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「写真人文学」第1章 ベンヤミンのアウラ ②

投稿日:2017/6/6

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写真人文学
 
第1章 ベンヤミンのアウラ 
: 見慣れたものを見慣れぬよう見る
 
 

主題2 アウラの再構成するための自分の方法
 
 

写真館の写真は似たような傾向を持っています。蓄積された文化と時代を反映するため一般的な傾向を持つのです。一般的というのは見慣れていることを意味します。同じ条件と考えで撮影をするため予測可能な写真が作られます。たまたま発見される新しい写真は少し「違う」だけです。少し違う環境で、少し違うアプローチをするため少しだけ違うという新鮮さがあります。しかし、アウラは少しの違いを超える特別な何かです。
 
ベンヤミンはアウラを「身近でありながら遠い何かの一瞬の現象」と定義しました。今まで写真からアウラと言える程の衝撃や雰囲気を感じたことはないように思います。私が理解するアウラとは想像の中でしか存在しなかった、無意識から蓄積された理想的な完結性が現実現れた時感じる感情状態ではないかと思います。初恋の彼女に初めて会った時…。彼女の後ろから100個の蛍光灯が付いていたかのような輝きを感じました。「近そうで遠い何かの一瞬の現象」。彼女が自分の目の前にいるけれど近づけられないその気持ちは自分にとって強烈な経験でした。しばらく彼女に近づくことができず、少し離れたところから見つめるしかありませんでした。写真においてのアウラも同じで、単純に可愛い・新しい・格好いいぐらいの程度を意味するのではないと思います。自分の中には今まで意識的であれ、無意識であれ蓄積された美しさに対する概念があります。実体化されてないその概念は現実で中々接することはありません。自分の中の意識にある不明かいな概念が現実にピッタリ合うことは人生において幸運なのかも知れません。
 
見慣れていないけれど、自分の中にあった意識が現実で正確に再現された状態
 
少し前、内戦状態のシリアで怒った爆撃で灰まみれになったまま病院の椅子に座っていた子供の写真が全世界に衝撃を与えました。内戦でありうる数多い爆撃の報道写真の中でその写真が特に注目された理由は私たしの内面にある傍観者的な態度に対する反省だったかも知れません。世界の主要な問題がシリアの内戦に凝縮されており、これだという解決策は見えないままです。知ってはいるけど知らないふりをし、知らないけれど知っているふりをする我々の二重性を確認した出来事でした。
 
撮影者は被写体の実態を表さなければなりません。対象の構成要素は数え切れないし、対象を見つめる撮影者自身の構成要素も同じぐらいの数がありあす。また撮影に使われる道具の構成要素によりまた違う物語が作られます。撮影者、対象、道具の関数関係を考慮すると無限大に近い場合の数が出てきます。状況は無限大に近いけれど現在の写真館は大体同じような傾向を見せます。慣れているものを慣れたまま、当たり前なことを当たり前のように、違う目線を持つことを間違いのように扱います。アウラが一般的で見慣れていて当たり前なものから出てくる可能性は極端に低いです。
 
