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湘南店
『 ある朝の朝食 』
投稿日:2020/1/21
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『 ある朝の朝食 』
No.24 Life studio Shonan
photo by Masashi Kuroki
coordi by Mayuko Horio
朝、目を覚ますと決まって聴こえてくるAMラジオの番組。
嗅覚にわずかに届くカブの味噌汁の匂い
ポコポコと音を立てる炊飯器。
トントントンッというオクラを刻む音。
そして時折、父親がめくる新聞の音。
幼少の頃、目を覚ますと毎日が「この音」から始まった。
まだ半分眠っているかのような私は、
「おはよ」
という母親の声に返事することもなくトイレに向かう。
そして食卓の部屋の隅にあるストーブの前に座り足を暖める。
「おはよう」
「おはよ」
そんないつも通りの言葉を交わした時には親父は味噌汁をかき混ぜ、白菜の漬け物に醤油をかけていた。
私は当たり前のように食卓に用意された朝めしを当たり前のように頬張る。
問いかける母。
相づちを打つ僕。
そんなたわいもない会話の中、卵かけご飯を食べ終わる頃にはもう親父はネクタイを締め玄関に向かっていた。
カバンを手に取り、親父の後に五、六歩遅れて玄関に向かう母。
その時、見上げた振り子時計の針はいつも決まって七時十五分を指していた。
そして、そんな朝から三十数年が経ちました。
昭和50年、西暦で言うところの1975年に生まれた私の幼い頃の写真はというと、どれも八のへ眉毛で困り顔の一歳。
布のオムツ一丁で鉄棒にぶら下がる二歳。
今はとんと会う機会が少なくなった兄貴と二人共に微笑みを浮かべること無く自宅前の道路をただ手を繋ぎ歩いている三歳。
そして、母親と父親で撮り合ったのか交互に私を抱っこしている写真。
そんな写真が残っている。
「 家族の意識を撮る 」
そして時代も昭和から令和へと二つ進み、れっきとした中年になった私は幸せなことに写真を仕事とし、日々訪れるご家族の写真を撮らせてもらっています。
先に言ってしまうと、私は家族写真への熱が冷めた事はありません。
人の数が増えれば増えるほど楽しくてしょうがありません。
家族写真は湘南店がオープン当初から力を注いでいる部分でもあります。
ですが、何年、何千家族を撮ってもこの家族写真というものには答えが出ません。
「答え?」なんてものは当然存在しないことなのですがどれだけ撮ってもゴールすら見えてきません。
感覚で言うと、ひとつ達成して遠くにあるゴールに一歩近づいたかと思うとゴールがまた一歩遠ざかる。そんな感じでしょうか。
これは皆さんもそして子ども達も色々な仕事やスポーツで無意識のうちに感じていることではないでしょうか。
悩み、葛藤し、考え続けることが苦しく感じる時もありますが、逆に言うと、こんなに熱中してやめられないことに出会えた事はとても幸せなことだと思えてきた今日この頃でもあります。
おそらく自分自身のどこかしらで完結してしまえばそこがゴールなのでしょうが、自分をそうさせないのは「更なる理想の追求」があるからでしょう。
私の中で長い間その理想としてあり続けているものがあります。
それは「家族の意識を撮りたい」というものです。
柔らかく言えば「親から子への想い」のようなものですがこれがゴールテープを切れない理由です。
その目に見えない「気持ち」というのを写真に残すために私たちはご家族にたくさんのスキンシップをしてもらいます。
ハグをする、撫でる、強く抱きしめる、キスをするなど様々なスキンシップを。
これでも親から子への想いは写っているのだと思います。
でも、こういった物理的なものと意識的なものは別の場所にあると考え、数年前のある時から家族間の距離を離すところから撮影していきました。
するとある時、その「親と子の間のスペース」に想いが通っているのを感じる感覚がありました。
私にはもっぱら霊感や特殊能力はありませんがそれが見えた時そのスペースには意味があると感じざるを得ませんでした。
「 家族写真のレシピ 」
ここからは私なりの家族写真への心がけになりますが、まず私は撮影をする場所でイメージを含めかなり精密な絵コンテを複数毎想像します。
これがなければ本来配置することなど出来ないと思っています。
そしてご家族の配置となるわけですが、ここで先に言ったスペースを設けるよう配置します。
このスペースはその家族によって全て異なっていきますが、お出迎えからカウンセリング時に交わした会話での内容や年齢などから適切であろうスペースを決めていきます。
そして色味を決め、とても重要なフレーミングに入りこちらからご家族にアプローチを行っていきます。
勿論、そこで起こるうる様々なドラマにもアンテナを張っておきます。
言葉で言ってしまえばそんなに突拍子もないことはありませんが、この「家族間のスペース」が私の中ではとても重要なポイントとなります。
このスペースに交差する目線という複数のベクトル、そしてこのスペースに「意識」が写しだされろと願い一枚目の家族写真のシャッターを切ります。
この一枚目に全神経を集中して。
一枚目というのは映画で言えばプロローグ、書籍や音楽で言うところの序章。
これから起こる75枚というドラマにワクワクするような大切な一枚目。
私はこんなことを考えながらファインダー越しに家族を観ています。
「家族写真のすすめ」
写真は撮った瞬間から過去になっていくもので、むしろ後々見返すために撮っているもの。
その見返す時が流れれば流れるほどその写真が感じさせてくれる意味が変わってきます。
言うなれば「家族写真はこれから大きくなっていく子どもたちのために残すもの」
子どもたちが大きくなって自分自身が親となり、そこでその写真を見返した時、その家族間のスペースに親からの想いが少しでも感じてもらえれば嬉しく思います。
私にはそんな「父と母の気持ちが投影された家族写真」はありませんが、
あの朝のラジオ、味噌汁の匂い、炊飯器の音、めくれる新聞、当たり前に用意された朝飯、仕事に向かう父、そういった「ある朝の朝食」の記憶が親父とおふくろの愛情のしるしであり、そういった記憶と共に私の手の上にある写真を見ることで親父たちの気持ちが投影されていくのです。
今回、この言葉と共に上げさせていただいたご家族は会う度にこちらの気持ちをもあたたかくさせてもらっているご家族。
そんなご家族に信頼される事、させる事を目指していくことが「想い」を写すための第一歩であり人生を写す写真館の責任であると感じます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
この文章を書いたことでまたひとつゴールが遠のいたように感じます。
でも、だからこそ「家族写真は面白い」と改めて言えるのです。
私たちはまた明日からその遠くにあるゴールへと進み続けます。
Written by Masashi Kuroki Shonan
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