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店舗フォトジェニック集
ライフスタジオで撮影した各店舗のベストフォトを集めました。
「たどりついた1枚」(Yoyogi photo)
2017/7/29
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Coordinate and Write:Yu 4才の兄と1才の妹。 妹のことはもちろん好きだけど、自分のペースで遊びたい欲求はそれに勝る兄。 兄のことはもちろん好きだけど、まだまだ自分のペースで動くのがやっとな妹。 コンディションも状況も悪くない。でもなかなか2人のペースが合わない2ショット撮影。 特段難しい撮影というわけではなかったけれど、それが余計にもっと何かすれば…と思わせ、もっと良い方法があるのではないかと感じていた。 場所を移動し、ホリゾントでの撮影。 やっぱり微妙にタイミングが合わない兄妹を見て私は「(妹の)真似っこゲームしよう!」 そう切り出していた。 どうしてそう切り出したのか、それはその時、ふとSooさんとの撮影を思い出したからだ。 そして2人は同じ動きを楽しむようになり、2ショットもとても可愛らしく楽しく撮影が出来た。 妹を見ながら、そのペースに合わせ懸命に動きを真似る兄。 隣の兄に安心感を抱きながら、時々動きを変えてみせる妹。 ハイハイから突然の寝そべり。 そうやって妹は兄を翻弄してみせる。 2ショットの時は妹とカメラの間を遮るように兄が寝転び、写真には残せなかった。 でもそれ以外に色々と素敵な場面が残せたから良かった。撮影ではよくあること。 その時はただそう思っていた。 続いて家族写真の撮影。 場所は変わらずホリゾントから。 先ほどの撮影で、妹はハイハイが楽しく動き回りたくなったのか、何度もパパやママの元から抜け出し、笑顔のハイハイでカメラに向かってくる。 そんな妹をパパママの元へ戻す。 それを何回か繰り返したとき、急に妹を真似て兄も出てきたのだ。 そしてちょうど良い場所で、妹はニコニコしながら床に寝そべって兄の方を見た。 そして兄はそんな妹を笑顔で見ながら、今度はちょうど妹と対称になるように真似てみせたのだ。 それを本当に楽しんで見つめるパパママ。 言うまでもなくカメラマンのTomikiはシャッターをきる。 ここに行き着くためにこの撮影はあったのだと思える光景だった。 分類中。 バックヤードにて、思わず「これ良かったよね!」と声を掛けた。 Tomikiは、パパとママが本当に良い顔をしていたと言った。 私は子どもたちが可愛くて仕方がなかったと言った。 モニターでもこの写真が出た瞬間、最高潮に盛り上がった。 そして私も“やっぱりいいな~この写真”と心の中でつぶやいた。 でもそれだけでは足りなくて、この想いをどうしても伝えたくて、モニター後にこの写真を改めて大きく広げて見せ「私もこの写真大好きです!」とご家族に伝えていた。 ママさんも「兄妹ってこうやってリンクするんですね!」と兄妹2人がいることに喜びを感じて下さっていた。 翌日、出勤したSooさんたちにもこの話をし、仕舞いにはご家族写真は掲載NGだったご家族に連絡して載せる許可も得た。 それくらい私にとって本当に素敵な1枚になったと言えるものだった。 ご家族と、カメラマン、コーディネーター、そしてそこにいないスタッフとの日々の撮影までも、この1枚に繋がっていたと思える撮影。 それがやっとTomikiと出来たということも喜ばしかった。 ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- Photo and Write:Tomiki この写真の核心は父と母の目線である。 その目線の暖かさは愛の象徴である。 三角構図 母親と父親の温かい目線 兄妹が向き合い、そこに2人だけの視線の空間ができることにより2人の関係性が深く結びつき、また後ろの両親の元へとかえっていく。視覚的にも心情的にも安定した構図となっている。 余白 白い余白は空間に大きく広がり被写体が生き生きした様子、自由な様子が伝わってくる。 光 光はあえて編集は加えず、そのままの露出を使った。 家族の常日頃の情緒を演出するためだ。 この写真は少し明るいくらいが写真的にも美しいが、創った感が強くなってしまい、写真本来の自然な家族の感じが伝わりづらくなってしまう。 ポージング パパとママは寄り添うように配置し夫婦の関係性をあらわす。 子供たちの純粋な姿は何よりも幸福な様子を表している。
『悩む力』
2017/7/27
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新横浜店写真分析 人に写真に自分自身に深く向き合っていきたい 2017年7月3日新横浜店のインテリアが新しく生まれ変わりました。 リニューアルしてきた過程はHPやインスタグラムで皆さん周知して頂いているかと思いますが 改めてこの場をお借りしてインテリア工事完成の為にお忙しい時間を割いてくださったLee社長 オーナーの皆様、そしてスタッフの皆様、お昼ご飯を差し入れしてくださった喜多さん 工事に携わってくださった企業の方々本当に皆さん一人一人のお力で完成することが出来ました。 新横浜店スタッフ一同心から感謝の気持ちで一杯です。 この感謝の気持ちを会社と皆様に返していけるよう 1.美しい写真 2.新しい出会いと持続的な関係 3.楽しく働く姿 で返していきたいと思います。 今回は上記でお話しした1.美しい写真を提供することの意味で行っていきたいと思います。 今回の写真のポイントは写真の深さです。 深さとは何を意味しているのでしょか? わたしはこう考えます。その写真を表現するうえで欠かせない世界観のことです。 世界観は観念的なことなのでそれを技術で表現するために自分自身で「なぜ」を思考し それを自ら定義し説明していくことが写真分析を行う理由であり、その蓄積が写真哲学に繋がると考えます。 私は写真を何枚もの層が重なり合うように構成しようと心がけています。 それはただ単に被写体の前後に前ボケを使い奥行きを出すだけではなく、 目に映りこむ全ての構成要素を四角いレンズにどのように入れ、どのような手順で層を重ね、 何を表現したいのか伝わりやすく整理するという事が結果として写真に深みがでると考えます。 整理すると、写真の深さ=写真哲学。 写真の深さを表現するための方法として、 ■1、写真構成要素を整理し、映り込む順番を予測する ■2、1で把握した構成要素を適切なポージングとトリミングと露出で覆う ■3、1と2で整理された内容の核心を定義し最後にシャッターを押す 今回の写真の場合、1の写真構成要素を整理し、映り込む順番を予測するというのが 何にあたるかという事をこの写真の構成要素を紐解きながら挙げていきます。(一番奥から) ➀右奥にある蛍光灯(電気はつけていない) ②左奥にある白いレンガの壁 ③左奥レンガの中にある窓枠と窓から入る逆光の光 ④写真上に映り込む白樺の木 ⑤写真右上から吊るされている白の天蓋カーテン ⑥被写体である少女と少女が座るベットやラグ ⑦写真右側面にあるもう一本の白樺の木 ⑧写真左斜めにあるグレーとベージュが混ざった色味になっている前ぼかし ⑨③でいった窓枠の真ん中ぐらいに映り込む白くて四角い前ぼかし(窓ガラスの反射) ⑩被写体の頭に映り込む透明グラデーションのように写し出された前ぼかし(窓ガラスの反射) ⑪写真全体をほのかにぼかす一番手前に置いた窓ガラス このようにこの写真を表現しようとしたとき、もともとあったインテリアは➀.②.③.④.⑤.⑦であり、 ⑥の被写体はインテリアとの調和を考えどこに座ってもらいどんなポーズ仕草が適切なのか予測し被写体に声かけをしました。 次に2で話した適切なポージングとトリミングと露出で覆うということがどの部分にあたるのかを説明します。 この写真は望遠レンズを使い、インテリアと被写体から最大限離れて撮影をしています。 その理由はカメラマンの存在を消し、被写体がこの空間に身をゆだねることが出来るよう考えた配慮です。 そして、結果この表情が出たと思います。少女の物思いにふける自分の素が表れている表情です。 そしてトリミングとしては白樺の木をどこからどのように映り込ませ被写体と馴染ませるかがキーポイントでした。 白樺の木のやぐらは長方形なので全体を入れようとすると無理矢理感がどうしても出てしまうので、 縦の木を一面と横の木を一面入れて複数の前ぼかしで色味と素材感を馴染ませ、 結果として被写体の次に主張される副主体的な存在になりました。 もちろん一般的な主体と副主体の関係でいうと、被写体(主体)と右奥に映り込むクリーム色の窓枠(副主体)になりますが、 その次にあたる副副主体がこの白樺の木になります。 このようなに写真のバランスを考えると白樺の木を木として写すのではなく この写真のように切り取り、横写真ではなく縦写真にすることによりやぐらの構成が残るので 程よい存在感を引き出すことが出来ました。 また、露出はあえて蛍光灯の存在感が残るよう後ろをぼかし過ぎず、主張すぎなよう映り込ませ ポイントは被写体の鼻筋にかすかに映る光のラインが綺麗に映るように露出のポイントはここに合わせました。 最後に3で話されていた核心を定義し最後にシャッターを押すという部分の話をしたいと思います。 今回の写真の核心は、少女の頭のあたりに映り込む半透明なグラデーションです。 これは新横浜の真骨頂である、効果的な空間の仕切りで生まれた産物です。 これというのは、新横浜はもともと1フロワーで構成され壁面ごとにインテリアが配置されていました。 長所としては伸び伸びと撮影することができ、そこで過ごす人たちは開放的な気持ちで撮影することが出来ました。 そして今回大掛かりなインテリア工事の中でもっとも核心的で斬新だったのが もともと1フロワーだった空間に、廊下とメインルーム2つと衣装室1つの計4ヶ所の空間を 仕切ることで実現することが出来ました。 今回の撮影場所は一番奥の部屋にあるプライベートリゾートというメインルームです。 その入り口には本部長お手製のガラスドアが取り付けられ、 その扉を開けて進むと写真の様な世界観が広がっています。 このように、空間の始まりである扉(ガラス窓)という存在とそれが創られた過程と なぜそれを創ったのかという理由を知っているからこそ実現できた スパイス的な前ぼかしが実現できたのではないかと思います。 この前ぼかしがあることにより、彼女の存在に靄がかかっているように見えより 妖艶な雰囲気を引き出すことが出来ました。 そして、今回この写真の世界観は『悩む力』です。 以下の文章は、Lee社長の2009年7月に書かれたブログの一文を抜粋したものです。 ライフスタジオは、多くの関係をもっている。 顧客とスタジオ、満足度と支払い、信頼と紹介、本社と加盟店、社長とスタッフ、男性と女性、 韓国と日本、カメラマンとアシスタント、利益と時間、売上と客単価などなど・・・・・・ 何か一つでも、簡単に解けることはない。あるいは、永遠の緊張をもたらす矛盾だらけの主体なのである。 何をもって、どんな論理で、どんな主題で、形式でそれを解いていくのか? 姜尙中教授が言っている悩む力ということが、生きていくことなのであり、悩む力が生きる力だという主張に、 もう一度必死で悩みながら生きていく力を得た。 https://www.lifestudio.jp/?run_id=staf_blog&bs=staff_blog&po_u_seq=4&page_no=14&po_seq=85840 今回の新横浜のインテリアを通じて多くの人が悩み考えました。 自分の話になってしまいますが私自身、知らないことに対する怖さから何度もくじけそうになりました。 また、求められていることに対応することで精一杯で目的を見失うこともありました。 そんな姿を良く知る身近な皆には沢山の苦労と心配をかけてしまいました。 しかし、それも含めてインテリア工事で悩み考えた皆のエネルギーが、 動けない自分を突き動かしてくれたのは確かです。 そんな経験が全て染みこんだこの空間で何を表現したいのかというのは この一言に集約させることが出来ると思います・・・ それは新横浜店の写真主題である『生命力』です。 人間にとって生命力というのは何も前向きで肯定的な事だけではありません。 時として否定的で後ろ向きなこともあります。 それが『悩む』という人間らしい美しい姿であるということを私は伝えたかったのです。 新しい空間で始まった撮影は常にこの悩む力がフル回転します。 その度に、分析、修正、実践を繰り返し常に真の美しさを追求していきたいです・・・。 Photography by ouchi akane Coodi by kinoshita Kaori
Kasuya Family
2017/7/19