アウラの再解釈は一般的なものを特別に、見慣れたものを見慣れぬように
当たり前の本質を掘り下げて答えを探さなければなりません。
 
私たちは対象が見せてくれる現象を材料に概念化を試みます。ホームレスを例えてみます。陸橋の下で寝ているホームレスを見る人々の反応と認識は人それぞれです。失敗した負け犬だと規定する人もいれば、可哀想な感じで助けて上げたいと思う人、社会の構造的な問題だと思う人や、彼らの違法行為に目をつぶる取締当局に不満を持つ人もいるかも知れません。汚い格好で一通りの多いところで勝手に寝止まりし、ゴミ箱から食べ物を探す彼らの姿を目の当たりにした時、不愉快さを感じながら人に迷惑をかける恥知らず者と考えた人にとってホームレスは失敗した人として規定されます。現象で本質を構成し、本質に対する規定に基づいて現象を再解釈します。この人が写真を撮ると自分が設定した規定を証明するための写真が生まれます。汚さは極大化され、それを嫌がる人々の表情や目線、そして彼らの珍しい生活習慣などが主に表現されます。ところが彼らを負け犬で見るのではなく、自ら問いかける人もいます。「いったい何があの人をああいうふうにさせただろうか」、または「ホームレスにとって楽しさとは何か」などなど。ホームレス問題を社会的な構造の矛盾から探す人は全く違う目線から写真を表現します。勝者のみが独占する社会の被害者であり、一度失敗したら立ち直れないまま人々の関心外になるしかない現象を自分なりのシステムで概念化しそれを写真で表現します。また、ホームレスを見る私たちの二重性を告発します。世の中の全てのことには原因と結果が存在し、それに伴う本質と現象があります。結果が同じでも原因は様々ですし、現象と本質も同じです。笑うのは楽しいからと思いがちですが、寂しくて笑うこともあれば、呆れて失笑することもあるし、返す言葉に迷って笑顔でごまかすことだってあります。笑ったという結果に対して、原因を楽しいからと断定してしまうと、冒頭で言ったように一般的で当たり前な写真が出る可能性が高いです。撮影者は起こった結果と現象に対して耐えずに問いかけながら対象が持つ実態に近づかなければなりません。ライフスタジオを訪れた家族に対する観察と質問こそが私たちに新しい世界、つまり対象が持つ実体に近づく方法です。「彼らはなぜ結婚したのか」、「なぜ家族を構成したのか」、「彼らにとって家族とはどういう意味なのか」、「では家族の本質をどう表現すべきなのか」などの質問は当たり前のようで当たり前ではない質問です。自分が自分であることは当たり前だけど当たり前なことではありません。数え切れない偶然の中で自分が生まれたけど、自分が自分でしかない必然を探していくのが人の人生です。
 
目の前に現れた現象を見慣れないようにみるためには本質に対する質問をしなければなりません。人に対する存在論的な疑問、写真館の存在目的、時間と空間に対する談論、欲望と現実の違いなどに対する根源的に質問を通じて見慣れたもので溢れている私たちの偏狭な世界を広げて、実体に近づくためにもっと見慣れぬ世界へ進むことができます。ライフスタジオが人文学に対する学習と教育をする理由もここにあります。その効果に対する疑問は依然として残っていますが、だからと言って真実が変わることはありません。実体の本質に近づく撮影者の態度はそれだけで美しいです。
 
対象の中に深く入った後、直面する対象の見慣れぬ光景は
撮影者に衝撃と同時に発見に対する欲求を提供します。
 
では、そんな衝撃と欲求を提供する具体的な方法についていくつかお話します。
 
 

★.イメージを決定して撮影する
 
撮影者たちが1枚の写真を作る過程は大体次のようです。写真館にある構成要素を整列します。固定された証明のスイッチをつけ、小物を定位置に置き、子供が座る場所を決めたら、アシスタントが子供をその場所に位置させます。今まで身につけた技術を総動員して子供の関心を誘導し、自然な動作と目線を引き出します。その間撮影者はカメラレンズを通して子供のポイントを探し出します。最大限のバランスと比率を考慮し「可愛い!」と思った瞬間にシャッターを切ります。ある意味証明写真と同じ原理です。白い背景に固定されているストロボのスイッチをつけた後、被写体を正確なバランスと比率で位置させた後、動作ボタンを押します。大体が決まっていて、子供のコンディションによって質が決まります。だから撮影のアシスタントの役割が重要になります。撮影者の技術がある程度の段階に上がると顧客の満足度は撮影者よりアシスタントによって左右されます。当たり前のことを当たり前のように撮影するパターンの繰り返しは退屈な限界効用均等の法則にハマります。
 
決まった場所で子供の状態に撮影者の運命を任せるパターンに変化が必要です。具体的には撮影がされる順序を変える必要があります。美しい自然の風景が目の前にあるとしましょう。大体は美しいと思った瞬間カメラを持ってあっちこっちに探しに行きます。自分が感じたその瞬間の感情状態を表現できるフレームを決定します。ごく当たり前のことですが、カメラで見える小さい穴に写真の構成要素を制限する致命的な短所があります。カメラレンズから入ったイメージを四角の枠で調整する消極的な自由しか残りません。美しい風景を見て感じた自分の感情状態に対する実体がどこから由来したのかに対する分析が必要です。今は何時で、これから太陽はどの方向にお動くのか、太陽を遮る雲はないか、自分の位置を移動しながら光源と対象、カメラの位置と角度に対する考慮しなければなりません。姿勢を低くした方が良いのか、それとも高い木の上に登って見下ろす感じが良いのか、色味は全体的に赤みが入った方が良いのか、それとも早朝の青みを出した方が良いのかなどの判断が筆ようです。このような分析を通じて自分の目の前に広がっている美しい自然風景を自分の目ではないカメラの目で一番効果的に撮影出来るイメージを決定しなければなりません。イメージが決まったらそのイメージを再現するための条件を準備します。時間帯、レンズ、特殊的な自然現象に対する忍耐の結果、最終的に自分の手でカメラを押す瞬間が来ます。自分の中でイメージを作り、そのイメージを具現するための条件を準備し、一定の時間を待ちながら決定的なしゅんかんいシャッターを押すやり方で撮影過程を変化させなければいけません。これは見慣れたものを見慣れないように見て、その実体に近づくための一つの方法です。「写真人文学」という本出てくるミン・ビョンホンの写真を見るとこのような話が説得力を持ちます。
 
