。私の基準は普遍的な美しさであり、それを表現したけれど同意を得られないならそれは仕方ないことだと…本当に、単純な考えでした。しかし、プンクトゥムの世界は今までワツィが見れなかった写真の役割について説明しています。
ヨゼフ・コウデルカ(Josef Koudelka,1938~)
「写真人文学」の中で、ヨゼフ・コウデルカ(Josef Koudelka,1938~)の写真を著者によってパトス(Patos)だと表現されています。流浪するジプシーたちを観照するような態度で対象に接近し、その写真をみる読者も参加な介入の感情を感じるよりも疎遠な距離を保ったまま何かを感じるそうです。「あ、この写真いい!」というよりはかすかで苦い、気苦しさを感じられるそうです。プンクトゥムは作家と読者の間に生まれる感情を共有しないし、もし同じことを感じたとしてもそれは偶然に過ぎないと著者は言います。この部分が重要な理由は写真が持つ記憶と記録の役割があるからです。個人の記憶は破片化されています。正確ではないし、選択的に記憶を残します。また、記憶とは忘却の攻撃に弱いです。個人の記憶があちこちに散乱している中、写真も同じく不安定な属性を持っています。いくら普遍的な記号のバランスを整えたとしても結局一瞬の時間を止めた一枚に過ぎません。小説や音楽のように叙事の構造を持って流れを表現することは出来ません。こんな原因があるから、こんな結果になったと説明することはできません。撮影者がいくら普遍的記号を総網羅したとしても一瞬の停止に過ぎません。あちこちに途切れている人の記憶と一瞬を停止させるに過ぎない写真はそれぞれ部分だけを記憶して記録しただけです。完璧ではない両者がもう一度出会う空間が「古い写真」です。古い写真の中で各個人が持つ不安定ならが蓄積された記憶と一瞬の記録が出会った瞬間、プンクトゥムの饗宴が広がります。撮影された当時は撮影者の意図に夜普遍的な記号の精密な配置により鮮明な主題があったはずです。しかし、写真の構成要素の全てを統制することは不可能です。例えば30〜40年後、その写真を見る人々の感情まで考慮することはできません。今は笑ってふざけた顔を撮影したからといって30〜40年後もその関係が維持され、その写真を眺めながら涙を流すことを想定することはできません。もしくは仲が悪くなり写真を見た瞬間破けるかもしれませんし、一緒に思い出を共有した相手を記憶できない場合もあります。古くなればなるほど、味が出てくるお酒のように、時間が経てば経つほど写真の価値はどう変わるかわかりません。だから、写真は人の記憶と同じで、いやそれよりももっと不連続的だと説明します。だから本の中で「写真と一緒に居られる存在は個々人の記憶だけである。つまりその役割、人とは違うとても破片的で不完全な個人だけの記憶を写真は作ることができる。ここで古い写真が持つプンクトゥムの世界が広がる。全ての写真は時間の中で古い写真になる。だから古い写真からプンクトゥムは多くの人に蔓延る」と言って居ます。
Josef Koudelkaの写真
普遍的な美しさというストゥディウムの世界だけど見ながら撮影をしていた自分の過去を見返しました。普遍という名の下で自分の足りない部分に入ってくる動きや疑問を遮断して、自慢と盾でふさがってきました。おそらく、写真の役割をひとときを楽しむ道具に過ぎない、そう思っていたかもしれません。写真は素材に過ぎないと・。記憶を記録して、その記録の中に我々が存在する無数の姿が映っていることを知らない状態で撮影をし、写真について語ってきたと思います。第2章の最後に、こんな言葉があります。
プンクトゥム、その隠匿の懐かしさがイデオロギーの談論の洪水よりはるかに痛い。
写真が持つ力がつまりここにある。
湘南店に新しく入社した男の子がいます。その子はいつもカメラを持ち歩いています。日常の姿をいつも写真で押さえています。しばらく「変わった人だな」とその人を見ていましたが、もしかしたらその子も「隠匿の懐かしさ」を楽しんでいるのではないだろうか。各個人の記憶と、それとは関係なく流れる写真が持つ記録の役割。この両者の関係が「隠匿の懐かしさ」ではないかと思います。写真が持つ力がここにあると言いますが…分からないことです。
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