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下関店
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Leader ship 哲学入門①

投稿日:2011/10/26

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*教育プログラムの一環で、バートランド•ラッセル「哲学入門」を理解する為にうつしてます。長いです。

*まだいまいちよく分からないですが、一応感想を下に書いてます。

*哲学って…(ー ー;;;;;)むむ。。。

 

第1章 現象と実存

理性的な人なら誰にも疑えない、それほど確実な知識などあるだろうか。

この問いは、一見難しくなさそうに思えるが、実は最も難しい問題の一つである。

自信をもってきっぱりと答えようとしても、何かがそれを妨げている。

そのことをはっきり認識するとき、私たちはすでに哲学を始めているのである。

なぜなら、哲学とはこのような根本的な問題に答える試みに他ならないからだ。

それも、、ふだんの生活や科学的研究をするときですらしてしまうように、不注意かつ独断的に答えるわけではない。

このような問題を分からなくしているものをすべて検討し、ふだんの考えの根元にあるあいまいさや混乱を一つ残らず見て取ったうえで批判的に答えようとすること、これが哲学だからである。

日常生活で、確実なものとして受け入れられている多くのものも、吟味してみれば明らかな矛盾に満ちているのが分かる。

あまりにもたくさん見つかるので、本当に信じてよいのはどれかを知るためには、かなり考えなければならないほどである。

確実なものを求めるときには、私たちが現にしている経験から始めるのが自然であり、またある意味で、確かに知識はそういう経験から生み出されるものでもある。

だが、直接的な経験によって知られたことに関する言明は、どれも間違っている可能性が非常に高い。

たとえば、今私にはこう思える。

私は椅子に座り、ある形をしたテーブルに向かい、そのうえには字を書いた紙が何枚か見える。

ふりかえれば窓の外には建物、雲、そして太陽が見える。

私は、太陽は地球から約9300万マイルのかなたにあると信じている。

地球の何倍もある熱い球体であることや、地球の自転のせいで毎朝のぼり、そしてこれからも限りなくのぼり続けるであろうことも。

さらには、普通の人が部屋に入ってきたら、その人は私と同じ椅子、テーブル、本、紙を見ること。

また、見ているテーブルは、腕を支えているテーブルと同じということも、私は信じている。

じれらはどれもあまりにも明白なので私が全く何もし入らないのではないかと疑う人に答える場合でもない限り、わざわざ言葉にするに値しないとすら思える。

しかし、これらの言明はみな筋を通して疑えるので、注意深く議論を重ねないかぎり、完全に正しい仕方で言い表したとは確信できないのだ。

問題を明らかにする

ため、テーブルに注目しよう。

目には長方形で茶色く光沢があるように映り、触ればなめらかで、冷たく硬い。

たたけば鈍い音がする。

このテーブルを見、触り、その音を聴く人なら、誰でもこの記述に同意するはずだから、何の問題も起こらないと思われるかもしれない。

だがもっと正確であろうとすると、とたんに面倒なことになる。

テーブルは全面に渡って「本当にreally」同じ色をしていると私は信じている。

しかし、明かりを反射している部分は他の部分よりも明るく、そのため白く見えるところすらある。

 

自分が動けば明かりを反射する場所が変わるため、テーブルの上の色の分布も変わることも、私は知っている。

ここから、人々が同じテーブルを同時に見るなら、まったく同じ視点からテーブルを見ることができず、どんなにわずかであれ視点が変わるなら、明かりの反射の仕方も少しは変わってしまうからだ。

こうした色の違いが実生活で重要になることはほとんどないが、画家にとってはなによりも重要である。

常識的に物の「本物」の色だと言われている色を、物は持つように見える、そう考える習慣を私たちは持っている。

しかし画家はこの習慣を脱ぎ捨て、見えるがままに物を見る習慣を身につけなければならない。

ここで私たちは、最大の哲学的問題の一つの原因になる、ある区別をし始めている。

「現象 appearance」と「実在 reality」の区別、つまり物がどのように見えるかと、どのようであるかの区別である。

画家が知りたいのは物がどのように見えるかだが、いわゆる現実的な人や哲学者は、物がどのようであるかを知りたいと思う。

しかし哲学者は現実的な人よりも遥かに強くそれを望み、また問題に答える難しさを知っているだけに、より深く悩まされることになる。

テーブルに話を戻そう。

いままで分かったことから、テーブルはその色[the color]をしていると言えるような、他ならぬきんでて見える色は存在せず、テーブルのどの部分についても同じことが成り立つのは明らかである。