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kasuya family 今回は僕の中で特別な撮影でした。 それが今回入らせて頂いたKasuya Familyの撮影です。 なぜ特別なのか。 Kasuya Familyは僕が3年前に2度、アシスタントとして撮影に入らせてもらった家族です。 それだけだったらお久しぶりということでまた撮影に入れた感動だけでしたが、実は3年前に、カメラマンデビューを控え、撮影練習をお願いしたご家族でした。 撮影終わりに少しお時間を頂いて1人で撮影練習をさせてもらい、せっかくお時間をもらったのにうまく撮れなかったという記憶があり、カメラマンとして責任を取れなかったと反省したことを覚えています。 あれから3年。 Kasuya Familyはライフスタジオに何度もお越しいただきライフギフトにまで参加してくださったファミリーになり、僕もそれなりに色々と経験をさせてもらい今に至りました。 撮影前に成長した姿を見てもらいたい、僕の写真で感動してもらいたいと思ったお客様はKasuya Familyが正直初めてかもしれません。そのため、撮影前からいつもとは違う緊張が僕の中にありました。 いざ3年ぶりの再開 玄関を開けると、覚えていないかもしれないと思っていましたが「お久しぶりです」の一言から挨拶をしました。すると、みなさんから「かっちゃん」と僕の名前を呼んで下さる姿が見えました。 その時の僕の心の中に入ってきた衝撃。覚えててくれたんだという感動、安心感、やってやるぞという3つの気持ちが同時にうまれた瞬間でした。 しばし色んな話をさせてもらいながら、カウンセリングを始めていきましたが、僕の頭の中にインパクトのある写真を撮らなければという考えが出てきました。 多分、今までで1番よかった、感動した、そう思ってもらうためにはインパ クトのある写真が絶対に必要だという考えからだと思うのですが、頭の中にずっと流れてきたんです。 今までは、インパクトのある写真は出たらいいな。だったのですが、インパクトのある写真をだす。と、この撮影をきっかけに考えた方が変わりました。 ということでインパクトのある写真を出すという目標を掲げて撮影に挑んでいきました。 しかし実際はどのように撮ったらインパクトのある写真になるのか、探り探りの撮影になっていました。 家族のシーンが終わり、2ショットのシーンが終わり、残り今回メインのYURIKAちゃんのソロ2シーン。 若干のあせりを感じながら分類をしていました。そもそもインパクトのある写真って何だと。 その時に、今回アシスタントに入ってくれた「まなみ」さんが次のシーンの準備を終え、呼びにきてくれたました。 その際にそうだ!と思い、まなみさ んに聞いてみました。 「YURIKAちゃんの特徴何かな?」 そうするとまなみさんは 「口じゃない?」と答えてくれました。 僕の視点で見ると、目とか、長い髪とか、お茶目だったり、はっきり言う性格というのが出てきたのですが、まなみさんの視点では口でした。 理由を聞くと、5歳の子達って言葉が通じるから色んなことやってくれるけど、この子色んな支持だしても口に緊張感がないから、口に変に力が入ったり、下唇噛んだりしないし、 そのままの唇が可愛いと教えてくれました。 このときにピーンっと僕は3つの発見をこの会話から見つけました。 1つは、インパクトのある写真は作ってだすということ。 結局写真を通して何を伝えたいのか、そのために具体的に何を写すのか、明確に整理をして写真で残すことで、インパクトのある写真が生まれるのではないのか。 そして、すべてを作るとやらされている写真になってしまうので、99%をつくり、残り1%の偶然性を予測しながら導き出すというのがインパクトのある写真の方法ではないかと発見しました。 2つめは、客観を取り入れること。 被写体を観察しながら撮影をしていきますが、一緒に入っているアシスタントの方からの意見も聞くことにより、自分が見ている視点が増えます。その結果色んな視点で撮影をすることができるというのを知りました。 3つめ、2人で一緒に力を合わせて撮るということ。 今まではそれぞれの役割があり、その役割を全うすることで撮影がスムーズにいくと考えていましたが、役割を全うするだけでなく、一緒に楽しい空間を作り、感動させる写真を一緒に作っていく過程が撮影においてとても重要なんだと気づきました。 カメラマンだから撮影だけに集中するのではなく、一緒に盛り上げ、アシスタントだから雰囲気を作るだけでなく、一緒に可愛いところを探す。当たり前のことですが、一緒に1つの物を作る過程もとても重要だと気づかされました。 そんなこんなで、まなみさんの会話から僕の撮りたい物が明確になり、ソロ撮影を始めていきました。 先にドレスに着替えていたので、まだ残り1シーン残っていましたが、2シーン目のドレスのときに勝負に出ました。 どのタイミングで口にフォーカスをあてようかと考えたときに、ドレスの最後の1枚で表情が出るクローズアップより、口にフォーカスを当てた写真で終わった方がスライドショー流すときにインパクト残るかなと考え、最後の1枚に口にフォーカスを当てた写真を持ってきました。 それが今回の1枚です。 表情でなく、唇にフォーカスがいくように、目を帽子で隠し、口元が笑ったり、口元を尖がらせたりしたら、YURIKAちゃん本来の可愛い口がでないので、静かな雰囲気で静かに触ってもらいました。 ちなみにこのときにまなみさんが、僕がやらされている写真が嫌いなのを知っ ているためにうまく声かけをしてくれました。その結果、彼女の唇を触る手が自然な形をしてくれました。 そして本当は右手は写していないアップの写真も撮っていました。しかし、分類で写真を選ぶ際に、YURIKAちゃんの女の子らしさの要素があったほうが、YURIKAちゃんらしい、大人になっていくYURIKAちゃんというのがわかると思ったんです。 まなみさんがこの子のために巻いてくれた髪、女性らしさを出すために持たせた香水。この年齢しか着れないドレス。手の大きさ。顔のふっくら感。 これらの要素があっての口元にフォーカスをおいてる写真だから可愛いし、インパクトが残せると思ったんです。インパクトのある写真はすべての構成要素を一致させるからこそ出てくる。そういう意味をこめてこの 写真を残しました。 今回どうしても運命的に再開したKasuya Familyのこと、そしてインパクトのある写真を出すとはこういうことだったのかという発見をみなさんにみてもらいたいと思い書かせてもらいました。 ありがとうございました。
私の写真
2017/7/1
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普段75枚の写真を撮っていて、私が信条にしていることが幾つかあります。その内の一つが、75枚をショートムービーの様に流れで魅せつつも、1枚の写真の重みを大切に撮影する事です。 その家族と共に過ごす濃密な1時間を75枚という決められた枚数で語る事ももちろん重要だと思っていますが、私はその75枚の中の1枚1枚の写真に込める想いも大事にしたいと考えています。だから私は、その1枚の写真に時には大胆な気持ちでシャッターを切ったり、悩みに悩んで臆病な気持ちになってシャッターを切るのです。でも自分の中で考え抜いて撮った写真は、私の写真であるのです。スライドショーで75枚を流していて、途中で画面を止めても、どれもがたった一つタイトルになる写真なのです。 これまでの自分の写真を見て自分自身で感じていた事は、誰かの影響が直ぐに分かる写真だな~とか、綺麗にまとめようとした写真だな~というアンチな見方ばかりでした。これは第三者からも言われてきた事なので、実際にそのような写真ばかりだったのだと思います。でも最近になって「私の写真」というフレーズをよく耳にする事が増えました。写真に携わるようになって、これまでもがいていた「私の写真」というものを漸く昇化させつつあるのかと考えます。今回この選んだ1枚は、75枚の中のたったの1枚でもあるし、とっておきの1枚でもあるのです。 この被写体に対して特別なエピソードはありません。 オムツシーンの合間にコンディションを上げる為にミルクやおやつを食べることは良くあるかと思います。この写真もそんな一コマです。でも、そんな日常的な光景を劇的に見せることが、撮影した私の使命だと思っています。ありのままを撮影するだけでは、よりその写真を特別なモノとする事は出来ないのです。カメラマンにはいろいろなタイプがいると思います。誰もが驚くような構図や光でアーティスティックに撮る人、柔らかい雰囲気を撮る事が得意な人など、各自が得意なジャンルや強みを持っていると思いますが、私はそのどれも持っていないのです。ではそんな私がこの日常的な光景を劇的に変えるにはどうしたら良いのでしょうか。そこで私に出来る事は、これまで学んできた事をフル回転して全力で惜しげなく出し切る事だと考えます。 赤ちゃんの柔らかな弾力ある肌がより綺麗に映るように光を考え、この写真でもっとも目線をもっていくポイントを作り、そこに目線が集中するような構図と構図に合わせてレンズで撮影し2次元でしかない写真に奥行きを持たせる事、光だとか構図とか基本的な事だと思いますが、基本的な事を最大限出し切って撮影する事が、写真を特別なものにする為の魔法なのだと思いました。だから「この子はこうだった」とか「あの時のママの気持ちはこうだった」とかは私には無く、そういう写真から感じる被写体に対する共感する想いは、見る人ひとりひとりが自分の中で、自分の気持ちとして写真から自然に感じ取ってくれたら良いなと思っています。 被写体との関係性ももちろん重要に感じますが、この写真においては、敢えて私という人間は入っていません。赤ちゃんとママというこの二人の空間において私は必要では無く、むしろ赤ちゃんとママの空間を作ってあげる事が、この写真の完成度を上げるのだと考えました。そして写真を見る人にとって、今回のこの写真からは「私の写真」というものを見て貰う事が重要だと思っています。
絵を描くように
2017/6/30
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絵を描いてみましょう。 私にはカンバースという空間があって光という絵の具も持っています。そして筆というカメラも持っています。私は自分が描きたいものを想像で描いてみます。 想像してまた足りない部分を足して頭の中で絵を完成します。絵は完成させたもののその絵はまだ完璧な絵ではありません。一人で空想の中で描いたとしも被写体もない想像でしか描いてないものはまだ実在もしてないものです。完璧に完成させるには被写体が必要で美しく描ける技術も必要です。 被写体と会った時から少しずつ絵は完成されていきます。 被写体が持ってるものと自分が持ってるイメージがよく混ぜあってからこそ1枚の絵ができます。 写真を撮る前には自分が考えているイメージを具体化する為他の人の写真を見たり絵を見たりいろんなものから影響を受けると思います。 実際撮影が始まったら被写体に似合いそうなイメージを決めて被写体に合うようにイメージを調節しなければなりません。 イメージが決まったらコーディネートとも話をします。この服の時にはこんな感じの雰囲気の写真を撮りたいとイメージを伝えるとコーディネートもそれに合わせた小物をつけてくれたり、その場の雰囲気を作ってくれ考えてるイメージに近くなるようにポーズも提案してくれます。被写体はそれに合わせて動いてくれたり、その子が持ってる雰囲気を出してくれます。 そうしてからこそカメラマン一人が考えた写真ではなくそこにいた被写体、コーディネートみんなの写真になると思っています。絵と同じで写真は一人で完成させるのが難しいものです。写真1枚にはカメラマンの考え、コーディネートのイメージ、被写体の雰囲気全てが入ってます。 この写真1枚にもそれがすべて入ってます。 この女の子は七五三撮影で来てくれました。 撮影の時もノリノリで着物もすごく似合ってる子でした。最後のドレスの撮影でどうしてもやりたいのがありました。 主題であがってた柔らかい光について、何回か話もしてこの子で自分がイメージしてる写真を撮りたいと思いました。 光がいっぱい入る窓の近くで寝転がってもらいました。女の子らしい柔らかい髪の毛の雰囲気のとドレスがふわっとしてる感じをよく表現する為に転がってもらってその途中に止めて撮ったり自然な仕草を誘導しました。普通に撮影したら髪の毛の黒と周りの白ではっきり色が別れる為ファイトバランスをいじつて写真に黄色味を足すようにしました。 黄色味を足す事によって髪の毛ももっと柔らかく見え、前ほげを入れることでふわっとした雰囲気を作ることができました。 手を耳に添えてもらい手から目にそして肩、腕のラインに落ちるまで写真の中で曲線が見えて写真に流れができるようにしました。 Jiyugaoka Photo by serin Coordi by Shie
この場所で
2017/6/30
