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下関店
movie*誰も知らない
投稿日:2013/2/20
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わたしには最近まで知らないことがあった。
居所不明児童という、実態があるということ。
それが平成23年の統計において1000人を越えて存在しているということ。
居所不明児童というのは、戸籍があり、学校に行くべき児童として登録されている名簿に載っているにも関わらず、いるべき学校におらず、行方が確認できていない児童のことである。(不登校児などとはまた違う分類である。)
また、出生届けを出されずに戸籍にもなく学校に行けていない児童も、もっといるというのだ。
その数が、とてもではないが把握できないということも。
当たり前だと思っていた、義務教育を受けていないこどもたちが、いる。
この日本で。
わたしは、戸惑った。
日本で規定されている三大権利と義務である教育。
学校に行くのは日本で当たり前だと知っていた、しかし、学校に行くということが当たり前に知らないこどもたちがいるということは、知らなかった。
この日本で。
とある、まちづくりに関するセミナーを通して知ったことだった。
この勉強会に行かなければ、知るのはまだだったかもしれない。
参考として流された「誰も知らない」という映画のトレーラーを見ながら、
高校生の頃にその映画を見たはずなのにはっきりと覚えていなくて、改めて湘南店みんなで見た。
2度目に見て、また気づいたことがあった。
人は、忘れてしまうということ。
こんなに、社会、こども、おとな、暮らし、感情、状況、
さまざまなメッセージを受けていたにも関わらず、また、当たり前に自分の暮らしを過ごしてしまっていた。
また、社会人(おとなとして)になってから見たら、はっとした。
そして、忘れないだろうと思った。
この映画を通して感じたこと、それは、淡々と時はひとりひとりの人生の中で過ぎ行くものだということだった。
わたしはわたしで、誰かは誰かで。
その中で生きているということ。
長男以外の3人のこどもたちは、出生届も出されておらず、事実上はいない子どもとして社会に隠される形で存在していた。
全員、父親が違うが、母親は同じ。
母親を慕う姿、そして兄弟たちの絆があった。
どんなことが起こったとしても、ただ、ただ、この世界で生きてゆく。
この、映画は悲しいくらいに美しさもあった。
こどもたちの肌、髪、瞳、声、表情、それが、時間と共に変化してゆく。
それでも、要所要所の描写が、美しかった。
また、同時に、おとなに対して怒る、辛くて泣く、ということがなかった。
それさえもできない(知らない)こどもたちの姿が、悲しかった。
同情を映し出すものではなく、このように生きている人もいることを、
映画を通して感じさせるようなものだった。
どうにもまとめようがない、この気持ちは、どうすることもできないのか、そんな気持ちと同時に、どうすればいいのだろうかというものでもあった。
わたしは、わたしだけれど、誰かは誰かだけで簡単に分離しては成り立たないのだろうという気持ち。
社会というもの、その中での大人の役割。関わり方。
どうにかできるものもあると感じた。
こどもは、おとなにななってゆく。
おとなになるなら、おとなにならなければならない。
最低でも、こどもたちにとって恥ずかしくない責任のあるおとなに。
生きているのは、おとなだけですか?