写真館に入ってくる顧客と写真館と条件、そして自分の経験と思惟からくる技術が合わさり一枚の写真が作られます。毎回撮影する度にそれが出来るとは限りないが、同じ撮影空間でも先にイメージを生産し、そのイメージを具現するための条件を一つ、二つずつ作っていく方法を試して欲しいです。私は20年前から野外ウェディング撮影をしていました。毎回新しい空間で、材料に対する分析をしなければなりませんでした。ここに木があり、下には芝生があり、遠いところには新緑の色がうっすら見えるという条件の中で新郎新婦をどこに位置させて四角の中を構成するかを数秒以内に判断するしかありませんでした。イメージが作られたらいかにも自然に新郎・新婦と会話をしながらこの場面のイメージとその中で被写体であるあなた方の役割について話一緒に1枚の写真を作っていた記憶があります。最初に自分の中にイメーゾが生まれ、そのための条件を作り、次に被写体を理解させ自らが現れるようにするこの一連の流れは毎カットが想像と発見の混合物です。写真の構成要素を全て登場させ、追加と削除の過程を繰り返しているうちに、慣れているものはどこにもなく、全てが見慣れないものばかりになります。失敗も多いし、あれこれの撮影を妨害する要素で一日中撮影をすると体がグタグタになり帰宅する日がほとんどでした。
 
自分の目をカメラに固定したまま美しさを探し回ることは終わりにしましょう。撮影の環境と被写体、そして自分を考慮してまずは一つのイメージを作ってください。そのイメージの為に必要な条件を再配置して被写体にこう言ってください。
 
「私は今、こういう作品を作りたいです。
なぜならあなたにあるその美しさが私の目に見えましたから・・・。
一緒に作ってみませんか」
 

 
★.光の設計図を描く
 
対象の実体は光によって再現されます。光によって1枚の写真は天国と地獄を行き来します。「光」において撮影者にありがちな過ちは大きく2つあります。1つは、光は固定されたものとして把握していることです。空にある太陽は動かすことが出来ないし、写真館においてある照明も中々動くことがありません。最初に与えられた条件は決まっており、後はカメラの操作で自分の動く範囲を自ら狭くしています。2つは見えない光に対して恐れているということです。撮影者は設置された照明を全て使う傾向があります。まずは光量を出来るだけ多くし、その中で何かを探そうとするのです。撮影のプロセスは数多い構成要素の組み合わせで、しかも一瞬で行われるため被写体の状態と、それに適切なカメラの設定に最大限の関心注ぎます。先ほど、光によって写真は天国と地獄を行き来すると言いましたが、それにもかかわらず光にあまり気を払わないのは光の調節で得られる利益が少ないからです。まずは光が見えるのがあんしんなので使える最大限の光を使います。ほとんどの撮影者が同じ光を使うため写真も大体似ています。写真が言いと認められる撮影者のほとんどは光の処理において自分なりの武器を持っています。質的に人と違う写真が撮りたいなら、光に対して質的に違うアプローチをする必要があります。家を建てる時は設計図が必要です。電気配線にも設計図が必要ですし、水道の配管も設計図なしには設置ができません。言い換えると、光の設計図を作成するということは写真の質を決める決定的な行為です。だからと言ってそんなに難しい訳でもありません。前述したイメージを先に決めるとそれに相応しい光を選択するのが設計図です。目に見える光を全て使うのではなく、自分が決めたイメージを具現化するために光を選別する作業です。現在ライフスタジオでは店舗がオープンした当初の状況をそのまま維持しています。一つの例として窓からの光を防ぐ道具が一つもありません。窓の外から差し込む光を当たり前のように受け入れます。当たり前のことを当たり前のように受け入れているからアウラうんぬん出来る状況でもないのです。だから良くある話が全ての証明を消してから撮影を始める、ということです。全ての証明を付けて撮影をするのと、0から始めるのは撮影者の姿勢を関連しています。私が考えたイメージにあう光を探すという意志です。
 