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毎日撮影していると、毎日働いてると、毎日誰かと言葉を交わしていると 見えなくなるものがあります。 誰かと交わるから私は私と感じれる。これは誰しもがどこかで思うことだと思います。 関わることで自分はどう思うか感じれる、自分がどう受け取ったのか、自分がどんな気持ちになったのか?自分の中でぐるぐると考えに考え込んでいきます。そうやって自分で作った真っ暗な部屋に閉じこもり、ふと出口をみるとその出口はネズミ程の大きさの生き物でしか通れないものになっていました。私は殻に閉じこもってしまったのです。 それの突破口は私自身でなく仲間でした。 仲間がいることの重要さは13年間やってきた野球の経験から重々承知ではありましたが、大人になって出てくるめんどくささや恥ずかしさが私にはありました。それを気づかせてくれたのが仲間です。 千葉には気を使ってほしくない、さらけ出してほしい、もっと頼ってほしい、、etc そうやってみえた光がありました。 人に深く入るという方法を自ら閉じていたという気づきかなと思います。 毎日、撮影しているのは人です。カメラマンが人らしくないと次のステップにも進みにくいし自分の中にあるフィルターを取り外し見る力がなければ撮る写真も一定内にとどまってしまうのだと思います。 見えないものが見える時、次のステップに進む切符を手にした瞬間ではないでしょうか? 以前私のブログでこんな言葉を載せていました。 『 人は他人を完全に理解することは出来ない。 自分自身だって怪しいもんさ。 100%理解し合うのは不可能なんだよ。 まっ、だからこそ人は自分を、 他人を知ろうと努力をする。 だから面白いんだな、人生は。』 by 加治リョウジ 過去の自分に言い聞かせていた言葉をまさかまた言い聞かせることになるとは、、、 そこで この写真の彼を思い出しました。この写真は半年以上前の写真です。 パパさんママさん妹と4人で来店されました。 ママさん曰く「お兄ちゃんは写真撮られるのすごく好きなのよー」と 彼は引きつった顔で下を向いたのを覚えています。 この写真の彼ははじめかなり私たちに気を使っていました。妹が緊張したり急にはしゃいだりしていても微動だにしないお兄ちゃんでした。 行ってしまえば心を閉ざしていました。だまっていったことはやってくれてやさしさを感じつつも心は遠かったです。 しかし必死に話しかける私たちに気を使ってだんだんと話すようになり、彼も「お兄さんはじゃあ何が好きなの?」と私を探るようになりました。そして時間が経つにつれ話すことも増え、知ることも増え、最終的にはかっこよくとって欲しいとまで言ってくれました。小学生の男の子に気を使われてしまった。。。でもどこか私と似ている。似ているけどこの彼の方が素直で人らしいと思います。やりたくないことはねえ、、だって、、。 そして自ら閉ざしていたものを開放、どうせ撮るならかっこよく撮って欲しいと言ってくれた。 やっぱりママさんの言う通り写真を撮られるのが好きだったみたいです。 短時間で感じれたヒューマンストーリーといったら大袈裟ですが、そんな密度のある時間でした。 写真館は写真を産み、関係性を作る場所だけでない。ここは人として自分がどう向き合うか教えてくれる場所でもありました。美しく残すのは写真だけでなくその人物語を美しく語ることができるそんな仕事でした。 感謝をしたいと思います、この場所で
やわらかさとは
2017/6/30
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『やわらかさとは』 自分の中で「やわらかい」と言うと、 白っぽい、暖かい光、リラックスした空間。 この3つが浮かび上がる。 これは自分が直感的に思った事であって、この言葉についてもっと深く考える為に辞書的な意味も調べる必要があると思った。 しかし、その時フッと気になったことがある。 “逆にやわらかくないって何だろう“と思い始めたのだ。 やわらか・い〔やはらかい〕【柔らかい/軟らかい】 1.ふっくらとして堅くない。また、しなやかである。⇔かたい 2.おだやかである。柔和である。 3.堅苦しくない。融通がきく。⇔かたい かた・い【堅い/硬い/固い】 1.いかめしかったり、こわばったりしていて、すなおに人の気持ちに入ってこない。 2.緊張から、気持ちにゆとりがなくなる。 などを意味する。 まず、「やわらかい」の条件を満たすにはリラックスした空間づくり。 その場を通して被写体と自分が共感する事が一番大事だと思った。 リラックスした空間づくりの為には、被写体とカメラマンだけではなくコーディネート、ご両親。 その場にいる全員が一つになり共感できる関係性づくりも必要である。 そういった場づくりができていないと、 自分が作りあげた空間でせっかくリラックスし素直になれた被写体、 そして自分が持っているイメージが一致しなくなる。 それは自分が目指した「やわらかい」の意味とは遠ざかってしまう。 この日出会った彼女は、7才の七五三撮影で遊びに来てくれた女の子。 最初は着物と日本髪姿でお淑やかなお姉さんになりきっていたが、 着物を脱いだ途端、リラックスした顔でお喋りを始める。 まさに、「かたい」から「やわらかい」になる瞬間だった。 そしてドレスをまとった彼女の姿は、まさに「やわらかい」雰囲気で溢れていた。 そんな彼女を見て微笑むお母さんの顔も見えた。 リラックスしてくれた彼女とお母さんの笑顔。 その風景を見ていると自分も安心したと言うか、同じく暖かい気持ちになれた気がした。 そしてその時に思った。 この場の雰囲気、自分が感じているこの気持ち、彼女の表情が 全て自分の「やわらかい」と一致していると感じた。 撮影にだいぶなれてきてくれた彼女を窓に向かわせ後向きに立たせた。 そして名前を呼んでみた。 ”自分のイメージを十分に再現するには技術も大事だと思うが、一瞬のヒラメキや偶然が入る事も可能だと思う。 リラックスした空間で自然に出てくる被写体の表情、仕草、雰囲気。 それはその人だけのモノであり、成長でもある。” Jiyugaoka Photo by Ren Coordi by Toda
兄弟の日常
2017/6/30
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2年前くらいのことです。 今草加店の店長の鈴木さんが代々木にいた時。 たまたま代々木で出勤になったので鈴木さんに写真を教えてもらおうと思い聞いたことがあります。 実際その日は一緒に撮影に入らせてもらいアシスタントをさせてもらいました。 そして営業おわり、少し写真の話をしてくれました。 正直全ては覚えていません。しかし、僕の中で印象に残ったことはあります。 2ショットを撮るときみんな色々やらせるけど、普段の兄弟の姿ってそんなにカッチリしてなくない? この言葉を聞いた当時は、まだポーズとか、構図とかでしか耳を傾けてなかったのかもしれません。 あれから2年。 あの言葉を最近撮影中にふと思い出しました。 2ショットの撮影をしていく中で、綺麗に撮りたいが一番にあるのでいつも型にはめてしまう自分がいます。 構図、小物、2人の位置、2人の絡み方、どこからどこまで写そうかなど。 そのときにあの言葉を思いだしたので、鈴木さんだったらどうやって撮るかなと思考が変わりました。 2年前には、技術面のみに耳が傾いていましたが、2年たった今だったらなんとなくわかる気がします。 どのように撮影に取り組んで、どのように写真を残すのかが重要なのかなって。 だから鈴木さんだったら、目の前にいる彼らの性格とか、2人の関係とかをみて、そこから鈴木さんが考える2人の日常の写真を撮っていくのではないかなと思いました。 ちょうどここ何ヶ月は、ずっと被写体の内面を見ようと集中して撮影に挑んできました。 むしろ、被写体の内面に入ろうとしないと自分が波に乗ってこないというか、そんな現象に自分がなってきました。 今だったら2年前の鈴木さんの言っていた撮り方僕も出来るかもしれない。 だから実際やってみました。 この2人は、しっかり者の兄と、お茶目な弟君でした。 面倒見が良い兄は弟君に優しく、弟君はそんな優しい兄が好きで、兄と一緒に何かやることが好きでした。 また例えば兄は、AをやってといったらきっちりAをやる子です。 弟君は、Aをやってといったら元気なのでBをやる子でした。 また、兄が弟君に、ああしなさい!とか言うタイプではなく、優しく見守ってくれて、弟君が困ったら助けてあげる性格です。 そういう2人の関係、性格を見て、2人の日常はこういうかんじゃないかなと思いこの1枚を撮りました。 床の線が一定方向に向いているため、それに合わせて枕を置き、床の線とは対象的に兄に寝てもらうことにより、兄の存在感をだしました。 また、弟君のお茶目さ、兄に対しての甘えん坊な感じは普通に兄と横並びにしたらその子らしさが出ないと思い、あえて兄のお腹の上に寝てもらいました。 また窓からの光から出来た影。 正直僕明るい写真が好きなので影を写さなくても良かったのですが、ただ床を写すよりアクセントがあったほうが綺麗かと思い入れました。 それが結果的に僕が表現したかった、お家での彼らの日常というのをより具体的にしてくれました。 彼らの性格、関係から彼らはどんな子達なのか、そこから彼らの日常を想像し、つくり、彼ららしさを表現する。 今までは、写真は生命力がポイントだとおもっていましたが、鈴木さんの言葉から、彼ららしさを表現することも大切なことだと気づくことができました。 弟君はありのまま、それを優しく見守ってくれる兄。 そんな彼らの兄弟の日常でした。
恥ずかしさの瞬間
2017/6/29
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恥ずかしさの瞬間 Photography by oikawa Coodi by Kaori kinoshita 恥ずかしさの瞬間 それは心と心が寄り添いあう瞬間でもあります。 言葉を使い、キャッチボールを繰り返すことは、心が近づいていく瞬間を生み出すことです。 今回フォトエッセイに書いているお子様は、とても恥ずかしがり屋の子でした。 恥ずかしがり屋のお子様の心をどうやって少しずつ開いてもらい、その子らしい表情を引き出すか、それは被写体の性格やタイミングをみながら、コーディネーターと共に声をかけ続けることでもあります。そうすることによって心と心が寄り添いあう瞬間に出会えるからです。 私たちは日々75CUTの中でストーリーを構成しながら撮影を行っています。 被写体をただ立たせただけの姿で撮影するではなくて、被写体を動かしながら撮影をするスタイルのものです。 それにはあらかじめ、相手を知る必要があります。それがのちにポーズにいかされるものになるからです。 例えば、着ている服にもそれが適応できます。みんなスーツのような服を着ていれば、家族撮影の時のポーズも変わってきます。 スーツはいわゆる正装でもあり、床に座らせて撮影を行うと、座高が低くなるため、ズボンの裾が上がってしまい、裾から靴下などが見えてしまったりします。無理な姿勢は体のラインや衣服の乱れも多くなってしまうからです。 だからこそ目に見える衣服などからストーリーを構成していかなくてはいけません。 今回のお子様の撮影は入園でした。 園服をお持ち込みされ撮影していく中で、色々声をかけ続けていました。 例えば、鞄の中に何か入っているの?ボタンを触ってみてなど、動きが生まれる声掛けをしていきます。 この時は、お子様に帽子を持ってみてとお願いしました。 そうすると彼は顔を隠すような仕草をしました。そこで、私の中で何かがつながった感覚になったのです。 それはなにかというと、”恥ずかしがり屋な彼”と、この”動き”がつながったた瞬間でもありました。 私は彼に、再度顔を隠してとお願いしました。そうすると彼はまた顔を帽子で隠し始めました。 そして私は、その間“光”と“背景のバランス”を再度見直しながら、彼の動きに合わせて写真のシャッターを押しました。 彼の恥ずかしがり屋な性格、それに合わせた動き、そしてその瞬間を待つ私。 それがすべて合わさりあって出来た一枚なのです。
その向こうの、向こう側
2017/6/29
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見慣れたように、見ないこと。 曖昧な印象を、形にしていくこと。 目に見えない特性と関係を、表すこと。 既存の世界から、脱出すること。 6月は、1ヶ月近くかかりながら自分の中で『写真大辞典』と向き合っていました。 『写真大辞典』は、『写真に対しての実践的な接近方法』が記されているものだと思っています。 写真に対して接近する、ということは、そのものを遠くから何となく眺めながら、見えない部分を多くの想定や固定概念や主観で補完するのではなく、それを正確に把握する為に実践的に近付いていく、ということです。 例えば、スペインのサグラダ・ファミリアを観光バスから眺めながら「有名な建造物だ」とか「トウモロコシみたいだなぁ」と思うのと、バスから降りてとことこ歩いて近くまで行ってそれを見た時には、認識が大きく異なる筈です。 近くで見れば、それが未だに建造中であちこちで工事の音が響いていて、外壁に施されたレリーフや細工の細かさに驚き、下から見上げるその巨大さはトウモロコシどころではありません。 近くで見ることで、その実態がわかります。『写真に対しての実践的な接近方法』というのも、そういうことではないでしょうか。 写真大辞典に向き合いながら、一歩一歩、少なくとも以前よりはちょっとだけ、『写真』というものに近付けたような気がするのです。 自覚はあるのですが、自分は保守的な人間なので、ともすると変化を恐れ、安定を求める傾向にあります。 これは、私の写真表現における大きな壁でした。 ある一定の基準を満たしてはいるが、ぐっとくる1カットがない。 あと少し、何かがあればもっと良くなりそう。 でも、基本的には問題はないよ。 自分の写真に対して、よく言われてきたことです。 基本的には問題が無く、お客様が喜んでくれるような写真は撮れていて、でも撮影者側から見た時には「何か」が足りない。 これは、商業写真的・記録写真的な基準はクリアしながら、芸術的表現における部分の欠如を指していると思われました。 『写真大辞典』でも触れられていましたが、巷に溢れる多くの写真には、『商業写真』『記録写真』『芸術写真』といったそれぞれの見方ができます。 それらはいずれも、見る者がその意味を付与するので、七五三の記念写真は家族にとっては『記録写真』の性質を持ちながら、それが写真館で撮られた場合は『商業写真』の側面も併せ持ち、大物の写真家が有名モデルを撮影したコマーシャルフォトは『芸術性』が高いながらも、それが化粧品会社からのオファーであった場合『商業的』な部分もあると言えるのかも知れません。 ライフスタジオでは『写真館』という商業形態で撮影をしているので、勿論『商業写真』ではあるのですが、そこに『記録写真』の性質も、『芸術写真』の性質も含みながら撮影をしています。 私自身も、それを感覚的に理解はしながら撮影していました。 その感覚的な理解を、写真大辞典を通して言葉として整理された時、ああ、なるほどと腑に落ちました。 何か足りない、その「何か」が何なのか、という問題が明確になり、ではどうするか、という課題設定ができたからです。 