映画中にその台詞はない。
しかし、どこかで、この映画の広告などでこの文字を見た。
この世の中で、生きているのは、おとなだけではない。
人間として、生きている。
おなかがすけば、食べることを望む。
汗をかけば、洗濯をする。
自分よりも弱いものを守ろうとする。その手段を考える。
ぎりぎりのぎりぎりまで、こどもたちは人間として生きていた。
しかし、それだけでは到底どうにもならないことがあった。
こどもたちは知らなかった。
学校に行けるということ。
外でおもいっきり遊べるということ。
戸籍がなく、名前はあるのに正式にそこにいる人ではないということ。
こどもたちだけでは生きてはいけないということ。
これが、当たり前ではないということ。
母親がひどいということ。
だからこそ、助けて、それさえも思わなかったのではないだろうか。
しかし、知っていたこともあった。
母親が、好きな人がいるということ。
そこに自分たちは行けないということ。
帰ってこないということ。
それでも、それでも母親が母親であるということ。
迷惑はかけてはいけないということ。
お金で物を買うということ。
お金は、こどもでは稼げないということ。
生きるには水が必要だということ。
人は死んでしまうということ。
母親は知っていることがあった。
出生届を出していないこどもたちを知られるとまずいということ。
きっと、このままではいられないということ。
お金があればなんとか生きられるのではないかということ。
母親は知らないことがあった。
自分に責任があるということ。
どれだけ自分を必要とされているかということ。
こどもはお金だけでは生きられないということ。
育児放棄が罪になるということ。
今、どうなっているかということ。
知ろうとしていなかったこともあるだろう。
知っていることも、知らないことも、知ろうとしなかったことも。
それよりも何よりも自分の幸せを求めた。
また、わたしが最近知ったことがあった。
社会のなかで、日常の中で、どこかで誰かの人権、人命に関わる危機や異変に気づいたら、その対象の家族ではなく赤の他人であっても警察や保護施設などに通報する「義務」があるということ。
これは、本当に義務として内閣総理大臣の名義として制定されているものであった。義務、なのか、ということを知らなかった。
劇中に登場する街の中の大人は、このこどもたちの存在に薄々気づきながらも何もしなかった。
この、義務を知らなかった。
または、自分が厄介なことに巻き込まれるのを回避するために「知らないふりをしていた」。
知らなかったことにしておこう。というふうに。
しかし、だいたいが、このような行動となってしまうのではないだろうか。
公衆電話から帰ってこない母親にかけた電話。
「いつ帰ってくるの?お金がないんだけど、どうすればいいの?会いたいよ」
そんな言葉を言いたかったのではないか。
しかし、電話に出た母の名まえは変わっていた。
無言で切った。分かったことがあった。
長男は、自分たちの生活を自分がなんとかしないといけないと思ったような顔だった。
妹が目を覚まさない。どうしよう。どうすればいいんだ。
唯一頼れる母親に公衆電話から電話をかけた。
数少ない10円玉を入れ続けた。
それでも電話は繋がらなかった。
どうにもできない。
その時も、頼れる人はいなかった。
ありったけのお金で薬局に行った。妹は目を覚まさなかった。
ただ、妹が見たいと行った飛行機を見せてあげたくて、最後に中学生の女の子にお金を借りて飛行場に行った。
長男は誰よりも責任を背負い、優しさを持ち、自分の権利を知らなかった。
こどもには、どうすることもできないことがある。
大人を頼っていいということすら知れないことがある。
公衆電話、このシーンが、ただつながらない無力感を感じさせ、忘れることができない。
時に、こどもたちはおとなたちよりも純粋に、生きることを知っているように感じた。
どうすればよかったのか?
矛盾。歯痒さ。もっと、あるけれどまとまらない。
この映画は、真実をもとに出来たものだ。
しかし、真実はもっとひどい結末が待っている。
この、映画を、機会があれば見てみてほしいと思う。
そして、なぜ、このようになってしまったか考えてみてほしい。
こどもたち、母親、父親、近所のおとな、学校に行っている小学生、中学生。
人の関係性、思考、社会、時間、本能と理性、感情、いのち。
静かに、リアルに描かれているものがある。
「いつの間にか、こんな社会になってしまったんだよ」
そう、誰かが言った。
なぜ、そうなってしまったのか。
それは、まぎれもなく、時代の流れだけではなく、おとなたちの認識の甘さからではないか。
義務を果たさず、責任を放棄する。
その元々のものは、人としてのその義務も責任も自分ごととして捉えていないということではないだろうか。
というよりも、捉えずして、生きていけてしまう社会になっているからでもあるかも知れない。
こどもたちは、おとなになってゆく。
その為の教育、街としての存在、おとなたちの役割。
そういうものを、ふつふつと考えた。
こどもが生きづらい世の中は、きっと、社会を、この映画のエンディングのようにしていってしまうのではないだろうか?