テーブルやその部分は、視点が変われば異なる色に見え、そのうちのどれかを他の色よりも本当であるとする理由はない。

また、周知のとおり同じ視点からですら、照明をあてたときや色盲の人、サングラスをかけた人にとっては違う色に見え、さらに暗闇の中では、触ったり聞いたりするかぎりでは変化していないにもかかわらず、テーブルはまったく色をもたない。

つまり色は、テーブルそのものに属するのではなく、テーブルと観察者、そしてテーブルへの光の当たり方に依存するものである。

テーブルのその色についてふだん話しているときには、正常な観察者が普通の視点から、通常の光の条件下で見る色を意味しているにすぎない。

しかし他の条件下で見える色にも何もおかしなところはなく、本当だと見なされている資格がある。

それゆえ、えこひいきを避けるためには、テーブルが、それ自体としてある特定の色をしていることを否定しなければならなくなる。

肌埋についても同じことが言える。

裸眼では木目が見えるが、それをのぞけば平坦でなめらかに見える。

しかし顕微鏡で見てみると、気目が粗く、でこぼこしていたり、裸眼では見えなかったあらゆる違いが見えるはずだ。

では、どちらが「実在の(本当の)」テーブルなのか。

顕微鏡を通して見た方が本物の姿だと自然に言いたくなるが、もっと強力な顕微鏡が出れば、今の顕微鏡見えている姿もまたお払い箱になるだろう。

とすれば、裸眼で見えるものが信用できないのなら、なぜ今の顕微鏡を通して見たものを信用すべきなのか。

こうしてこの場合もまた、はじめは信頼していた感覚に裏切られる。

テーブルの形にしても、事態は良くならない。

私たちはみな、物の「実在の」形について判断する習慣を身につけている。

しかも、あまりにも無反省そう判断するので、自分は本当の形を実際に見ていると考えてします。

しかし絵描くときには習わなければならないことだが、一つの物も、異なる視点からは異なる形に見える。

テーブルが「実在としては」長方形であれば、それはほとんどの視点から、鋭角と鈍角を二つずつ持つように見えるだろう。

向かい合った辺が平行なら、観察者から遠ざかる方向へ収束するように、また辺の長さが等しいなら、近い方の辺が長く見えるだろう。

テーブルを見るときには、普通こうしたことには気づかないが、それは、見えている形から「実在の」形を作り上げるよう経験が教えてきたからであり、生活のなかで関心が持たれるのも「実在の」形のほうだからである。

しかし「実在の」形は見えるものではない。

見えるものから推論されたものだ。

そして見えるものは、人が部屋の中を動き回るにつれ、その姿を変え続ける。

すると、ここでもまた感覚はテーブルそのものではなく、その現象についての真理しか与えてくれないようだ。

感触を取りあげてみても同様の問題が起こる。

テーブルは確かに硬さの感触を与える。

押せば、押し返してくるように感じられる。

しかしそうして得られる感覚は、どれくらいの強さでテーブルを押すか、体のどの部分で押すかに左右される。

したがって、体の色々な部分を使い、さまざまな強さで押して得られる諸感覚は、テーブルの特定の性質を直接明らかにするものとしてではなく、せいぜいテーブルの性質の記号であると考えられるにすぎない。

テーブルの性質は、以上のような諸感覚すべての原因ではあるのだが、しかしそうした感覚に実際に現れることはない。

テーブルをたたけば出る音には、同じことがよりあからさまに当てはまる。

 

かくして、もし本当にテーブルが実存するのだとしても、それは直接経験されるものと同じではなく、見たり、触れたり、聞いたりできないことが明らかになる。

実存のテーブルが存在したとしても、それはけっして直接には知られず、直接知られるものから推論されなければならないのだ。

ここから、非常に難しい二つの問題が同時に生じてくる。

(1)そもそも実存のテーブルはあるか。

(2)もしあるのなら、それはどんな対象でありうるか。

意味のはっきりした単純な養護がいくつかあれば、この二つの問題の考察に役立つだろう。

感覚によって直接的に知られるものー色、音、におい、硬さ、手触りなどーに、「センスデータ」という名を与えよう。

そして、これらを直接意識している経験を「感覚sensation」と名付けよう。

よって、ある色を見ているときにはいつも、その色についての感覚を持っているのだが、色そのものは感覚ではなくセンスデータである。

つまり、直接意識されるものがが色であり、意識そのものは感覚なのである。

もしテーブルについて何かを知りうるのなら、それは明らかにセンスデータ ー茶色だったり、長方形だったり、なめらかだったりする、テーブルにかかわるセンスデータ ーを通してでなければならない。