この1ヶ月、読んで、書いて、実践して、その写真を分析して、青葉店でも共有して、という作業量は膨大ではありました。 膨大ではありましたが、6年分の固定概念をぶっ壊すには、必要な作業量でした。 (まだ壊し足りないけど) 青葉店で撮影をするようになって、半年が過ぎようとしています。 季節は冬から春へ、夏へと移り変わり、光も変化し、しかし撮影空間の大部分は変化無くそこに在ります。 そして、変化を恐れ安定を求めがちな私の写真は、ともすると『被写体』にフォーカスし続けていました。 目の前の被写体を表現する、その為に、自分が使い慣れた要素を組み合わせながら撮っていく。その組み合わせの数がだんだんとパターン化され、やがてマンネリを生みます。 この写真は、モニターの後にコーディネーターから「れいりさん、攻めてるな〜と思いました」と言われました。 そして、「何故このように撮ったのか」を、改めて聞かれました。 彼女がそう言ってくれたこと、聞いてくれたことが、私にとってはひとつの成功と言えるのかも知れません。 そのくらい、私が「普段は、撮らない」写真であるということだからです。 被写体の表現は、何をおいてもまずその「被写体の存在」から始まるべきです。 しかし、ともすると私は「いつもの」場所に連れて行き、「いつもの」感じで撮ってしまいがちです。 「いつもの」場所を選ぶ根拠は、ない訳ではありません。例えばそこが光が良いからとか、色味のイメージが合っているからとか、その程度の理由ではありますが。 しかし、写真の構成要素は無限にあります。その光が良いからそこで撮る、と言うのなら、その光を使って「いつも」とは違う表現をすることだって、可能である筈なのです。 その光もまた、本当に「いつも同じ」であるのか? それをよくよく観察してみれば、何か違う要素がまた見付かるのではないのか? その要素は、この被写体の表現に適切であるのか?またどのように使えば適切だと言えるのか? どのように表現したいのか? フォーカスすべき部分は何処なのか? 考えるべきこともまた無限にあり、選択肢は幾つもあります。 この写真は、着替えをした後の最初の写真でした。 シーンが変わる時、私は敢えてインテリアや衣装を広く入れ込んだ説明的な写真をまず撮ります。しかし、今回はそのパターンから脱却して、極めてイメージカットに近い写真を構成しました。 夕方に差し掛かるこの時期のこの時間、この窓からの光は何度も撮影に利用したことがあります。 この光を、少し柔らかく使いたいと思いました。 彼女自身の、10歳という年齢以上に大人びた雰囲気は、その柔らかな光を利用してイメージにすることができると踏み、窓の格子に手を添えて瞳を伏せてもらいました。 彼女の目は意志の強い大きな瞳で、とても魅力的だったのですが、この写真では彼女の女性的で儚げなイメージの構築という点を優先しています。 被写体に大きく被さる前ボケは、私がもっとも勇気を振り絞って踏み出した一歩でした。 ぐっとくる「何か」、いつも足りない「何か」。きっとこの勇気の先に、その「何か」の片鱗が掴めるのではないかと思ったのです。 前ボケが被り過ぎているのではないか?という問いが、勇気を必要とした理由です。メインとなる被写体が隠れている。しかし、霞みながら隠れることで、よりその存在が際立ちました。見えにくさがあるからこそ見ようとする、そんな効果が得られたように思います。 ソフトフィルターをかけたような、霞がかったその向こう側の彼女の存在が、より儚げな印象になって演出されました。 私と彼女の距離。隔てられたその先に、彼女がいる。コドモと言うには大人びていて、大人と言うにはまだ早い、そんな時期の女の子から、私は距離を取ります。 リラックスさせてあげようとか、安心させてあげようとか、この時はそういうことを少し置いておきました。戸惑い、緊張、葛藤、ひょっとしたら少し不安?そういうものが、10歳の女の子の中には在る筈です。 それを内に秘めて、快活なその瞳を伏せて、霞むその向こう側にいる彼女。 それが、今の彼女。 勇気の結果は、賛否両論かも知れません。 ただ言えることは、自分で自分にかけていたブレーキから手を離すことができた、ということです。 「パスポート用の証明写真を撮ってください」と言われれば、こういう写真は撮りません。 しかし、「10歳になる女の子に、その子自身がまだ知らない自分の魅力を見せてあげられるような写真を撮ってください」と言われれば、こういう写真に至る場合もあるかも知れません。 少なくともライフスタジオは証明写真は撮っていませんし、「『もうひとりの私』を被写体自らが発見する瞬間こそシャッターを押す」というスタジオです。 この世界にただひとりの「あなた」と、この世界にただひとりの「わたし」が向き合う瞬間に、私が見付けた「あなた」の美しさ。 そこでしか生まれないものを、形に残すということは、いつもとても難しいと思っています。 それでも、この1ヶ月自分が積み重ねたことが、自分にとって大きな意味を持つ写真を生みました。 この写真が、彼女にとっても意味あるものでありますように。 Life Studio No,99 Yokohama Aoba Photo&Wright by Reiri kuroki Coordi by Misaki Nakagawa
こんな仕事よ、ありがとう。
2017/6/28
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YOKOHAMA AOBA Photo:gomei Code:Sasaki この写真が撮られてから一か月以上が経ちました。 しばらく期間を開けて改めて写真を見てみても、私の中で意味ある写真だと思えましたので、多くの写真の中からこの一枚を文章で記そうと決めました。 少々個人的な話になりますが、この写真が私に意味ある一枚としての理由を記すには、当時の自分の状況の話をしなくてはならないのではないか。 そんな葛藤があったからこそ、文章にするまで時間がかかったようにも、今なら思います。 たった一か月の期間ですが、この一か月は私も変化をした様な気がするのです。 「自分の限界に挑戦し続けよう」 そんな安直な決心をしたのは18歳の頃でした。 当時は映画監督を夢見て、映画製作の専門学校に通いながら本編と言われる商業用の映画撮影の現場に繰り出し始めたころです。 社会の社の字も知らない若者が現場でできる事などそう多くありません。 今思うとただの雑用的な仕事が主でしたので、変わりは五万といる仕事内容ですが、当時の私には映画製作の一部に自分が加担している効能感が自分を支配をし、明るい未来の希望だけが、私を救う状況でした。 誰よりも現場に早く行き、誰よりも遅くまで仕事をしました。 現場によっては朝の5時から夜中の3時までという時間拘束がありながらも、自分の限界に挑戦する気持ちだけが体を突き動かしました。 正に夢中だったのだと思います。 でも夢中という言葉を少し分けて考えてみると、夢と中になります。 この状況は夢の中であり、叶わない素敵な理想の中でぐるぐるとしている若者の生活だったのでしょう。 人が働き続けられるような労働環境でなくとも、働く楽しさを何とか見つけ出しながら働いていましたのですから。 今も職は変わりながらも、18歳の頃に決めた「自分の限界に挑戦し続けよう」という考えは持ったまま働いています。 何となく自分の決心したことを裏切る事は、若かりし自分に恥ずかしさを覚えさせてしまうのではないだろうか、なんて思うからです。 昔の自分なんて頭の中にしかいないのですけれども。 しかしこの決意こそが自分を苦しめてゆくことになる場合もあります。 限界なんていうものは目に見えるものではないので、自分で設定するものです。 多くの事柄の限界値を自分で定め、その設定された目標点に挑戦し続けられるかどうか。 云わばおかれた環境とは別に考えやすくなってしまう妄信的な意識でもあるかもしれません。 自分を取り巻く環境が変化をしてゆく中、その変化を良い方向へ向ける為、改善点を見つけ出すため、本当に無数の要素を感じながらも、自分が出来る事は限られている状況を顧みず、自己処理が行えずに、悶々しながら時間だけが過ぎてゆきます。 ああ、こうしなくては。 もっとこうしなくては。 時間が刻々と過ぎてゆくのがいつの間にか脅迫観念変わり、心を蝕んでゆきます。 一人でどうにかしようと沼地で溺れない様に葛藤しているようなものです。 書くのも情けないような話ですが、素直な自己分析だと思って頂けると幸いです。 あの時の様に、一筋の光がどこかにあるはずだ、見つけるまで頑張るんだ。 上下の方向も分からないような状況で、沼のそこに向かって泳ぎを進めていたのでしょう。 真っ暗闇の中で色々と考え、迷走します。 無数のたらればの怨念が頭の中でリピートします。 そんな時に限って最大の自分自身への疑問が沸いてきました。 「写真撮るの好きだったけ?」 好きか嫌いかなんてその時の感情によって認識が左右されやすい問題にも関わらずに、ずっとずっと何時間も、何日も、何週間も、答えを探します。 「好きだ」 「本当に?」 「本当に好きだ」 「何故?」 「なんでもだ」 「本当に?」 自問自答を繰り返します。 そんな時は美化された思い出に縋ります。 写真の事は何もわからずにライフスタジオに入社をして、湘南店の黒木さんに電源のつけ方から教わり、考えが具現化されることが楽しく毎日触り、撮影練習では稚拙な写真でも喜んで貰え、慣れてきたころには私の写真で涙を流してくれて、自己肯定感につながり、楽しく美しい時間を思い返します。 そして自己規定をします。 「写真撮るの好きだったけ?」 「きっと好きなんだと思う…」 出会いはいつも突然です。 彼女はハーフ成人式枠でご予約を頂き、来店されました。 パパさん、ママさん、彼女の3名の家族構成。 ライフスタジオの事は以前から知って頂いていた様ですが、撮る時期と色々なタイミングが合わなく、今回初めてのライフうスタジオでの撮影となりました。 佐々木がヘアメイクを施しているところに、私が挨拶しにいくと、何とも恥ずかしそうに会釈をしてくれる姿は、少々内気な性格に感じました。 パパさんには当たりが強く、ヘアメイクを見ることも、ソロ撮影の撮影風景見せまいとダメ!と話している姿を見て、内弁慶な性格なのだなと彼女へ少し理解したところで撮影がスタートします。 この時は今後の自分の心を救ってくれる人だとは全くもって考えていませんでした。 「写真撮るの好きだったけ?」 「きっと好きなんだと思う…」 2メーン目の撮影が終わり、PCに撮った写真を入れ込んで入れ込んでいる時に、コーディネーターをしてくれていた佐々木から提案を貰います。 「ねえねえ、五明さん。トイレの方からいい光が入って来ているのだけれども何か生まれないかな」 「うーん…ちょっと試してみようか」 きっかけは唐突で、カジュアルな提案からです。 確かに現場を見ると、強く窓から伸びてくる光が廊下を煌々と照らしていました。 2シーン目は三つ編みのヘアスタイルとカラフルの衣装から、可愛いイメージを前面に演出するように撮影をしていましたが、3シーン目のドレス姿と、解いた髪の毛が印象を大きく変えていたので、提案を貰ってトイレ側を使って撮影をする事にします。 しばらくは陰影差を強くつけた撮影をしていましたが、なんとなく気になり、トイレ横の手洗い場の状況を確認してみました。 真っ赤な壁紙に小さな窓枠の形をした光を発見します。 青葉店へ来店された方ならわかりますが、そこはとても狭く、とてもでは無いですが普段撮影をするような場所ではありません。 まずドレスと手洗い場という相反する状況ですしね。 「ねえねえ、五明さん。トイレの方からいい光が入って来ているのだけれども何か生まれないかな」 生れました、写真と私の心に。 ライフスタジオで撮影に使用される光の多くは逆光とサイド光で、75cutの多くはそのような構成になっていることが多いです。 一般的には逆光は暗くなるというイメージがあるようで、意図ある逆光の写真は特に喜びと感動と与えてくれる要因になっているのではないかと感じます。 逆にあまり用途の少ない光は下から当てるアッパーライトとカメラ奥から当てる順光です。 私自身順光で撮影をすることは滅多にありません。 その理由としては一枚の写真の中に陰影を作る事が難しいという考えから、撮らない事が殆どです。 まずは被写体に正面から当てる事で、顔の中に影を作る事は基本的に無くなります。 すると被写体全体に同じ強さの光が当たるので、この場合は顔の凹凸を出すことは出来なくなります。 そこで一つ考えてみることとします。 この小窓の枠を利用した写真をうまくとる事は出来ないだろうか。 この光を一枚の写真の中でハイライトとして設定をした場合、ここでも陰影差を活かした写真が撮る事が出来るのではないだろうか。 他愛もない話をしながら、カメラの設定をしてゆきます。 ダイヤルをカチッ、カチッと回す度に、自分の心が共鳴するように高鳴ってゆくのを実感します。 心が高鳴ると、自然と私の姿にもポジティブな雰囲気がまとってゆき、声の音も高鳴ります。 正直この時どんな話をしていたのかは忘れました。 もしかしたら集中して、会話も支離滅裂だったのかもしれません。 ただ一つ覚えているのは、1cut撮った後に、カメラのサブディスプレイを見せて、 「こういう写真を撮ろうと思うんだ」 と伝えたことです。 この瞬間に彼女と、私と、こコーディネーターの佐々木に小さな共通の目標が生れます。 こういう写真という漠然とした情報と、一枚の写真という投げ出された情報に対して、各人、が自己解釈をします。 こういう写真を各々が瞬時で、どういう写真かを意味付けし各々が表現をし始めました。 カメラマンが構図と光を決定しながら、コーディネーターが細部のチェックを隈なく行い続け、彼女がポーズを付け出します。 