一つだけ覚えてください。
 
              撮影の時は全ての光を消して、この状況で一番有効な光は何かを
              一度だけ考えてみましょう。
 
すると、
今まで見えなから世界が少しずつその実体を表す光景を目撃するかも知れません。
 


★.一つの点を狙う
 
子供や家族撮影は現場の状況に対する依存度が高いです。プロフィールやウェディングは特定のイメージが重要です。なので、子供と家族写真に慣れている撮影者たちはディテール(細かいところ)で弱点を見せます。状況とは、ある事物が置かれている条件や状態のことを言います。先ほどイメージに関する話をしました。カメラを除いて対象を探していく方式の問題点を指摘しました。状況的に被写体が笑顔になったり、どこかを見つめる目線の特別さだったり、自然な仕草を見せた時、撮影者は条件反射的な反応でシャッターに置いた指に力を入れます。状況に頼る撮影はその対象の役割に従属する結果を招きますし、表現においてもかなり制限されます。ウェディングやプロフィール撮影をしているとその人の顔や身体の特徴、会話などを通じて人柄を把握するクセが付きます。隠すことは隠して、強調するところは強調してイメージを極大化しなければなりません。状況による撮影と、その対象の特定部分に対する強調とは使う筋肉が違います。何が良いとは言えませんが、この二つが同時に発現した時いい写真は生まれます。しかし、現在ライフスタジオを含め一般の人を対象として撮影するほとんどの写真館の傾向は大半が状況に頼る写真が主流になっています。
 
子供や家族だけを撮影していると対象に対する観察におろかになり、ディテールに鈍感になります。対象を全て同じように扱います。つまり、子供は同じものに反応するから笑えば良い、というふうに対象を単純化させます。当たり前のことを当たり前のように撮影する構造です。人はみんな同じようで違います。対象により深く入り、表現できるイメージを獲得する過程が必要です。顔、身体、衣装、行動など…その対象ならではの独特な特徴を掴まなければなりません。ウェディング撮影をする時、私にはちょっとした強迫観念がありました。花嫁は今まで毎日自分の顔と体を鏡でチェックしながら化粧をしたり、マッサージを受けたり、数多いドレスとアクセサリを選びならが隠すところは隠して、見せたいところを拡大したに違いません。数千万回も見ているはずの自分の短所・長所を撮影者は短時間の分析と判断を通じて写真に表現する義務があります。対象が自ら思う自分に対する観念をより美しく表現しなければならないというプレッシャーは自分にとって相当なものでした。CCTVなどで顔面認識プログラムをフル稼働し容疑者を探し出すのと同じように、対象の深いところまで入り込みその対象の特徴を掴んで写真に表現するということは、いくらやっても慣れない道の世界です。やっと慣れるようになったところでいつも撮影は終わります。1ヶ月後アルバムを取りに来る顧客の顔を見た瞬間、私の心臓はドキドキして止まりませんでした。対象が持つ美しさの100分の1も表現出来なかったそのアルバムは犯罪の証拠でした。ま、こういう過程を経て人に対する深い理解もできますし、技術も上がりましたから良い勉強になりました。しかし、日本のウェディング写真はまだ状況に頼る写真が多いです。深く入れないから一般的なポーズが連続し、それでもネタ切れになるので分量を埋めるための偶然を装ったわざとらしい写真が増え溢れます。
「一つの点を狙う」とは、対象の特別さを探す作業です。対象の特徴を掴んでその特徴に対する効果的な表現に執着すべきです。普通3歳の女の子を撮影するとしたら、だいたい「可愛い子」と規定し毎回同じ形式の中にその子を入れ込みます。しかし、可愛い女の子の前に来る単語に注目する必要があります。目が小さくて、口が大きいからアングルをもっとハイに…、無表情の時は世の中を見下ろすような勢いのクールさを、知的な魅力を湧き出すためにはメガや本などの小物を利用する…などなど。
 
