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「写真人文学」第2章 バルトのプンクトゥム

投稿日:2017/7/31

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写真人文学
第1章 バルトのプンクトゥム
:記号が溢れる世界で刺された痛い傷
 
 
写真はなぜ人文学の宝庫なのか
 


デジタルの世界は0と1で構成されています。

0と1の無数の組み合わせで単語が表現され、命令がなされます。では私達人間が住んでいるこの世界を構成する基本単位は何でしょうか。ある昔話では水と火だと説明したり、天・地・人間だと説明したりもします。バルとは記号を通じてこの世界を解釈します。記号は象徴・信号・標識・兆候などを指す概念で、コレとアレを区別するために作られました。目の前にいる一人の男性を見て、私たちの頭にはその人を規定する無数の単語が浮かびます。25歳、未婚、会社員、息子、ファッション、スタイル、身長、顔の形などを類推します。スーツを着ているならスーツが象徴する会社員、働く人、年齢、社会的位置、消費パターン、スタイルなどを判断します。スーツが持っている数多い象徴と信号、標識や兆候を使用してその人を規定しようとします。しかし、そんな記号体系が真理そのものではありません。何かによって記号は取捨選択されます。100年前と今の記号は内容と範囲が全然違います。100年前の女性の美の基準がグラマラスだったのなら、現代は骨ばった体つきを好みます。バルとは記号に対する内容と範囲が次第によって違うことを神話で説明します。映画の「トゥルーマン・ショー」は仮装で作られた世界を描写します。仮想で作られたものを真理だと信じて生きています。トゥルーマンと私たちの人生は違うものでしょうか。
 

ロラン・バルト (1915.11.12~)
フランスの哲学者、批評家。
 

我々が当たり前だと思うことは真理ではありません。この時代は「こう生きることが正解」と思われたことが時代の変化と共に変わります。今は当たり前ですが、この先は分かりません。真理は神話が作られる作動原理にあるのかも知れません。バルとはこの作動原理を説明するためにマルクス主義を使います。マルクス主義は生産力と生産関係により生産様式が形成されると主張します。だから階級が湯希、その階級の間の闘争によって歴史が進歩すると強調します。奴隷主と奴隷、領主と小作人、資本家と労働者で階級が別れ、この構造を維持するため記号が作られます。この一連の過程を神話で表現しました。

 
スーツ姿の男性からどんな記号が読み取れますか
それは、真理でしょうか。

この構造を維持するために明瞭さが必要です。明瞭さとは現在の制度とその制度の当異性を明確にして構成員たちに自発的服従を要求します。朝6時に起きて会社に行かなければならないという明瞭さが、毎朝私達の体を起こします。誠実に仕事を行い、約束を守るように求められます。しかし、誠実や約束は資本家と権力者には選択的義務に過ぎません。社員が遅刻を繰り返すと会社から解雇通知が出ますが、資本家や社長には適応されません。道徳的に多少の避難があるかもしれませんが、生計に打撃を与える解雇にはなりません。私たちはそれを当たり前なこととして受け入れています。私たちを取り囲む法律と制度、慣習と慣行はこうして誰かには一方的な方式で適応されます。その明瞭さは不変的でもなければ、誰にとっても正しい特質でもありません。各組織や階層、階級はお互いに対する同質性を強化して規定します。同じではないことを「違い」と認めず「間違い」と決めつけます。集団と普遍に対する忠誠心とは別に、個別が持っている特性も私を規定するひとつの柱です。私とあなたが違い、だから私とあなたが共有できない、説明できない部分があります。ライフスタジオでは「別々に一緒に」を強調します。この理論の哲学的背景をこのプンクトゥムが説明してくれます。同じだけど違う部分を確認・連結・拡大の過程を通じて知っていくことが「仕事がなされる原理」ではないかと思います。私とあなたが違うから共有できない、ある説明できない部分からバルトが言うプンクトゥムの概念が生まれます。


プンクトゥムはいつ、どこで、誰が、どうやったか分からない、強烈的に刺される感覚です。日常生活より旅先でプンクトゥムと似たような感覚が発生します。自分の過去に対して正確な点数がつけられて困惑するというか…忘却の時間、自分の無意識の深い所で眠っていた意識が目を覚めた時の時差ボケというか…。写真が持つ無限な可能性はいつも、誰にも同じく適応される基準で説明することは出来ませんが、各個人の強い刺されや響きを基盤とします。だからこそ、写真は人文学の宝庫になれますし、表現の領域が無限大に拡張します。
 

神話の中で生きることはある程度の規則を守っていくことです。規則は当たり前にそうすべきことです。我々は生まれる以前から決められたことを当たり前のように、真理のように守ってきました。組織と社会が作り出した体系を無批判的に受け入れることから痛みは始まります。自分の内面で起こることを組織と社会が作った体系だけでは説明しきれません。カメラの小さな穴から見える世界は説明不可能なことばかりです。説明できない個別的なものを普遍的なものに置換して生きていく私達は不幸です。写真を撮る理由が普遍者の拡張なのか、個別者の表現なのかは論争的で話題を作ります。多くは両者の調和という有りきった結論に首を縦に振ります。撮影者は「NO」と言える勇気と義務が必要です。自分の中に入って来た数多い内容を整理して1枚の写真で表現する過程で被写体と私、他人に受け入れられる多様性を説明しなければなりません。撮影者になる過程は自分の基準を作る過程だと思います。バルトが言う記号で構成された世界を拒否し、自分の基準を作ること。そこからプンクトゥムは生まれます。

 



3人の撮影者がいるとします。

当たり前のことを当たり前のように撮影する人「A」、当たり前のことを当たり前のように撮影しながら自分の感覚で飾る人「B」、そして当たり前なことを拒否し自分だけの基準で写真を作り、解釈する人「C」。
 

あなたはどんな撮影者ですか。
 

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