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つくば店
楓季と馮煕
投稿日:2017/2/28
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そうだったのか。一人の少女の美しさはここにあったんだ。
顧客カードを書いているママの手元を見ていると、姉の名前を「楓季」と書き、そして弟の名前は「孔明」と書いた。珍しい名前だったので、私が「この名前は特別な意味があるんですか?」とママに尋ねてみたところ、三国志に登場してくる人物の名前だということを教えてくれた。弟の「孔明」は「諸葛孔明」から付けてものだった。
理由は「頭を使ってなにかを成し遂げて欲しいからです」というようなニュアンスで答えてくれた。諸葛孔明は、知恵を使っていろいろな戦い方を考え、少人数でたくさんの軍勢に勝利するなど、三国志に関するさまざまな作品でその活躍が描かれている。
姉の「楓季」は、「馮煕(ふうき)」から付けたものだった。その時はどのような人物がわからなかったが、孔明のように三国志という舞台で活躍していたのだろうと感じた。後日、「馮煕」を調べてみると、外交官として国に尽くした忠義にあふれた人物のようだった。
子供の名前には、親が願う子供の生き方が深い意味が込められている。
両親は多くの人生の時間を過ごし、子供がこれから経験する学生から社会へと自分の人生を生きていくことを知っている。その時間のなかで、声を上げるぐらいの歓喜も待っているかもしれないし、声も失うぐらいの悲劇も待っているかもしれない。ということも知っている。
我が子にはこれからの人生の旅を三国志の武将のように、現実を突破しながらまっすぐに生きていくことの願いが込められている。
それは両親が人生で重要だと思っている「生き方の美しさ」である。だから「楓季」と「孔明」という子供の名前に私は美しさを感じた。
私は、この名前を頭の片隅に置いたまま撮影していたが、ガラスケースから少女を覗き込んだ時に、そこには楓季と馮煕が写り込んでいた。それは私の中で少女の真理である。
真理とは、他者と私の観念の一致である。
簡単に言うと、目の前の人が泣いているとしたら、「悲しんでいる」という観念を持つだろう。だが、本当は嬉しくて涙を流していたら、それは真理にはならない。
しかし、すべてのことを間違わずに真理だと認識することはできない。
私たちができるのは、客観に制限されながらも、真理はこうだ!と決定することで、私の目の前
の霧を晴れさせることはできる。
「楓季」という名前の少女は、ただ少女であるが、少女という範囲ではなく、「楓季」は「馮煕」から生まれたただ一人の少女なのである。
馮煕という一人の少女の真理と出会うように、ファインダーを覗いて、焦点距離のリングを回し、カメラを傾ける。その行為自体が私の客観だ。
そして、ピントのピピッという音と同時に、私の客観と真理が瞬間的に出会いシャッターを切るのだ。
そうだったのか。一人の少女の美しさはここにあったんだ。
この1枚の写真のポイントを整理するとこうだ。
ガラスケースに写り込んだもう一人の少女は、楓季と馮煕を表現している。
それを強調するためにポイントが3つある。
1、光に向かう視線
少女の目線は光量が一番大きいところを指している。
写真において最初に目がいくところはハイライトの部分であり、そこに視線を持っていくことで、少女が優先的な存在として配置されている。
露出もハイライトに設定されているため、他の部分との露出比があり、より暗くなりコントラストを生むような結果になっている。
2、フレーミングのフレーミング
写真の四角の中に四角を作るという表現方法である。
この効果は、被写体を簡単に注目させるという効果を持っている。
また、四角というバランスがとりやすい構成であるため、同時に安定感を確保している。
3、反射したもう一人の少女
シンメトリーのようにガラスに写り込んだ少女は、シンメトリーという効果を持っている。
これも一種のバランスである。また、写りこみは視覚的に写真のおもしろさも同時に与えてくれている。
写真にはこのようなポイントがあり、それは私から生まれた客観でもあるし、少女の真理が与えてくれたものである。だから、写真は私の1枚ではなく、私たちの1枚なのではないだろうか。
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