その光景は雑誌撮影みたいな雰囲気をかもちだし、一人ひとりが自分の解釈に忠実に表現を始めます。 シャッターボタンを押し込むタイミングを見計らっている瞬間、彼女が優しい笑みを浮かべながら顎を少し上げ、首を傾けます。 感覚的に来た!と思いシャッターを切ろうとすると、髪の毛先が顔にかかってしまいます。 ああっ!と心で嘆こうとした瞬間にフレーム右上から手が伸びてきます。 一瞬の内に毛先が整われしっかりと表情が見えます、まさにコンマ何秒の世界。 佐々木、いや、かおちゃんナイスアシスト。 ピピッ、カシャ。 サブディスプレイには3人の主体性が詰まった一枚が表示されていました。 大体一畳半くらいのスペースに、大人2人と10歳が一人。 何とも異様な光景だったかもしれません。 これらの過程を踏まえながら、3人の主観が表現を通しながら主体として表れ、結合された一枚の写真となって表現がされました。 まだ高鳴る鼓動を感じながら、表現をする楽しさ、そして各自の表現が一つになってゆく過程をとおして、自分に大切な事に気付きます。 表現をすることの楽しさ、写真という表現媒体を通して伝える楽しさ、共に作る楽しさ。 やはり私は写真が好きなのだ、撮影が好きなのだ。 「写真撮るの好きだったけ?」 「好きに決まっている」 「本当に?」 「本当だ」 「…」 このお客様はHP掲載不可です。 大感動の後のモニター後、私は自分の写真分析アルバムを持って口説きに行きます。 写真分析という当社の内部文化、そしてどうしても今回の写真の事を書きたい熱意を伝えます。 少々戸惑いながらもママさんがこんな言葉を。 「うちの子供でいいんですか?」 「いいんです!!」 なんの根拠もない自身だけを伝え、写真分析だけの為の使用という条件付きで特別に許可を頂きました。 この文章を書きながら思います。 ライフスタジオは人を目的としている企業です。 人が成長、または発展するには関係が無くては出来ず、一人では行うことが出来ません、外的要因が無いとできません。 今回私の外的要因となったこことは、彼女、佐々木、パパさん、ママさん、写真撮影、光など本当に多くの要素との関係が私を救ってくれたように感じます。 苦しみの時間が長かった分、 爽快感も果てしなく感じるほどでした。 撮影を通しながら、大切なものに気付き、自分の障害を越える事。 これらのことが本当に私にとって意味ある写真になったのだと感じます。 撮影中もついつい漏れてしましましたが、多くの事に感謝がしつくせません。 「ライフスタジオを選んでくれてありがとう」 「一緒に撮影をしてくれてありがとう」 「私を救ってくれてありがとう」 そして、素敵な経験が日常にあふれている 「こんな仕事よ、ありがとう」 関係で超えてゆくライフスタジオ。 私にとって少し近づけた一枚です。 今では彼女と3DSのフレンドになっています。
伝える、表現。
2017/6/28
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Photo by Kaori Kobayashi Coodi by Yuko Oikawa in Shinyokohama はじめまして、と出会った瞬間の彼女の瞳が今でも忘れられません。 生まれて3か月、まだ3か月、されど3か月。 彼女には彼女の思考があり、認識があり、判断があります。 まっすぐ目の前の光景や人を見据えながらぎゅっとパパやママに寄り沿い、 こらえてこらえて、そしてスタジオ中にとおる大きな声で泣きはじめました。 お腹がすいているのか、眠たいのか、初めての場所が不安なのか、人見知りなのか、、、 きっと、そのどれもがあてはまっていたと思います。 あの手この手で大人たちは彼女に安心してもらおうと試みます。 でもやっぱり彼女の瞳はずっと不安気で、パパママから離れようものならより一層の大きな声で泣いていました。 揺らしても、触っても、おもちゃの音も、彼女の安心にはなりませんでした。 全身を使って泣きながら、彼女は一度眠りにつきました。 穏やかな寝顔、それでも眉間のしわはとれず、20分ほど眠った後、彼女は目を覚ましました。 しかし見上げれば先ほどと同じ光景。彼女はすぐにまた泣き始めました。 全身で、全力の力を使って、おおきな声でずっとずっと泣き続けていました。 パパに抱っこしてもらったり、ママに抱っこしてもらったり、それでも体を小刻みに震えさせながら泣き続けます。 このまま泣き続ければどんどん体力はなくなっていくのはよく分かっていました。 どうしたら安心させてあげられるか?一緒に入っている及川さん、そしてパパ、ママと、あの手この手、頭をフル回転させながら撮影をすすめました。 ごまかしながら一瞬を狙って撮ってみたり、パパママにあやしてもらいながらその風景を残したり・・・。 しかし彼女は泣いています。 私はごまかすのを途中でやめました。 そのまま、そのまま撮りましょうと話しました。 彼女の写真はほとんど泣き顔です。泣き顔で、眠っている顔で、不安そうな顔で。 そして、パパやママにぎゅっと抱っこされています。 その姿を、今自分が持っているすべてを使って残していこうと決めました。 すっぽりとパパの腕やママの腕に抱っこされ、顔をうずめる姿は何とも愛おしく感じました。 全力で泣き、全力でママやパパの腕や胸に安心を求める姿。 そのまだ頼りない、頭から首、背中のライン、小さな手、足。 顔が見えなくとも、彼女の安心はそこにあるのだということを物語っています。 Babyの店舗として撮影文化が根強く作られてきたこの新横浜店で、沢山のbabyたちと出会ってきました。 育児の本を読めば、大体月齢で出来ること、その特徴が載っていて、私たちも多くのこどもたちと接する中で多くの知識を持っていますが、ひとりひとり違う個性を持っているのは大人もKidsもどんなちいさなBabyも一緒です。 月齢では計り知れない、その子の主張があるのです。 そのすべて受け止め、安心を与えるのがママやパパの役目。 それがきっと、生まれて初めて与えられる安心と愛なのだと感じます。 ママの腕の中でもえんえんと泣き続ける。それを大丈夫、大丈夫、と穏やかな笑みと姿勢で受け止めるママ。 私はこの場所に腰掛けること以外は、“いつも通り、声を聞かせてあげてください”と言い、その場を離れました。 望遠で、静かに、静かに、見守りながら、彼女の姿を収めていきます。 こうやって腕にすっぽり収まる体の大きさもいまだけ。 全身をつかって泣く泣き方も、今この時だけ。 ママに顔をうずめて、その頭から背中にかけての丸いラインも、いまだけ。 ぎゅっとにぎった小さな手も、すべてが今だけ。 写真には、記憶を記録する性質があるといいます。 小さい時の思い出は、きっとパパやママに聞いたりする以外に知り得ることはできません。 写真でみる以外に、自分の小さい時の姿を知ることは出来ません。 パパやママはこの時のエピソードを、この写真を見るたびに思い出してくれることでしょう。 たくさん泣いたよね。途中で寝ちゃったよね。なんて。 そうして写真を見ながら、彼女はその話を聞いて、何を感じるでしょうか。 それは彼女にしかわからないけれど、 この写真をみて感じることは紛れもなく自分の安心を与えてくれている、唯一無二の存在に、その偉大さに気付いてくれるのではないかと考えます。 私がこの写真で残したかったのは、こうして抱き締められていた自分の姿。 そしてママの全てを包み込み、受け入れる穏やかな表情。 その包み込まれた彼女とママの姿を、静かに、その時その瞬間を閉じ込めるかのように表現したくて、設定もモノクロに変えました。 少しコントラストを上げ、くっきりふたりの姿が浮かび上がるようにしました。 背景の質感も少しだけ残しつつ、空間の奥行きも感じられるように。 だけどこの瞬間シャッターを切った時は、互いに寄り沿うその姿の愛おしい瞬間、そのものに、集中していました。 基礎の構図や光、表現のための色味の設定、タイミング。 すべての基礎や技術は、撮りたいものを撮るために、必要なもので。 それがあるからこそ、残したいと強く思うその光景を一つの写真に収めることが出来るのだと、思います。 新横浜で撮られてきたBabyたちの写真は、本当にたくさんの愛の形を表現しています。 泣いてても、顔が見えなくても、その小さな手や足も、笑顔も、 全てが瞬間にシャッターを切ったカメラマンの思いです。 そこにはきっとパパやママの思いも含まれています。 特化した店舗だから、撮影枠がBaby専門だからということ以上に、 そういった写真が生まれてきたこの店舗だからこそ、Babyの写真は新横浜で、、と来てくれるお客さんが多いのだと、感じます。 そうした店舗に配属になり、自分もこの瞬間ならではの、愛や感情の表現の無限大さを感じています。 新横浜はいま生まれかわり、新たなスタートを切ります。 BabyでもKidsでも大人でも、今この瞬間を未来に残したいという気持ちは変わらない。 だからこそ、その時の魅力や感情を、いつか忘れてしまうかもしれない未来のあなたに伝えたい、感じてほしい。 ここに来てまた、写真を撮る理由を、再認識することができました。 より多くの魅力や感情を残せるように、表現を追い求めていきたいと思います。
Just good
2017/5/31
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photo by volvo codi by takumi write by volvo 被写体の彼女と撮影者である私との間にできた物語は、先の写真分析で書き留めましたのでここでは深く触れませんのでここではこの写真が持つ意味について書いてみたいと思います。 前回の写真分析です。 http://www.lifestudio.jp/?run_id=staf_blog&bs=staff_blog&po_u_seq=102&po_seq=146251 先日、写真人文学のサークルでこんな話をしました。 「原本CDに題名をつけるとしたら、その題名が特殊かどうかよりも すべての原本CDが違う題名になっているかどうかが重要だ」と。 私たちは一期一会の出会いで撮影し、唯一無二の写真を作るお手伝いをさせてもらっています。 原本CDにつく題名は、共に過ごした時間を75枚に切り取ったものとしてみたときに想像できる起票となりますし、それは1枚の写真が奏でる雰囲気よりも、一枚一枚の間にある実際には写真に写っていない部分が、その原本CDを意味づけする要素を多く持っています。 例えば、1枚目が園服で、75枚目がランドセルだとしたら・・・ 実際に伝えているのは1枚目と75枚目のたった2枚しかありませんが、想像するのは容易いです。 つまり原本CDというのは、ただ75枚で構成されたパラパラ漫画という事ではなく 共に過ごした時間と、被写体のこれまでの人生が凝縮された短編映画のような 意味合いを多く持っているものだと思います。 だから私たちは撮影中に雰囲気や空気感をとても大事にします。 実際に撮影現場の空気感というのは、誰でも、どこの店舗でも総じて明るく、楽しく、賑やかに通り行われています。 さらに、少しだけ細かいディテールを見ていくと原本CDというのは当たり前ですが構成している一枚一枚にフォーカスがあたります。原本CDの中に決定的な写真が何枚か入っていると、それによって原本CDの質は上がりお客様の感動を呼ぶ事も多くなりますが、75枚全てが決定的なわけではない事がほとんどです。 その数枚で原本CDを規定できるならば、それ以外の写真は無くても原本CDが成り立つ事になってしまいます。 つまり大局を見たときは原本CDが唯一無二の題名がつく事が美しい事であり、ディテールを見てみると一枚一枚の「完成度」が重要だという事になります。 よく原本CDは「流れが重要だ」とか「一枚一枚の質が重要だ」とか「ストーリー性が重要だ」といった議論がされますが、その大体が正解だし、不正解だと思います。 写真というのは、組写真であったとしてもまずは一枚ずつ見られます。 「the life」という商品を自分の原本で作成すると自分の写真一枚の質を実感する事ができますが、 一枚ずつが存在を現さない限り原本CDは色づきません。 たった1枚の写真の存在感の現れから原本CDは始まります。 たった1枚の写真の質が原本CDのすべてを規定してしまいます。 その一枚に必要な要素が、現段階で私が考えつく言葉は「被写体とインテリアの融合」です。 これまでずっと「統一感」という言葉をつかってきましたが、その統一感を生む上で最も結びつきが重要なのが 被写体とインテリアです。 これは「インテリアを入れて撮る」あるいは「引きの写真」といった言葉とは意味合いが異なります。 融合を辞書で引くと「とけあう」という意味だそうです。 被写体とインテリアがとけあう写真。 というとわかりやすいような、余計わかりにくいような気もしますが、この写真で見てみると車の入れる割合と左上のライト、右のライト、 そして奥の黄色いドアまでの関係性は、普通なら彼女との間に違和感を生みそうなインテリアでありながら被写体の彼女は車に乗りそうも無いイメージをして その表情と適当にハンドルをいじる手が「乗せられてる感」を出しているからだと思います。 あとは、表情と関連した明暗差です。 一般的に美しいと思われる光は、どちらかというと被写体ではなく後ろのドアに当たってると思いますが、これがもし、美しい光が彼女にあたり華やかさを醸し出したとしたらどうでしょうか。 私には違和感を感じます。 もちろん光が全くない場所を選択したわけではありません。このくらいの写真を撮るに当たって適切なこも薄く小さな光を探しました。 草加店の店長の鈴木君の写真分析に10%の小さな光の持つ力という言葉がありましたが、全くその通りで、被写体をどのように表現するのか?が先にあればメインライトというのはどんなに小さくても成り立ちます。 この場合、彼女を照らすよりも背景を照らす事でふてくされた表情に合わせた少しジメッとした空気感と明暗差で被写体を浮かばせることに着目しました。 引き写真はとけあう事。そう言い切ってもいいかもしれません。 被写体とインテリアがとけあう写真がもし原本の中に数枚あったなら、多くの情景描写がされ 一つ深い思い出が記録されるような気がします。