救いようのない、無力感ではなく、少しづつでも変えていくこと。
親だけではなく。
こどもたちを街単位からでもいいから、おとなたちが見守り育てるということ。
どうしようもなくなってしまうには、まだ、遅くはないはずだ。
さて。
ユニセフが制定している子どもの権利条約というものをご存知であろうか?
わたしは、その条約の存在自体は中学生の頃には知っていた。
しかし、どことなく、自分のものであるという認識はなかった。
こどもの頃も、そして今も。
改めて、条約を読んだ。しかし、難しい言葉の羅列が多くて読むだけで精一杯になってしまった。
この内容を、中学生がこどもたちでも理解できるように訳しているものがありまた読んだ。
条約が、ただの書面として存在するものではなく、サインだけの関係ではなく、内容を自分たちのものとして生活の中に落とすことを。
これについても、まだまだ問題点などが挙げられているが、中学生訳のものを一部抜粋することとする。
*
第6条 いのちのこと。
1
ぼくらは、生きてていいんだ。
ほかの人に殺されていいはずがない。
苦しんでなきゃいけないとか、
痛い思いをしなきゃいけない、
なんてことは、
絶対ない。
2
だから、どんなときも、
ぼくらが元気に生きて、育っていけるように、
できることは全部してほしい。
第7条 名まえがほしい。国の人になりたい。
1
大人のみなさん、
もし子どもが生まれたら、すぐ国のお役所に知らせること。
よろしくお願いします。
ぼくらは生まれたときから、
自分の名まえをもてる。
名なしのごんべじゃいやだからね。
そしてどこの国かはべつとして、
○○国の人にもなれる。
それから、
自分のお父さんやお母さんがだれか、
ということを知って、
そのお父さんお母さんに
育ててもらうことができる。
2
もし、子どもが、
どこの国の人にもなれそうにないときは、
そうならないように、
国の法律やほかの国とのあいだの約束に合わせて、
国はがんばってほしい。
*まえおき*
この「子どもの権利条約」をもっといろんな人が知って、
もっとたくさんの人がそれを守ったなら、
きっと、たくさんの子どもを助けられる。
たくさんの子どもの、命が消えることがなくなる。
だから、
いっぱい数はあるけど、
知ろう。考えよう。
少しずつ。
ひとつひとつ。
*
ユニセフの紹介 一部
(おとな向け)
http://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_mis.html
ユニセフは「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」を規範とし、子どもの権利が恒久的な倫理原則として、また子どもに対する国際的な行動基盤として確立されるように努めます。
ユニセフは子どもの生存と保護、発育が世界の発展、ひいては人類の進歩のための重要課題であると考えます。
(こどもたち向け)
http://www.unicef.or.jp/kodomo/
ユニセフは緊急のしごとだけでなく、世界中すべての子どもたちの命と健康をまもり、子どもたちがもってうまれた能力をじゅうぶんにのばしていけるように、政府や地域の人びとと協力して計画を立てて活動するようになりました。
こどもたち向けの情報も、本でもインターネットでもたくさんある。
知る、という権利がこどもたちにもある。
もしかすると、こどもの権利をおとなたちよりもこどもたちが知っている、ということもあり得るのかも知れない。
こうなっているのに、なんで。おとなは何をしているんだ?
そんな風にばかりならないように。
こどもたちが見れてしまう雑多な情報も、とてつもある。
何が本当なのか?どうなっているのか?
こどもたちから見たおとなたちが、誠意(という言葉にするには適切かどうか曖昧であるが)を持って存在することが、なによりも今、必要とされているような、そんな気にもなる。
知っていますか?行動していますか?
自分への投げかけにもなっていった。
政府、地域、協力。
現在、子どもの権利条約締約国・地域の数は193。
理想だけでなく、現実として。
知る。ということも、考える。ということも。
行動する、ということも、とてつもないエネルギーがいる。
それでも、何のためなのか?そう思った時に、そこが、重要だと感じる。
「誰も知らない」じゃ、どうにもならない。
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