一つだけ覚えてください。
 
対象がスタジオに入った瞬間から対象認識プログラムを作動してみましょう。そんなに難しいことではありません。人の見る目はだいたい似ています。見る人と見ない人がいるだけです。見ようとすると見えますし、写真にそのまま繋がります。
 
 


★.交渉の上共通の利益を設定する
 
新横浜店の大内と青葉店の怜里の主題は「シナリオ」です。シナリオとは、偶然を必然にする作業です。写真館を構成する要素の中で最適の状態を選び、実践を通じて日常的に価値を生産するための高度な戦略です。例えば、自己紹介をする時、大半の人が自分の名前と頑張りますなどの挨拶をして撮影を始めます。慣れている行為であり、特別な何かを生み出すことはありません。トイレに行ったら手を洗うぐらいのごく当たり前のことであるため拒否感もないけれど、それ以上生まれる結果物もありません。顧客と撮影者が初対面する最初の自己紹介時間は写真館に入ってきた顧客の不安と期待、撮影者の意欲と技術的限界、制限された時間と空間の中で作り出す結果物に対する確認などが共存しています。この自己紹介の時間に撮影者が持つ写真に対する考えとライフスタジオのマインド、求める価値や目標、顧客が持つ不安の原因と期待する世界に対する話が共有できたら不透明な状況が整理され共通も目標が設定されます。
 
自分を表してくれる薬があるとしましょう。撮影の前にその薬を飲めば自分が望む自分を自由に表現することができます。恐らく写真館はこの時代になくなるでしょう。人間は静物ではなく生きて動く生物です。人間の中には外に表現しきれない数千万な自分の姿が存在します。その欲求を表現するために写真館に来ます。しかし、条件は制限されています。写真館が作ったシステムは顧客が持っている欲求と条件の制限という二重性の構造の上で作られます。人の中に深く入るという限界を克服するためにセットを作り、自然な雰囲気を誘導するために色んな仕掛けを配置しますが、その限界は明確にあります。制限された時間と空間の中で出来ることは普遍性に訴えることです。笑うことはいいことだし、出来れば綺麗に笑った方がいい。被写体が持つ特集性よりは普遍性に集中されているシステムは結局写真館の運営体系に顧客を合わせることになります。従って顧客は受動的になりますし、制限された表現の中で一般的な写真が作られる原因になります。
 
一般的なものを特別に、見慣れたものを新しく作る方法は顧客を撮影の主体にすることです。だから交渉を通じて共通の利益を設定する必要があるのです。団体で行く観光と自由に出かける旅の違いと同じかもしれません。団体で行く観光は決められたシステムの中で動きます。一人旅は自分が主体になって自ら決定し行動します。危険にあった時は自ら責任を負えなければならないという短所もありますが、一人旅で得られるエピソードは団体観光とは比べ物にならないぐらい豊富です。撮影者と被写体が共通の目標を持つということは、写真館の固定されたシステムでは具現化できません。例外が発生しますし、失敗を前提としているため予測可能な質を担保できません。しかし、慣れきった写真館のシステムから抜け出したその人だけのシステムを作るということ自体で、アウラを発見出来る可能性は高まります。
 

方法は簡単です。
1つのイメージを作りそれを顧客に提案します。その1つのイメージとはそのお客さんだけの一つの点を狙った結果物じゃなければなりません。例えば顧客を見た瞬間ある俳優さんが想像出来たらその俳優が出た映画の決定的な場面を演出しましょう、と提案します。恐らくその顧客は人生で一度はその俳優に似ているという話を聞いたことがあるかも知れません。その映画の場面のように条件を作り、ヘアメイクなどちょっとした演出を加えて一緒に共通の目標を達成する過程を踏めば良いのです。
 

ここまで書くと特別なことでもないような気がしますね。アウラの最解釈のための方法がある特別な技術の習得や完成度の話ではなく撮影者の態度に関する内容のように思います。当たり前のことを当たり前のように見ないで、対象の実体により近寄るための撮影者のアプローチに関する話です。アプローチの概念を変えれば技術は自然についてきます。アウラの再解釈のための自分の方法を数えてみたら20個ぐらい思いつきましたがそれについては今後ゆっくりお話しましょ。


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「写真人文学」第1章 ベンヤミンのアウラ ①
  ライフスタジオの写真は
  事実を重視するのか、自己表現を重視するのか

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