『人生にヒッチハイクはないのだ…!!』
2017/5/31
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新横浜店写真分析 人に写真に自分自身に深く向き合っていきたい。 『人生にヒッチハイクはないのだ…!!』 一つの店舗を運営するときにもっとも重要なものが何かを決め、それを掲げて共に関係を作りながら 自由にそして愉しく過ごしていくことは容易なことではありません。 でもその道がもっとも私たちの行きたい方向であり、険しくともそれを目指す価値を信じて 私たちは日々ライフスタジオで働いています。 企業の全体的な理念としては、人や関係などが優先されるということは企業が元々持っているものであり、 そこから派生する各支店はさらにその理念をより現場的立場で実践的に魅せていくことが必要です。 なぜならば、それが店舗の責任であると考えるからです。 2017年5月から新横浜店は、「Charm Point」 (チャームポイント)という愛らしいタイトルで 共に過ごす共同体を実現してみようと始まりました。核心は『魅力』です。 先ほど挙げたように店舗の中で重要なものを何か掲げるときは、 あらゆる側面から適切な内容を掬い上げることがもっとも最善なことだと考えます。 私は頭の中で沢山考えました。 まず最初にしたことは、スタッフの個性や性格を相手の立場で見つめてみることでした。 次にそこから相乗効果になる関係性をイメージしたり、それが良い形になった時の私たちの武器は何になるのか? 新横浜店だけがもっている長所とは何か? まず店舗のスタッフを軸に考えました。 その次に考えたのは1pointという共同体の中にいる新横浜店の役割です。 神奈川エリアでの新横浜店の役割とは何か? 1point全体の中での新横浜店の役割は何か? 私たちが目指している自立とは何か? 責任と権限とは何か? また、6項目の再認識や 50日の魔法の可能性など所属している組織的な面から新横浜の軸を考えてみました。 次に考えたのがライフスタジオという写真館の持っている可能性の軸です。 写真の概念や日本の写真館に対してライフスタジオがやるべきことが何か? またお客様が本当に求めているものが何か? お客様はなぜライフスタジオを訪ねてくださるのか? などなどお客様と私たちの観点でも考えてみました。 このようにあらゆる側面から新横浜店に似合う新横浜店らしいネーミングを掬い上げたときに思い浮かんだのが、『チャームポイント』でした。 魅力という言葉を辞書で調べると、 人の気持ちを引き付けて夢中にさせる力。 喜びを与え人々を引き付ける力。 興味を持ってもらい刺激を与えることなどが挙げられています。 このように、新横浜の核心を魅力に掲げたことにより、 私、あなた、私たちの連結により深い意味を持たせることが出来ました。 例えば、今継続的に続けている撮影文化の中にマイクを使って店舗の自己紹介をするという習慣があるのですが、 お客様に新横浜店のことをアピールするときには 『チャームポイントⓅ』(ちょっとしたダンス付き)で掛け声を皆で合わせて紹介をしています。 その時に私がよくお客様に伝えていることは、 美しさを表現して、楽しい思い出を記録していく為には、お客様といい関係を築いていくことがもっとも大切だと考えます。 その為にお互いの魅力を差し出し、共感することで私たちの関係が深まっていきます。 その瞬間生まれる相乗効果は人と人が出会い繋がるまでの過程で必ず必要なスパイスなのです。 それを今日は一日一緒に探していきましょう。 と話しています。 このように、自分たちからまずお客様に対して手を差し出すという行為は自らの仕事に対して より積極的に主体性を発揮しようという現れであり新横浜店らしい実践の一つだと思い今後も続けていきたいと思っています。 それがやがて一つのシナリオとして完成した時には、 今まで以上に自分たちがこのライフスタジオで働く理由がより明確になっていると思います。 前置きが長くなってしまいましたが 次はこの一枚の写真について話をしていきたいと思います。 新横浜店で撮影をするようになって一ヵ月が経ちました。 新横浜店の撮影環境に適応し次にしたことは、新横浜店の撮影空間のポイントやテーマを探すことでした。 そんな中、まだ見ぬ新横浜店の魅力的な撮影スポットを探し出すことが出来ました。 それが1階にあるバスの中のモニター室です。 モニター室=(イコール)モニターをする部屋 という考えは私たちの持っている固定概念です。 しかし、その固定概念を突破しバスの要素をより細かく見つめなおすことで、新しい表現方法が閃きました。 そして、具体的なイメージとそれにあった環境と条件を整えることが私の役割だと考えました。 そこで準備したのが、この撮影空間に適切な対象年齢を誘導し、バスの要素である無機質な鉄や皮やプラスチックといった素材感に合うボーイッシュなコーディーを創作したこと、そして被写体の魅力を受け入れ、それに似合う演出である表情とポージングの指示だしなど いくつかの条件が適切に揃ったときにこの一枚が完成しました。 これからは、ただ可愛い。だけの写真ではなく・・・。 タイトルにも挙げたように 『人生にはヒッチハイクはないのだ…!!』というような メッセージ性のある写真を今後創造していくことがライフスタジオの次の写真ではないかと考えています。。 p.s.....人生に近道はありません。 時として遠回りしている自分がいるかもしれません。 けれど、それも自分の人生。 一番大切なのは自分の人生の主人公に自分がなることです。 一度きりの人生、ヒッチハイクをして前に進むことを考えるよりも 自分の道を自ら決めて切り開いていくことがヒロインへの近道かもしれません・・・。 Photography by ouchi akane Coodi by kanasugi mayu
『あなたの呼吸と私の呼吸』
2017/5/31
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新横浜店写真分析 人に写真に自分自身に深く向き合っていきたい。 以前、UPさせていただいたフォトジェニックに有り難いコメントを頂きました。 返事をするのがかなり遅れてしまったので、 この場で感謝の意味もこめて少し自分の想いを綴らせて頂けたらと思います。 以下の文章は谷津さんから頂いたコメントです。 『大内さんの眼には、 人の表情が変わる瞬間をスローモーションで見れる能力が備わっていると思います。 大内さんの写真を温度で表すと、ちょうど人肌なんだと思います。 僕の中で、雰囲気のある写真は人肌よりもちょっとだけ高い温度だと思っています。 そういう写真を撮る人は五万といますし、それが必ずしも良いものだとは限らないと思っています。 温度が高ければ、人はそれを長く持ち続けることはできません。 でも、大内さんの写真はずっと人肌の温度だから、自分の体の一部のようになってしまう。 そういう写真が撮れる人だから、 写真が大内さんを離さないんだと思います。』 谷津さん。 心からありがとうございます。 この写真で何杯お酒が進むでしょうか。。 私は最近、お酒を卒業してホットウーロン茶専門ですがウーロンハイの気持ちでお供しますね。。 このように誰かが自分の写真をこんなにも温かく見守ってくれる人たちのおかげで、 私はここまで来ることが出来たんだと思います。 沢山悩みましたし、沢山失敗しましたし、 沢山弱音も吐きました。 だけど、沢山の愛に包まれて伸び伸びと ここまで進ませてもらえたこと。 実はすごい奇跡的なことだと思っています。 奇跡みたいな日常がもしかしたら私を魅了してくれているのかもしれません。 だからライフスタジオにここまで居続けることが出来たと思いますし、 これからは私自身が誰かを魅了できるような人になっていかなければいけないと思います。 また、今後も引き続き一緒に伴走している谷津さんには、水分補給を提供できるサポーターになっていけたら何よりです。 この一枚の写真は私がこのような雰囲気が好きだということもありますが、 被写体が持っている魅力が谷津さんが仰るように瞬間瞬間スローモーションで 見えた時があったので呼吸を合わせてシャッターを押していったときに魅せてくれた場面でした。 被写体の呼吸と自分の呼吸を合わせること、これが私にとっての意思疎通のひとつかもしれません。 いい写真を撮りたいの気持ちの底には、技術的な側面を超えて人と人の繋がりを求めている私の命題が 見え隠れしているのかもしません。 Photography by ouchi akane Coodi by kanasugi mayu
Index
2017/5/31
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Tokorozawa Photo Photo: Satsuki Kudo Coordinate: Yoko Moriya 20歳×過去と未来をつなぐ想起 先は未知。 しかし前へと道は続く。 その路を自分の足で踏みしめて歩き、背中を見せる。 その背中を見ていると、いつかの私の記憶を呼び起こさせるようで。 その記憶を辿ると、見えてくる今の私の根幹。 あぁ、そうか。私という人間は、あのときこんな風に人生という旅を見ていたのか。 晴れやかで、凛としたあなたの姿は、忘れていた記憶を、心もとない気持ちを、 それでも明るく前に進むあのときの私を、思い起こさせるもの。 赤いドアを開けて、家族と一緒にこのスタジオの中へ入ってきたあなた。見るからに晴れやかな振袖。 紺地に、古典だけどモダンな柄を着ているあたり、今どきのセンスを感じる。 凛として、堂々と、少しの違和感も感じずにそこにいる。その『自然』な佇まいを見ていると、思い起こされるのは私の20歳の頃。 少なくとも私が20歳の頃は、写真を撮られるということ自体に緊張をしてしまって、今見ると恥ずかしい思いを想起されるものしか写真が残っていないような気がする。 見事に中学生から25歳くらいまでの写真が残っていない。いや、そもそも撮っていないのか。写真に撮られることに興味がないのではなく、写真として見る自分の姿が嫌いだった。 もちろん、思春期特有のコンプレックスだったのだと今では思う。写真に写った自分の姿は、うねりが強いくせ毛に腫れぼったい一重の小さい目、そして丸い顔。 どうしようもない物理的な造形にコンプレックスを抱いていた十代の頃は、プリクラだろうと自分の姿を残すのが嫌だった。 20歳になって髪を染めた。明るめの茶髪に、少しメイクも覚えた。 それでも自分に何が合うのかわからないまま、成人式の写真を撮りに行った。自分に何が合うのかわからないので、着物は着付け師さんに選んでもらった。 ピンク地に黄色い花柄。染めたての茶髪には、白い花の飾り。鏡で自分の姿を見た私はその似合わなさに絶望し、写真に残ったときの引きつった表情に、その日二度目の絶望を覚えた。後日、写真が届いたが一度も見ることもなく実家の倉庫に封印している。 そんな苦く切なく恥ずかしい十代から20歳までの記憶が蘇るからか、本当に若いころの写真が少ない。もし今、その写真が残っていたとしても見返す勇気が出るのは40代を過ぎてからになると思う。 そのくらい、思い出したくないほどのコンプレックスの塊だったのだなと30代の自分が自覚する。 そのくらい、写真は過去の記憶を思い起こさせるものであると、落ち着いて考えられるようになったのはライフスタジオに来てからかもしれない。 「写真をツールとして人と繋がる」この仕事で出会う人たちは、何のために写真を撮るのだろうと考えれば、流れゆく記憶をまるで宝箱に宝石を入れるように留めておきたいからである。 多くは子どもの撮影のため、その欲求を持っているのは、大人の方だ。過ぎゆく時間と日々は、本当にとめどなくて、いつの間にか10年経っていることなんてざらである。その時のとめどなさを知っている大人たちは、我が子の過ぎて流れゆく「今」を写真という形に残しておきたい。それはただ、「今の姿」を残しておきたいというよりも、何年後、何十年後か、「今」がはるかに過ぎ去ったときに、「今」を思い起こさせるインデックスにしたいから。「今」が美しいということを、流れていく「過去」が温かく感じられることを、噛みしめるときが訪れるということを知っているから。 ただ時間を記録するのは、ビデオでもいいかもしれない。なんていったって、被写体が生き生きとした姿で動いて喋っているわけだし。 でも写真を撮るということが意外と廃れないのは、写真独特の「味」になるのかもしれない。静止しているから、事実ではないからこそ、人の記憶を呼び起こさせることを働かせ、人の主観によって思い起こさせる感覚や感情の質が違う。 例えば、愛する人が亡くなったときにその人の写真を見ると、自分がその人とどんな時を過ごし、どんな想いがあり、どんな存在として認識していたかを写真は語る。動画だと、その精密な姿によって制限されてしまう人の認識能力を敏感に活動させ、事実ではなくその被写体の存在の真実を記憶に残すことができる。 また、自分の過去の姿を写真で見ることで、その時の経験が連想され心境や価値観が呼び起こされ、自分の根拠を確認することができる。 写真とはただの静止画ではなく、人の認識に大きく作用するものが本質ではないか、と個人的には思う。 さて、難しい話はこのくらいにして、今回の撮影の話に戻る。 