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つくば店
MMK⑫それをお金で買いますかー市場主義の限界ー
投稿日:2012/11/22
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「私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。
市場の論理に照らせば、こうした取引に何の問題はない。
売り手と買い手が合意のうえで、双方がメリットを得ているからだ。
しかし、すべてが売り物となる社会に向かっていることを心配するのはなぜだろうか。理由は二つある。
一つは不平等にかかわるもの、もう一つは腐敗にかかわるものだ。
①すべてが売り物となる社会では、貧しい人たちのほうが生きていくのが大変だ。
お金で買えるものが増えれば増えるほど、裕福であること(あるいは裕福でないこと)が重要になる。
②生きていくうえで大切なものに値段をつけると、それ自体が腐敗を招く傾向がある。
お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。
この問題をいかに考え抜くのくのが本書のテーマである。」
•インドの代理母による妊娠代行サービス:六二五〇ドル
•絶滅の危機に瀕したクロサイを撃つ権利:十五万ドル
•主治医の携帯番号:年に一五〇〇ドル
•一トンの炭素を大気中に排出する権利:十三ユーロ
•学校で本を一冊読む:二ドル
•中国の一人っ子政策、二人目以降:三万千ドル
•薬物中毒女性の不妊手術:三百ドル
他人の権利を侵さない限りなんでも自由に売り買いすべきであり、取引の結果、双方が有益になり、われわれの効用は増大する。
自由市場は財は効率的に分配するが、市場は財のみが与えられているのか?
やはり市場に出すべきもの出さないでおくべきものに慎重にならなければならない。市場による評価や取引はある種の物や行為を堕落させるからだ。
すべてに価格をつけることは、私たちの見方やそれ自体の本来の価値が変わってしまう恐れがあるからだ。
お金で物事を解決させようとする社会になると、単純にお金に余裕がある人間のほうが有利になる社会になり、お金がない人にとっては生きづらい社会になってしまう。
お金で解決しようとすることは、ある物事に対しての道徳観や価値観そのものが失われる危険が潜んでいることに気づかなければならない。
この本で紹介していた大気汚染の権利が良い例である。
簡単に言えば、大気汚染の割合によって指定された金額を支払うというものだ。つまり空気を汚したらお金で解決できる市場だ。
支払われたお金は発展途上国での植林やクリーンエネルギーを支える資金になるのだが、払えば許されるという免罪符のような仕組みが出来上がってしまう。
これでは、環境破壊に対して責任感が欠如してしまうのではないか。
自身の悪い行いは、ほかの場所で良い行いをしたからといって埋め合わせられるものではない。
今日の市場は強欲さのあまり、道徳、倫理、善悪が追い出されてしまっている。
そのため、市場と市場価値がなじまない生活領域へと拡大してしまった。
私たちは、市場の道徳的限界を考え、お金で買うべきではないものが存在するかどうか問う必要があるのではないか。
命、結婚、子ども、教育、犯罪、セックス、人種差別、政治参加、環境保護、、、、、、、。
これらに本当に値札がつけられるだろうか?
では売買ではなく、お金で評価することについてはどうだろうか?
何かを達成させるための動機付けがお金であっても、達成できる何かが個人や社会のために効果があれば問題ないのではないか。
しかし、その何かに対して敬意をもつ姿勢を損ねる可能性がある。
お金を与えて何かをさせることは、言葉による説得がないがしろにし、本質的な理由や価値観をうやむやにしてしまう。
間違った理由で正しいことをする気にさせてしまう。
お金によって操られるのではなく、自分の意志によって達成しなければならない。
なぜならお金の金額によってでしか行動しなくなるからである。
金銭的インセンティブは長期的な習慣や行動を変えさせることではなくて、特定の期間にのみ効果を発揮させることができるものではないか。
もし金銭的インセンティブに頼るかどうかを決める時には、そのインセンティブが、守るに値する姿勢規範を蝕むかどうかを問う必要がある。
私たちは能力や努力に対して、お金の金額だけで評価されることを望んでいるのではない。
たとえば私たちが自発的に行う社会的貢献に値段がつけられたらどうだろうか?
海岸のゴミ拾い1日5000円。森に1本の木を植えるたら3000円。
本質的に価値があると思う活動に携わっている人々に金銭の提供をしたら、彼らの内因的動機(道徳的信念や活動への関心)を締め出され、動機を弱めることになりかねない。
時として市場価値は、大切にすべき非市場的規範を締め出してしまうことがあるのだ。
私たちは必ずしもお金による評価のみを望んではいない。
私たちは、自身の目を見て手を握り「ありがとう」と言われる人からの心からの言葉や態度で評価されることを望み価値を見いだしているのだから。
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