Staff Blog
つくば店
新しい世界
投稿日:2018/1/1
2619 1
白い病院にいた車椅子に乗った少年。
目線は廊下の1点だけを見ている。
足音やドアが開く音がすると、なぜかそっちのほうをずっと見ていた。
近づいて話しかけようとするといきなり手を握られ、
「私をこの外に連れて行ってくれないか?」
と僕のほうではなく、ずっと先のほうを見て言われた。
握られていた僕の手には、少年の手の跡がくっきり残っていた。
写真がなぜ面白いのでしょうか?
と問われたら、『写真は私だからです。』
という答えしかありません。
シャッターを押した瞬間、写真は私を中を表現する目に見える形として、また別の私として、その姿を現わします。
私の中になる私だけの複雑な感情、思考、価値観があります。
昨日の夜にテレビで見た悲しいニュースが、朝になって目覚めたら、私はどう思うのでしょうか?
自分のことは自分でもわからず、誰にもわかりません。
私は私だ!と自負心を持たせる時もあるが、私とはなんなんだ?と失望感を持たされる時もあります。
写真というのは、このような私の複雑な感情、思考、価値観を1枚に整理をしてくれ、また、新しい私の感情、思考、価値観の新鮮な風を吹き込んでくれます。
結局は、写真の中に私が私を見つけることができることが、写真の面白さでした。
ある日、撮影中に急に不機嫌になった3才の女の子がいました。
理由は、自分の好みとは違う靴を私にはかされたからです。
私は自分の好きな靴を選んでいいよとたくさんの靴がある衣装室へ一緒に行きました。
子供はたくさんの選択肢のある靴から、迷わずエナメルの黒のブーツを両手に抱えて持ってきました。
子供は誰の手も借りず、慣れない手つきで靴紐を結び、自分でチャックを上げようと頑張っていました。
履き終えると、サイズも大きくてぶかぶかで、ドレスにはまったく似合いませんでした。それでも、嬉しそうにバタバタと音を鳴らして、スタジオを歩き回っていました。
子供がしたいことをしたいようにすること、つまり、それは、自分が自分を見つけようとすることなのです。
誰かが見つけてくれるものではなく、誰かが決めるものでもないのです。
子供の好奇心、探究心とは誰かに言われて抑えられるものではないのです。
私にとって写真はそれと似ていました。
ファインダーで「なに」を覗き込んで、シャッターは「いつ」押せばいいのか?
誰かに言われてやらされるものではなく、自分が見たもの聞いたもの感じたものに対して、その四角から私だけしか知らない世界こそが私なのです。
そうありたいと思いつつも、誰かが作った当たり前や誰かが作ったルールのなかで私は生きていました。
あぁしなければいけない。
こうしなければいけない。
私はいつから不自由になったのだろうか?
自分は、好きなように生きていると思っていたが、本当にそうだったのだろうか?
それは親かもしれないし、学校かもしれないし、社会かもしれません。
つまらないイメージのせいで、人生をつまらなくしてはいけません。
私にとって写真との出会いは不自由から自由へと導いてくれるものでした。
写真のなかに自分を見つけたときに、私の中から麻薬のような高揚感で溢れ、殻を破るような開放感と、私を縛っていたモノへの復讐となりました。
「楽しむこと」
それこそが私が自由になる鍵となったのです。
誰かのためでなく、自分のために生きてもいいのです。
なにかを信じなくても、疑っていいのです。
辛かったら、逃げてもいいのです。
つまり、それは、結局、誰かのためになるのです。
写真はただ美しく撮る道具ではなく、美しくなるための道具なのです。
写真と向き合うことは人と向き合うことであり、人と向き合うことは自分と向き合うことだからです。
自分が自由ではないのに、どう人の自由で自然な姿を写すことができよう。
それに近づこうする意思となにかを捨てれる覚悟がなければ、きっと私は不自由のままだったでしょう。
誰かから賞賛される写真ではなく、自分が自分を賞賛する写真が本当に良い写真なのです。
だから、、、
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