20歳の頃の私よりは、美しく輝かしく見える彼女。着物を選ぶセンスもよく、家族に愛され、彼女の存在の根拠ははっきりと見える。紛れもなく、今の彼女の姿は煌びやかで美しい。 その「今」の美しさを、例えば彼女が30歳になったときにも伝えられたら、40歳の彼女にも、50歳になっても…なんて考えていた。横顔が美しく、抜き襟からのぞくうなじの細さは、日本人女性ならではの美しさで息をのむほどだった。 でも、なんかそれだけじゃない。 なんか見えているものが、感じているものが、うまく表現できない。そんな感覚を覚える。 彼女はそれだけじゃないんだけど、私の中の何かが邪魔をする。 それは、見るからに美しい彼女の見かけに規定されていたからか、着物とはこういう撮り方で、彼女の美しさとは横顔で…なんて固定概念的な理屈に縛られているからか。 原点に戻ろう。私は何を撮りたいのか。それは、その人にしかないものじゃないのか。 誰でもいい写真じゃなくて、その人と私じゃないと撮れない写真。 それには、いったん成人式の堅さを崩す柔らかさを。動きを出すことを。ポイントを決めることを、しよう。 成人写真は、慣れないとぎこちなく撮影が進む。ぎこちない撮影は、被写体の動きを堅くさせる。 だから、ある程度美しいものという基準がないと迷いが生じるし、迷いながら動かす箇所が多ければ多いほど違和感のあるポージングになりがちだ。 だから、被写体の特徴を見て、的確に迷いなくポージングの指示をし、ぴたっと決まる完成形を掴まなくてはならない。見る箇所も気にする個所も多い。 だから難しさを感じるという声も理解できる。 しかし、こどもでも大人でも、基本は同じだと私は考える。 目的の中で、ポイントを踏んで表現をすること。これが必要だ。 まずは撮影をしている時の目的は「被写体を美しく撮ること」と「その人らしさ・自然な姿を撮ること」だと考える。 そのためには、空間づくりや声掛けが非常に重要だ。成人ではなくbaby撮影だと自然にそれを行っているだろう。Babyに威圧感を与えないように目線を低くし、声もワントーン高めの声で話しかける。 彼女は成人なので、できるだけ撮影者との敷居を低くすることが重要で、話す話も私の等身大のスタンスで、でも最近の大学生事情を聞きながら撮影を進めていく。 言葉を交わせばかわすほど、その場にいた家族ともなじみ、私の声も彼女に届きやすくなってくる。こういったときに、ポイントを踏みやすくなっていく。 ポイントは、「動きのバランスを崩すこと」。きっちり美しい形を撮影している中に、そんなことを気にしないカットを作りはさむこと。 このときは、私は彼女を椅子に座らせて、少し力を抜いてもらった。 やや左側に傾く身体に合わせるように左手で髪を触ってもらう。着物の撮影だけど、力を抜く瞬間。そのバランスを崩した瞬間に、「その人らしい」動きが出る。 この瞬間のポイントは体の傾きと指先。 その意味は、ポーズをせず着飾らない等身大の彼女。それが彼女の自然な瞬間だと思った。その自然な瞬間、光にも意味づけをしておく。溢れんばかりの逆光は彼女が大人になって抱く希望のように。 下に入れた前ぼかしは、その強い光を強調するために。 私の苦い記憶のインデックスからか、kidsでも大人でも写真に残すからには「今の自分」を最大限愛せるように「その人ならではの美しさ」を表現するようにしている。 それは、一般的に決まっている美しさよりも、外的にはまらないことを優先している。一見、普通に見えても、被写体によって様々な要素を変化させて撮影することが重要だし、普通を美しく撮るには、人の特殊性を認識することが重要だとも思う。 よく、人には「特殊性」と「普遍性」があり、「特殊性」があるから人それぞれの美しさがあるし、 「普遍性」があるからその美しさを共有したり共感できると言う。 私が、彼女をこのように撮ると決めたのは「特殊性」を認識しているからだし、 その「美しさ」を共感できるのは「普遍性」があるから。 そして、彼女を見て自分の20歳の頃を想起するのは、経験的な「普遍性」があり、 自分の苦い記憶が蘇るのは「特殊性」からか…。 いずれにせよ、写真の本質というものはそういった想起をさせる。 その想起が美しいものであるように、その画角の中に存在するものに意味を付け、美しく写真を残し、形のあるものの様々な掛け合わせから、 その時にしか現れない言いも言われえぬその当人にしかわからない感情や感性を生むことが、できたらいいなと思って毎日シャッターを切っている。
『 re 』
2017/5/31
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No.24 Lifestudio Shonan Photo by Masashi Kuroki Coordi by Mayuko Hara 私自身、あまり写真に撮られるという事が好きではありません。 これは幼い頃から思っていることで、写真に写っている自分の姿がどうも好きになれず、写真に写ると画になる人いわゆる「写真写りが良い人」を羨ましいなと思っていたものでした。 しかし、そんな自分でも唯一撮って欲しいと思う時はギターを弾いている時の姿でしょうか。 その瞬間は自分自身が最も夢中になっている時でもあるので写真に残して見てみたいと思ったりします。 ではなぜ、その瞬間ならば写真に残したいと思うのか? 私はギターを弾いている自分が格好良いとか思えるほどナルシストではないのでそういった事ではないのですが、その写真自体が「イメージ写真」のようなものになっているからだと感じています。 おそらく自分が写真の中でイメージ化される事により、主体が自分ではなく抽象的なものとなり良い意味で自分がぼやけるから良いと思えているのでしょう。 ここまでは写り手側の話でしたが、ここからは撮り手側の話に移っていきます。 「イメージ写真」これはライフスタジオの写真の中でも欠かせないものです。 ライフスタジオの75枚の写真が構成している要素は大きく二つに分類することが出来ると考えます。 それは「説明写真」と「イメージ写真」です。 説明写真とは、カタログなどの商品の写真の中でその商品の全景を写すものがそれであり、その商品がどういうものなのかを一目瞭然とする写真です。 これをスタジオの写真の中で例えるとするならば、ご家族全員が白壁の前に立ち皆でこちらを見ている全身写真などがそれにあたるでしょう。 家族の容姿や身長、家族構成などが一目瞭然である写真です。 一方、イメージ写真とは、私自身一口に言うのは難しいと思っているものですが、一言で表すのならば「想像を膨らませやすい写真」という事もそのひとつだと思います。 想像を膨らませやすい写真、例えば、よちよち歩きの赤ちゃんの後ろ姿。 この後右に進んだのか?左に進んだのか?はたまた倒れて泣き崩れたのか?振り返って笑ってくれたのか?そもそもその後ろ姿は泣いているのか?と、見る人によりそれぞれの想像を膨らませます。 それらの想像を全て合わせて「可愛い」というイメージ写真になっているのです。 しかし、そのイメージ写真はなんとなくでは成立するものではありません。 なんとなくうつむいている少女を撮ればイメージカットというのはとても薄く感じどっちつかずの写真になりかねません。 だからこそまず撮り手側のイメージが必須となってくるのです。 しかし、イメージという言葉は広範囲の意味を持っている分、具体的には考え辛いものです。 そこで、例えばその大きなイメージというものをどんどん細かくしてゆき、その細かくしたものに全て言葉を付けていきます。 そうすることで自分の中でのその写真に対するイメージが言葉として決定します。 「何が?何の為に?どうしている?」といったように一度言葉を使って具体化したものをイメージ写真として切り取り直すという作業をすることでそのイメージ写真が意味を持ち始めます。 ですが、あくまでもイメージ写真である以上、見た者がそのイメージを膨らませられる余裕を持たすこともまた重要であると思います。 そしてここからが撮り手側としての面白いところであり悩むべきところの話になります。 一つは「フォーカス」です。 いわゆるピントをどこにもっていくか?という事ですが、元々、一点に焦点をもってゆくことでそのイメージ感を増幅させるために長いレンズを使用しています。 この写真の瞬間で合わせるフォーカスとしてはいくつか存在していて、母の指輪、子どもの指、そして子どもの横顔があります。 とても微々たるものではありますが、時にそれはその写真の意味をも変えてしまう事があるので多いに悩むべきところでしょう。 そこでその瞬間に悩んだあげく私は子どもの指にフォーカスを合わせました。 それには母が女性としての再認識をする事と同時に母としてのこれからを一枚に表したかったという意図があるからです。 余談ですが、これがもし自分の個人的な作品としての写真であったとするならば子どもの前にゆっくりと落ちていくシャボン玉にフォーカスをあてていたかもしれません。 二つ目は「なぜ横写真で捉えたのか」です。 この場合、子どもを中心に縦写真で捉える方が凝縮してスマートな写真になるかと思いますが、横写真としてフレーミングを大きく取ることで子どもに少々の孤独感を与え、くっついているのだけれど親と子どもの分離を図ったという意図があります。 こういった瞬間が、私としては撮影の面白みを最も感じる瞬間であり、頭の中で脳というハムスターが滑車を漕ぎまくっている瞬間でもあります。 この写真にあるご家族はご結婚後数年が経ちその記念も含めてドレスを身に纏い撮影となりました。 いわゆるこれは「リマインド・ウェディング」と呼ばれるものでもあり、母になった女性がもう一度一人の女性としての自分を再認識することを意味します。 湘南店では今後の取り組みとして「リマインド・ウェディング撮影」を計画しています。 現在、それに向けて皆で準備を重ねている最中ですがそこでこういった話が上がっています。 「どういった写真がリマインド・ウェディング写真なのか?」 家族写真ではなく、ウエディング写真でもないリマインド・ウエディング写真とは? 今後その撮影をしていく上でおそらくここでも大きな役割を持つであろうイメージ写真。 そのイメージの具体化を多く持つ事がこれからの準備としての重要なポイントであろうと考えています。 総括して私が思っていることは、説明写真は元々被写体が具体的であるのに対し、イメージ写真は被写体が具体的ではない分撮り手側が具体的に捉えていなければならないということです。 「そもそも人はなぜ写真を残すのか?」 それは常に想像をする生き物だからであると私は考えます。 過去を振り返りこれからを想う。その想像をするために「写真」がなくてはならないのです。 『 re 』とは、リトライ、リスタート、そしてリマインドの re 。 いつの日か再び何かを思い出せる写真、そして再び想像を膨らませることが出来る写真、それが「イメージ写真」なのではないでしょうか。
発見と反省
2017/5/31
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3人姉妹が越谷にきてくれました。 面倒見が良い姉。 お笑い担当と、実はまとめ役の双子の妹ちゃん達。 ママさんパパさんがとても雰囲気の優しい方達で笑顔を絶やさない方達だったからか、美人3姉妹も終始笑顔が絶えませんでした。 今回双子ちゃん達の753がメインで、3人で撮るのはドレスでした。 どこで撮ろうかな。 どうやって撮ろうかな。 この子達のどんな部分を表現しようかな。 この子達を定義したら何かな。 ドレスに着替えた3人を見ながらしばし考えました。 しかし僕は無意識に自分が越谷店で普段撮ってて無難な場所で撮ろうと前ボケをセッティングしてました。 その瞬間頭の中で、固定概念に縛られちゃダメだと、撮影準備していた手を止めました。 この子達自身を写す。 この子達らしい写真を残す。 先輩方、ライフスタジオで教えて貰った忘れちゃいけない言葉達と、自分に負けてはいけないと、再度この子達をどう撮ろうか考えました。 その結果、シンプルに答えを出しました。 この子達の特徴は、バレエを習ってることから体のラインが良く美しいこと、綺麗に撮ってもらいたい気持ちが強くあること。 そして何より実は3姉妹みんなお茶目な性格であるが僕が考えた3姉妹の核心でした。 そのため、全身が写り、美しく、でもお茶目な部分を出そうと、伝言ゲームをやることに決めました。 撮影の場所決めでは普段撮らない角度、距離間も今回遠くから撮影しました。 普段撮らない角度から撮った理由は、普段撮っている場所にベンチを置いた所幅が合わなくどうしても椅子を斜めにしなくてはいけなく、そうすると違う角度から撮った方が整理できると思ったからです。また、普段撮らない角度で新たな挑戦もしたかったのも正直あります。 距離間を遠くした理由は、お茶目なヒソヒソ話を撮るためには、距離自体離れた方がお茶目感がでそうということと、普段自分が撮っている距離間を変えてみようというここでも挑戦がありました。 こういった意味で今回写真を撮ってみました。 しかし、撮影終わり、自分が撮った写真を分析してみると、もっとこの子達の心のドアをノックしなくてはいけなかったと反省も出て来ました。 大きい子だからこそ写真を撮る時に出来ることが増えてきますが、そのぶん硬く、不自然さが出てきます。 もっともっと声かけをしておけば。 もっともっと撮影の流れを決めて撮っておけば。 もっともっと写真を整理しておけば。 色んな物がこみ上げてくるものがありますが、この3姉妹と出会えたことで、普段撮らない場所、角度、距離間で撮影することができ新たな発見も反省も出てきました。 だから悔しさもありますが素直に感謝です。 ありがとう^ ^ あなたらしさを撮れるように 写真で幸せにできるように 毎日頑張ります!
