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下関店
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2月主題-『知識人の擁護』 第一章

投稿日:2012/2/7

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本。
imageはいつだってつくんです。
でも、なんか、よくまとまらない。
だから、とにかく活字を図にする。絵にする。
これは、ごく一部の図。
知識人だって、わたしだって、「ごっちゃになるわー」な状態なのでしょう。
 
固い固いビスケットは、粉々になるまで砕いてしまえ!
そう思うんです。
分かったふりはできない。そんなに頭がよくない。
でも、なんだか知りたい。そういう気分。
だって、廃盤の本をわざわざ読むんですから。
きっと。これをやる意味がある。だったら、ちゃんと理解しないともったいない。
でも、漠然。核心はどこ?あぁ、さっき分かったつもりが忘れていく。
ひっ かかるようでひっかからない、でもつかまえたい。
そうだ、いつも、人間はごっちゃになってる。
でも、ひとつひとつ。理解できるようにやって行こう。
 
 
「知識人の擁護」
 
 
まず、いつもやることの中に、本を書いた人を調べるということをやっている。
いつもながら、ウィキってみる。←簡単すぎるけど。
 
ジャンポール•サルトル
 
ブルジョア知識人階級に産まれた。
(産まれた時から知識人をまとっていた。いわゆるぼっちゃん。)
そして第二次世界大戦中に生きた人。
生と死、善と悪、自由と束縛、
この時代に生きてこそ感じた部分で、人が人として、どうしていくべきかを考え
たのかなぁと思った。知識人の立場があってこそだけど。
人間について感じながら考えに考え、だからこそ、彼の唱える実存主義はリアルに感じられる気がする。
 
 
 
 
 
実存主義とは?
 
今まさに生きている自分自身の存在である実在を中心とする。
「実存は本質に先立つ」→人間は自由という刑に処せられている!!!
人間は、はじめは本質を持っていない。
人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられている。
(これも矛盾やん。自由と義務)
自分がどのようにありたいか、どのようにあるべきか?
を、思い描き、目標や未来像を描いて実現に向けて行動する自由を持っている。
自分の行動すべてが、人類全体を巻き込み、全責任が跳ね返ってくることを、
覚悟せよ!!!!ということらしい。
 
 
 
でも、これって、本当に限られた人間の特権のような気がしてならない。
自分がやりたいことを考えられる状況まである人が、ある程度中級ほどではないのか?
 
ただ1ヶ月を、今日この日を生きるために必死の人もいる。
特に不満はないけど、やりたいことをみつけることすらめんどくさいという人もいる。
しっかりした雇用がなく、不安でいっぱいでとにかく働いて何も考えられない人もいる。
 
 
だから、ある程度の立場とか状況でこそ、この人のいってることってやれるのではないでしょうか。そんなにみんなが希望をもってキラキラできたら、それはまぁ素敵でしょうけども。
実際、この世の中がそうでないということは、階級だったり、情勢だったり、政治的立場だったり、老若男女がからんでいたり、全然自由ではないと思う。
 
 
 
 
 
 
わたしは、この本を。
 
•ブルジョアの立場で。
 
•下の階級の立場で。
 
•知識人の立場で。
 
 
読んでみました。感情移入しながら。
 
*知識人に対して*
 
ブルジョア
「わたしたちが生きるこの世界がもっとよくなるように、なんか考えなさいよ。お金あげるから。でも、うちらに有益であってよね。あとはよろしくー。」
 
 
下級層
「ぼんぼんが何言ってんのー。暇してんなー、そこまで考えるなんて。
むだ!むだ!とにかく生きるしかないの。ばかじゃん、逆に。
うちらには関係ないし、口出しすんなしー。世の中そんなに甘くないんです。」
 
 
そんな板挟みの知識人さん。
彼らの存在はきっとむだなんかじゃないとは思うんです。
だから、こうして擁護しているんでしょうね。
 
知識人を批判する人の意見はこうです。
「知識の領域から自己の領域を越えて、人間という総括的な概念によって社会や既成の権力を批判する人。
 
自分の役割から逸脱する人間」
 
 
 
なんか、ちょっと、ひがみにしか聞こえないような気もしないではないですね。
暇人がでしゃばるな!余計なことまで考えるな!って感じですね。
でも知識人はこう思うのではないでしょうか。
 
