フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

その向こうの、向こう側

投稿日:2017/6/29

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見慣れたように、見ないこと。
曖昧な印象を、形にしていくこと。
目に見えない特性と関係を、表すこと。
既存の世界から、脱出すること。


6月は、1ヶ月近くかかりながら自分の中で『写真大辞典』と向き合っていました。

『写真大辞典』は、『写真に対しての実践的な接近方法』が記されているものだと思っています。
写真に対して接近する、ということは、そのものを遠くから何となく眺めながら、見えない部分を多くの想定や固定概念や主観で補完するのではなく、それを正確に把握する為に実践的に近付いていく、ということです。
例えば、スペインのサグラダ・ファミリアを観光バスから眺めながら「有名な建造物だ」とか「トウモロコシみたいだなぁ」と思うのと、バスから降りてとことこ歩いて近くまで行ってそれを見た時には、認識が大きく異なる筈です。
近くで見れば、それが未だに建造中であちこちで工事の音が響いていて、外壁に施されたレリーフや細工の細かさに驚き、下から見上げるその巨大さはトウモロコシどころではありません。
近くで見ることで、その実態がわかります。『写真に対しての実践的な接近方法』というのも、そういうことではないでしょうか。
写真大辞典に向き合いながら、一歩一歩、少なくとも以前よりはちょっとだけ、『写真』というものに近付けたような気がするのです。


自覚はあるのですが、自分は保守的な人間なので、ともすると変化を恐れ、安定を求める傾向にあります。
これは、私の写真表現における大きな壁でした。

ある一定の基準を満たしてはいるが、ぐっとくる1カットがない。
あと少し、何かがあればもっと良くなりそう。
でも、基本的には問題はないよ。

自分の写真に対して、よく言われてきたことです。
基本的には問題が無く、お客様が喜んでくれるような写真は撮れていて、でも撮影者側から見た時には「何か」が足りない。
これは、商業写真的・記録写真的な基準はクリアしながら、芸術的表現における部分の欠如を指していると思われました。
『写真大辞典』でも触れられていましたが、巷に溢れる多くの写真には、『商業写真』『記録写真』『芸術写真』といったそれぞれの見方ができます。
それらはいずれも、見る者がその意味を付与するので、七五三の記念写真は家族にとっては『記録写真』の性質を持ちながら、それが写真館で撮られた場合は『商業写真』の側面も併せ持ち、大物の写真家が有名モデルを撮影したコマーシャルフォトは『芸術性』が高いながらも、それが化粧品会社からのオファーであった場合『商業的』な部分もあると言えるのかも知れません。
ライフスタジオでは『写真館』という商業形態で撮影をしているので、勿論『商業写真』ではあるのですが、そこに『記録写真』の性質も、『芸術写真』の性質も含みながら撮影をしています。
私自身も、それを感覚的に理解はしながら撮影していました。
その感覚的な理解を、写真大辞典を通して言葉として整理された時、ああ、なるほどと腑に落ちました。
何か足りない、その「何か」が何なのか、という問題が明確になり、ではどうするか、という課題設定ができたからです。
この1ヶ月、読んで、書いて、実践して、その写真を分析して、青葉店でも共有して、という作業量は膨大ではありました。
膨大ではありましたが、6年分の固定概念をぶっ壊すには、必要な作業量でした。
(まだ壊し足りないけど)


青葉店で撮影をするようになって、半年が過ぎようとしています。
季節は冬から春へ、夏へと移り変わり、光も変化し、しかし撮影空間の大部分は変化無くそこに在ります。
そして、変化を恐れ安定を求めがちな私の写真は、ともすると『被写体』にフォーカスし続けていました。
目の前の被写体を表現する、その為に、自分が使い慣れた要素を組み合わせながら撮っていく。その組み合わせの数がだんだんとパターン化され、やがてマンネリを生みます。

この写真は、モニターの後にコーディネーターから「れいりさん、攻めてるな〜と思いました」と言われました。
そして、「何故このように撮ったのか」を、改めて聞かれました。
彼女がそう言ってくれたこと、聞いてくれたことが、私にとってはひとつの成功と言えるのかも知れません。
そのくらい、私が「普段は、撮らない」写真であるということだからです。

