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「Movie Story 4」おくりびと
投稿日:2017/7/31
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Movie Story 4
おくりびと
人間の人生は疲れるものです。
食べると内部システムが細動し出します。そしてまたお腹がすきます。1日に何度も繰り返されるこの過程が自然に流れるのが幸せです。食べて出すだけでは生きていけないのが人間なので、対象が存在し、お互いに関係を結びながら生きていきます。入っては出すその繰り返しが蓄積され文化なり、社会の形が作られます。学校で教えられるのもありますが、自分の体でその全ての過程を体得してやっと分かることもあります。我々が「当たり前」と思っていることは完了形ではありません。知っていく過程です。しかし、入ったものが上手く出せなくてすっきりしません。「知っている」と認識するから自分の外に出したと判断しますが、やはり腑に落ちません。実は出てないのです。消化しきれない、排泄しきれない考えと感情のかけらが今の思考と行動に影響します。だから人間の人生は疲れるものです。入ったけれど出ないその実体との出会いは長い苦しみの末姿を現します。成熟な人々から発船される共通点は自分の中に入ってきたものを良く観察するということです。自分に入ってきたものはどんな形であれ出さなければなりません。入ってきたものが自分にどんな影響を与えているか、またそろそろ出すべきものは出口をちゃんと見つけているのか、観察して把握している人が成熟な人、つまり大人ではないかと思います。
親は「愛憎」の始まりであり終わりです。似ていくことは本質的ですが、似ていくそのもの自体に対する抵抗も同時に存在します。私たちは生まれてすぐに親から善と悪に対する基準を提示され成長します。その基準は根強い伝統によるものかも知れませんし、親の経験や性格による主観かもしれません。自我に対する反発が最高潮に達する「中2」は親と似ていくことを全身で拒否する特別な時期です。自分という存在が段々認識として近づくけれどどんなものかは不明です。体と心は変な気持ちになり、既存の秩序に対する拒否に繋がります。出来ないのは全て親のせいであり、上手くいったのは全て自分の努力という論理が頭を支配します。「中2」が過ぎてもこんな論理で社会生活をしている人も多くいます。愛と憎悪が同時に存在する対象として親は申し分ないでしょう。だから自分の人生において絶対的影響力を持ちます。親が提示することを基準で世の中を知り、その基準を拒否しながら本当のことを知っていくのが「知」の過程です。
人の「死」は周りをしんみりさせます。「知っている」と思われたものから発生したぎこちなさの実体と遭遇します。現実の論理は強いけど薄いです。銭湯の処分や性アイデンティティに対する偏見は現実論理として強いです。目に見えないけれど、長い間「知っている」と規定したものは現実論理を目の当たりにし弱い姿を見えます。我々の周りは現実論理で囲まれていて、それを基準に生きています。だからぎこちないし疲れる。自分が本当に「知っている」ことを発見したい欲望さえ現実の論理に利用される状況です。人の死は現実論理を瞬間停止させます。入ってきたものが出ることで新しく成立した「知っている」ことが登場し正気になります。瞬間ですが、そうなります。
確認・連結・拡大の循環の輪がここで登場してもいいのでしょか。鮭が結局自分の生まれた上流の水に上がろうとする姿は主人公とよく似ています。入っては出るのが純理であり、愛と憎悪の間で自分の本当の姿を取り戻そうとするあがきです。確認・連結・拡大は時間の順序というより同時に起こります。確認ばかりでは面白くないですし、連結ばかりだと骨粗鬆症になりがちです。拡大ばかりするのは砂の上に城を建てるのと同様です。確認は同時に連結であり、拡大です。主人公は父を放すまで長い時間を使って来ました。回りに回って、死骸になった父親の顔を吹きながら自分の心の中から父親を放すことができました。現実の論理と目に見えない「知っている」の間を持続的に埋めてくれる装置が確認・連結・拡大の循環の輪です。ホームページに我々の全てを入れるという約束はその循環の輪の始まりです。映画のタイトルは「おくりびと」ですが、自分に戻ってきたのをもう一度出すという意味で父親を送ることはもう一度始まることとも言えます。入っては送り、そこからもう一度始まるという真理と確認・連結・拡大の循環の輪は適切に対応します。
だから、世の中の全ての便秘持ちの人とOne Pointの構成員みんなにこの映画をオススメします。
追伸:国によって映画のタイトルも、ポスターの雰囲気も違いが出ます。
韓国では「グット・バイ(Good Bye)」というタイトルでした。
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