知識人
「違うんです。本当はもっと特殊にいいことを追求したいんです、でも気づいたら普遍的になってしまったんです、ごめんなさい。
でも、上の階級だけでなく、人間がどのようにすれば可能性があるかを考えているんです。自由に生きたいじゃないですか?え?あ、はい。
分かってくれないのも分かります。すみません。
でも、考えているんですよ、ちゃんと。暇をもてあそんでなんかないんです!」
 
 
知識人たちは、自分の能力以上のことをやる人。
自己をある方向に変化させる可能性を自分自身に内包しているものとして把握する人だと記述してあります。
 
 
非存在から存在を証明し、未来を見据えて現在につなげる。
発見された可能性の正しさを証明したいだけなんです。
よりよくしたい気持ちはあるんです。
 
 
でも、その証明が、結局その他の人に認められなければ、意味なく、
なんだか考えてる割に疎外感を感じてしまうのでしょう。
 
 
 
たとえば。
うめぼしをたべたことがないフランス人に、ただ、梅干しを食べろ、というだけでなく、食べた後に、おなかの調子がよくなります、のような可能性まで伝え、ちゃんと可能性が現れるのを見届け、相手も納得する。
そこまでが理想の知識人でないでしょうか。
健康にいいっていったって、そんなもん食べたことないからやだよ、と、まず合意すらされてないようなのをこの本の知識人批判から感じました。
 
しっかり人を動かせるだけの考えをまとめ提案すること。
納得されること。感謝されること。
それがなければ、ただの理想主義のぼんぼんってことで、わたしも知識人なんて必要でもなんでもないような気がします。
でも、そういった可能性を探し、少しでも現実に介入できる人が増えると、
それはそれで信頼にもつながるし、良くして行こう、となるのかとも思いました。
 
さて。いつもながらに話がまとまりません。
 
では、特に良いと思った部分。
 
人間は、創造者であり、科学者であり、探求者である!
いい言葉だと思いました。
ただありのままを受け入れ、この限られた生を過ごすのではなく、
その流れの中で、時に疑い、時に追求し、実行に値するかどうかを選択しながら、可能性をつくりだし、行動する。
 
人間は、可能性に満ちている。
 
やるか、やらないかは、自分次第ということなのでしょうか。
 
ある程度、客観的に見れないと分からない部分がある。
だから、知識人は、多少時間とお金と余裕が必要不可欠ではあるのだと思う。
「そこまで」考えなきゃいけないし、「そこまで」伝えることもしなければならないのだから。
 
 
全員が全員、こんつめて考えられはしないかもしれない。
知識人は、考えることをしたいけど、なんだか考えているうちに追求しているものと離れてしまう。そんな気になる。
理想と現実の差。それこその矛盾。
 
そもそも、生きることは矛盾ばかりだと感じる。
生きる為に、命をもらう。
お金がすべてじゃないと言いながら、でもないとやっていけない。
なんか色々噛み合ない部分は多く見られる。
でも、言い換えれば、それはプラマイゼロになるということで、
生きては死にゆくこの命をどう使うか、
それを考えられるほどの、ある程度個人の自由になる日が少しでも早く来ればいいなと思うし(この世界全体を通して)、日本にはだいたいその状況があるのに何も気づかない人はもったいないので、生き方を考えないと、と思った。
 
「ごっちゃになるわー」
な世の中で、世界と自分の基準の合間で、矛盾と格闘しながら選択して生きて行く。
けっこう、やりがいのある人生かもしれない。
 
サルトルの影響を受けた日本人として、有名作家(だけど作品読んでない)大江健三郎氏がいる。
本を書く人は、きっと、ひとりだけの見解だけでなく、より多くの人に意見を提示、提案することができる。
このように、サルトルの考えが、回り回って、この日本にもやってきたわけで。
多分、
今の日本のあり方に疑問をもった日本人にも受け入れられたのだと思う。
そして、戦後ずいぶんと経ってはいるが、ただ毎日が平和で何も問題がないようなこの世界に、今一度どう生きて行くのが人としていいのかを提案されたような気分になった。
 
 
 
 

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