被写体の表現は、何をおいてもまずその「被写体の存在」から始まるべきです。
しかし、ともすると私は「いつもの」場所に連れて行き、「いつもの」感じで撮ってしまいがちです。
「いつもの」場所を選ぶ根拠は、ない訳ではありません。例えばそこが光が良いからとか、色味のイメージが合っているからとか、その程度の理由ではありますが。
しかし、写真の構成要素は無限にあります。その光が良いからそこで撮る、と言うのなら、その光を使って「いつも」とは違う表現をすることだって、可能である筈なのです。
その光もまた、本当に「いつも同じ」であるのか?
それをよくよく観察してみれば、何か違う要素がまた見付かるのではないのか?
その要素は、この被写体の表現に適切であるのか?またどのように使えば適切だと言えるのか?
どのように表現したいのか?
フォーカスすべき部分は何処なのか?
考えるべきこともまた無限にあり、選択肢は幾つもあります。

この写真は、着替えをした後の最初の写真でした。
シーンが変わる時、私は敢えてインテリアや衣装を広く入れ込んだ説明的な写真をまず撮ります。しかし、今回はそのパターンから脱却して、極めてイメージカットに近い写真を構成しました。
夕方に差し掛かるこの時期のこの時間、この窓からの光は何度も撮影に利用したことがあります。
この光を、少し柔らかく使いたいと思いました。
彼女自身の、10歳という年齢以上に大人びた雰囲気は、その柔らかな光を利用してイメージにすることができると踏み、窓の格子に手を添えて瞳を伏せてもらいました。
彼女の目は意志の強い大きな瞳で、とても魅力的だったのですが、この写真では彼女の女性的で儚げなイメージの構築という点を優先しています。
被写体に大きく被さる前ボケは、私がもっとも勇気を振り絞って踏み出した一歩でした。
ぐっとくる「何か」、いつも足りない「何か」。きっとこの勇気の先に、その「何か」の片鱗が掴めるのではないかと思ったのです。
前ボケが被り過ぎているのではないか?という問いが、勇気を必要とした理由です。メインとなる被写体が隠れている。しかし、霞みながら隠れることで、よりその存在が際立ちました。見えにくさがあるからこそ見ようとする、そんな効果が得られたように思います。
ソフトフィルターをかけたような、霞がかったその向こう側の彼女の存在が、より儚げな印象になって演出されました。
私と彼女の距離。隔てられたその先に、彼女がいる。コドモと言うには大人びていて、大人と言うにはまだ早い、そんな時期の女の子から、私は距離を取ります。
リラックスさせてあげようとか、安心させてあげようとか、この時はそういうことを少し置いておきました。戸惑い、緊張、葛藤、ひょっとしたら少し不安?そういうものが、10歳の女の子の中には在る筈です。
それを内に秘めて、快活なその瞳を伏せて、霞むその向こう側にいる彼女。
それが、今の彼女。


勇気の結果は、賛否両論かも知れません。
ただ言えることは、自分で自分にかけていたブレーキから手を離すことができた、ということです。
「パスポート用の証明写真を撮ってください」と言われれば、こういう写真は撮りません。
しかし、「10歳になる女の子に、その子自身がまだ知らない自分の魅力を見せてあげられるような写真を撮ってください」と言われれば、こういう写真に至る場合もあるかも知れません。
少なくともライフスタジオは証明写真は撮っていませんし、「『もうひとりの私』を被写体自らが発見する瞬間こそシャッターを押す」というスタジオです。

この世界にただひとりの「あなた」と、この世界にただひとりの「わたし」が向き合う瞬間に、私が見付けた「あなた」の美しさ。
そこでしか生まれないものを、形に残すということは、いつもとても難しいと思っています。
それでも、この1ヶ月自分が積み重ねたことが、自分にとって大きな意味を持つ写真を生みました。
この写真が、彼女にとっても意味あるものでありますように。


Life Studio No,99
Yokohama Aoba
Photo&Wright by Reiri kuroki
Coordi by Misaki Nakagawa
 

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