EVENT!!!!
2017/5/31
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始まりは、1本の電話から。 予約日が近くなったその日、私は最終確認の電話をかけていました。 数回のコールのあと電話に出たその人は、幾つかの業務的な確認の間も、弾むような明るい声で話してくれました。 『楽しみにしてます。ライフスタジオは、家族のイベントなんです』 その一言は、私の心の琴線に触れました。 ライフスタジオでの撮影に、どんな想いを持ってくださっているのか聞いてみたくて、色んなお話をさせていただきました。 パパさんも、毎年の撮影を楽しみにしてくれていること。 写真をデジタルフォトフレームに入れて、いつも見れるようにしていること。 前回の撮影では妹さんがメイン撮影で、ソロのなかったお姉ちゃんは少し拗ねてしまったこと。 お兄ちゃんも、他人に撮影されることに気恥ずかしさがない訳ではないけれど、「これは家族のイベントなんだから、お前も毎年来るんだからな!」とパパさんに言い含められていること。笑 言葉の端々から、子どもたちや家族への愛情深さが感じられる口調でした。 電話越しだけど、それでも何だかキラキラした想いが感じられる、素敵な出会いの一端。 「撮影プランを考えておきますね」というその時の私の言葉は、本当に本心から出たものでした。 【ライフスタジオは、何よりも関係を大事に考えます。】 HPに書かれたこの言葉を体現したくて、試行錯誤を重ねていました。 今年、自分の主題を『調和を生む人』と設定し、一緒に働く仲間たちやここで出会うお客様と、自分との関係の作り方について考えてきました。 そして、自分が撮影で提供できるものについて、改めて振り返ってみた時、 『私は、本当に目の前のひとの為に撮影をしていると言えるのか?』という疑問点が湧いてきました。 経験が長くなり、ある程度喜んでもらえる写真を撮ることができているとしても、それは本当に、「そのひとの為の」「そのひとが求めている部分を満たすことのできる」写真であるのかどうか。 私は、自分の経験と固定概念に基づいて、自分が良いと思うものばかりを押し付けているのではないか? そう思った時、それは少々傲慢なのではないかと感じられました。 もっと丁寧に、相手が求めているものを知ろうとする姿勢が必要だし、 もっと真摯に、自分の想いを伝えていく方法が必要だし、 もっと謙虚に、自分に足りないものを明確にしていくことが必要なのではないか。 相手が何を求めているのかを知り、自分が何を持っているのかを知り、互いに求めているものと持っているもので何を作り上げることができるのかを知らなければならない。 私は、今まで恐れて逃げ回っていた「客観」ときちんと向き合って、受け入れて、知らなければならないと思いました。 それこそが、「関係」を育んでいくことである筈だから、です。 確認電話でお話しさせていただいた内容を基に、私はこのご家族の撮影テーマを「EVENT!!!!」と設定して撮影することにしました。 メインは前回拗ねてしまったというお姉ちゃんの七五三撮影だったのですが、家族全員参加の撮影空間を作ることに意識をしました。 撮影中に、家族の会話が行き交う撮影空間であること。家族全員が撮影の中でそれぞれの見せ場があること。私たちは、とにかくその家族のイベントとしての思い出作りを盛り上げていこうというスタンスで,関係形成をしていくこと。 撮影当日までに、撮影の流れをベースとして書き出して、一緒に入ってもらうSakiちゃんに共有して、撮影に臨みました。 着付け部屋にご挨拶に伺った時、にこやかに挨拶をしてくれたママさんの笑顔は、電話での印象とぴったりと重なりました。 「あのあと、要望やわがままばっかり言っちゃったなあって、ホント冷や汗かいちゃいました」と笑うママさんに、 「今日の撮影プランは『EVENT!!!!』です!」と宣言しました。 ライフスタジオでの撮影を『家族のイベント』と言って頂ける喜び、そのイベントを全力で盛り上げていきたいという私の決意表明は、ひょっとしたら引いちゃうんじゃないかという危惧もあったものの、ママさんの笑顔であっさりと受容されました。 ライフスタジオを今までに利用した経験があるからこそ、撮影に対して「こんな感じ」という認識はある程度おありだったのかも知れません。ライフスタジオでの撮影を「家族のイベント」と仰って頂けるのは、今までの撮影者たちが信頼を得るだけの内容と結果を繋いできてくれたからです。 今回は、その信頼をありがたくベースにさせてもらい、更にその時間を良質なものとして過ごしてもらいたい、という提示をしました。 求められているのは、「家族のイベント」に相応しい楽しみの空間と、美しい思い出の記憶。 私が持っているものは、それを盛り上げたいという自分の想いと、それに共感してバックアップしてくれる仲間たち。 前述の、HPに書かれた言葉には続きがあります。 【素晴らしい友達に出会い、素晴らしい写真を創り出し、すばらしい思い出を、大切にしていくこと・・・】 私がこの時取り組んでいたことは、正にこのこと、でした。 (たぶん) この撮影までの間、『調和を生む人』としての実践を重ねていく為の私のプロジェクトは二転三転し、社長の言葉を通訳してくれたジョンジョンや店長の五明さんと幾度も話し、店舗でみんながプロジェクトについて話す時間の多くを私の為に割いてくれていました。 概念的で形式化することが難しい、とされた私の主題に対し、煮詰まりながらもみんなからの客観をもらいながら、ようやく、一度崩した形式を組み立て直したタイミングでの、このFamilyの来訪でした。 このFamilyの「家族のイベント」を大切に演出していくことは、私だけでは到底できなかったことでした。 青葉店だから、できたことなのだと、思っています。 75枚目は、家族写真にしようと決めていました。 「家族のイベント」のフィナーレに相応しい、家族写真。 女の子たちには「ママにぎゅーってしてね!」と声をかけながら、年頃のお兄ちゃんには最近流行りのネタからフレーズを拝借して、 「あれだよ、『with B』くらいの距離感で寄り添ってみ?」と、若干雑な口調で伝えました。 この雑さは、気恥ずかしさが出てきているであろう彼にとって、負担を払拭する為のものでした。 家族写真のバランスを考えた時、画角の中での三角形を意識しますが、彼はその辺を担う位置にいました。 ママさんの懐に入るくらいに重心を前に持って来てもらいたかった時に、何気ない言葉選びがごく自然に動きに繋がることを、知っています。 忠実に遂行しなければならないという使命感より、ちょっと適当なくらいでも良いかと思わせる、余裕を持たせる為の一言。 雑なくらいでもちょうど良い、そのくらいの関係性は作れている。そう思っての言葉の選択でしたが、結果的に彼の表情を含めて良い方向へ作用しました。 2017年の家族のイベントの、締めくくりの家族写真。 よし、終わり。と思った瞬間、自分の中にどっと湧いてきた達成感は、ここ最近感じた中でもよりキラキラしたものでした。 目の前の人が求めていることを、いつも自分のモノサシで見ていました。 そして、自分が持っているものだけで押し付けていました。 今回の撮影を通して、私の中をたくさんの客観や他者の存在が透過していき、幾つかの視点は新しく新鮮なものでしたし、経験に支えられた面もありました。 いつもよりも、基準を他者に置くことと、その基準に合わせて自分の持っているものを改めて見直し、一緒に作っていくこと。 それは、自分にとって正に「調和を作っていくこと」に必要な過程でした。 家族のイベントは楽しんでもらえましたか?と聞くと、ママさんはにっこり笑ってうなずいてくれました。 来年も、再来年も、こうして家族のイベントとして、ライフスタジオに来てもらいたいと、心から願っています。 ライフスタジオは、そんなご家族の思い出の空間に寄り添い続ける写真館でありたい。 そして、自分自身もまた、そういう場にいるということを大切に、写真を撮り続けたいと思っています。 Life studio No,99 Yokohama Aoba Photo by Reiri / coordi by Saki
人柄と繋がり
2017/5/31
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この手は6ヶ月の女の子の手と 86歳になったひいおばあちゃんの手の家族の繋がりです。 写真を撮る時、もしくは撮る前には何を伝えたいのか考えます。 この子の目が可愛い!ムチムチの太ももがたまらん!この仕草がこの子らしい!このパパさんがこの家族の盛り上げ役なんだ!この子は今写真撮られることが恥ずかしいんだ!など 伝えたいものがあって写真を撮り、それをさらに伝えるために言葉を使い説明をします。 来店されたお客様はどんな人達なんだろうか?この家族はどんな想いを寄せて今日を迎えたんだろうか?この子は今何を考えているんだろうか? それを知るためにも言葉が必要だったり、観察する事が必要だったりします。 3ヶ月前 普段、予約を電話にて受付し仮予約を本予約へと確定させています。その内容の中で今回はどういった内容の撮影を予定されますか?と聞きます。するとこの日の電話で 『今回はハーフバースデーがメインですがひいおばあちゃんも来れそうなのでひいおばあちゃんも一緒に撮影出来たらと思います』 青山店は階段を登り、撮影場所に行くにあたって更に階段を登る形になります。足腰に不安がある方は場合によっては難しい可能性がございます。と説明しました。少し不安さの残る電話になりました。 撮影当日 撮影時間の30分前におばあちゃんとひいおばあちゃんが先に来店されました。 見るとかなり元気そうなひいおばあちゃんでした。 お時間が少しあったのでお話をさせていただきました。 なかなか会えないひ孫の顔を見る事や、成長具合をみるのが今一番楽しみにしていることとおっしゃってました。 だから今日がすごく楽しみに待ってた日なのです。 私はこの時、あ、どこか自分の考えが中心すぎてどこか自分の持っている固定観念を砕きたい!と叫びたかった! 「何を伝えたいか?」という考えだけでなく「何が伝わってきたのか?」 伝えたい写真を残すだけではなく伝わってきたものを残すということ。 そう頭の中を少し砕きました。 写真を撮るということは自ら条件をつくり、イメージに寄せて撮影をするということだと思いますが、スタジオにいらっしゃる家族はみなそれぞれの形がありそれを自然な形として表現をするという事が私の今する仕事なんだと改めて思いました。 このご家族はひいおばあちゃんにこの子を見せたいという想いが伝わってきます。 ではなぜか?と考えた時にこのひいおばあちゃんの人柄がそうさせているのだとわかりました。 撮影中もじっと微笑ましくひ孫さんの事を見守る様な姿勢でわざわざスタジオの端っこに常にいて私たちスタッフの事まで気を使ってくれている様でした。そんなひいおばあちゃんだからこそ見せたい、一緒に撮影したい、この思い出をつくる撮影の日に来てもらいたいとなるのでしょう。 あーしよう!こーしよう!ではなくてもこの今の条件で残せるのもを残そうと思いひいおばあちゃんに聞きました。 『座ってる状態ならひ孫さんを抱っこできますか?』 するとひいおばあちゃんは 『この子が少し動くと難しいかもしれない』 という事で手を重ねるという事を提案しました。 それならできると言ってくれました。 この繋がった手と手を撮影しながら私をつなげてくれました。 撮影はこうしようと考え事が多かったりする私ですが、お客様と話をして見えてくる物を残せる力を私自身身につけていかねばと思いました。 ひいおばあちゃんが来てくれたこと、30分前に来店したことも、撮影中端っこで見守ってくれたのも、抱っこではなく手と手を重ねることなら出来ると言ってくれた事も人柄が出ると感じました。 このご家族とひいおばあちゃんの人柄がわかったから押せたシャッターです。ちいさなきっかけでも作って、今残せるものを提供しこの撮影の背景やこの手の感触、大きさ、を忘れてほしくはありません。時間と共に消えゆくものは多かれどこの瞬間は美しいと胸を張って言える写真であると表現者の私は言えます。 表現をするチカラと聞くチカラ、見るチカラこれらを整理すること。 喜ばれる空間を創れる人になるためにまた日々精進していこうという力を私はいただきました。 ゆえにこの手と手にはこのご家族と私たちの想いが詰まった写真となりました。 伝えたいのもを残すことのも仕事ですが、伝わって来たものを残すことの大切さ、そして一家族一家族にあるストーリーを知る事がいかに学ぶ事が多いのかと改めて気づかされました。 様々な出会いのある仕事ですが、それだからこその楽しみがここにはあると思います。 このご家族との出会いに感謝したいと思います。
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