しかし今まで挙げたさまざまな理由から、テーブルはセンスデータであるとは言えず、センスデータがそのままテーブルの性質になっているとすら言えそうにない。

したがって、実存のテーブルがあるとすれば、それとセンスデータとも関係が問題となる。

実存のテーブルが存在するとして、それを「物的対象」と呼ぼう。

よって考察すべきなのは、物的対象とセンスデータとの関係である。

すべての物的対象をひとくくりにして「物質」と呼ぼう。

それゆえ先ほどの二つの問題は、次のように言いなおせる。

(1)そもそも物質のようなものがあるか。

(2)もしあるのだとしたら、その本性は何か。

五感[our senses]の直接の対象は、私たちから独立には存在しない、そう考える理由を初めてきっぱりと打ち出した哲学者はバークリ僧正(1685-1753)だった。

彼は「懐疑論者と無神論者に反対する、ハイラスとフィロナウスの三つの対話」で、物質など存在しないこと、そして、世界を作り上げているのは、心と心が抱く観念だけだということ、この二つを証明したとうけあっている。

ハイラスはそれまで物質を信じていたが、フィロナウスの敵ではない。

フィロナウスはハイラスを矛盾と逆説へと追いつめ、ついには自分から物質を否定させ、それがあたかも常識であるかのように思わせてしまう。

そこで使われている議論の価値はまちまちで、重要で健全なものもあれば、混乱したものや、ただのあげあし取りもある。

だが、何の不合理も犯すことなく物質の存在否定できること、そして私たちから独立に存在して物があったとしても、

感覚の直接直接の対象にはなれないこと、これらを示した手柄はバークリのものである。

物質が存在するかという問いには、二つの異なる問題が含まれているので、それらをきっぱりと分けておくことが重要である。

ふつうの意味では、「物質」は「心」と対比され」、空間内にあるが、そもそも何かを考えたり意識する能力を持たないと見なされている。

バークリが否定するのも、主にこの意味での物質である。

つまり、テーブルの存在記号であると誰もが見なすセンスデータが、本当に私たちから独立な何かの存在の記号になっているということは、バークリも否定しない。

この何かが心的ではないということ、すなわち心でも、誰かの心が抱く観念でもないことを否定しているのである。

彼も、部屋を出たり目を閉じたときにも、何かが存在し続けなければならないことを認める。

さらには、私たちが「テーブルを見る」と呼ぶ経験が、見ていないときにも何かが存在し続けていると信じる理由を、実際に与えるということも認める。

しかし、バークリによれば、この存在し続ける何かの本性が、私たちが見ているものと根本的に異なるなどということはありえない。

それは確かに私たちが見ることからは独立的なのだが、見ることからまったく独立ではなありえないのである。

こうしてバークリは、「実存」のテーブルを神の心の中の観念だと見なすようになる。

こうした観念は、「存在し続けること」と「私たちからの独立性」という二つの要請を満たしつつ、まったく知りえないものになってしまうこともない。

ここで「まったく知りえない」と言っているのは、ただ推論できるだけで決して直接意識できないという意味である。

もし物質によって以上の二つの要請を満たそうとすれば、それはこの意味でまったく知りえないものになていただろう。

バークリ以後も、テーブルが存在するためには、何らかの心 ー 私である必要はないにせよ ー が見ていなければならない(あるいは、感覚によって捉えられていなければならない)と考えた哲学者はいた。

もっとも、必ずしも神の心ではなく、しばしば宇宙内の心を集めて一つにしたものだとされたのだった。

そう主張する主な理由はバークリと同じで、心とそれが抱く考えや感じ以外には本当には何も存在しえない、少なくとも本当に存在するとは知りえないということである。

彼らは

「私たちは何かについて考えることができる。

ところで、考えられている何かとは、すべて、その何かについて考えている人の心の中の観念である。

それゆえ観念意外に考えられるものはない。

したがって、観念以外のものは理解不可能である。

そして理解不可能なものなど存在しえない」

と論じて、自分の見解を裏付けようとした。

こんな議論は間違っているというのが私の意見だ。

もちろんこの議論を提示する人も、かくも短くぞんざいに論じているわけではない。

しかし妥当であろうとなかろうと、この議論が何らかの形で提示されているのがきわめて広範囲に見受けられるし、またかなり多くの哲学者たち ー 恐らくは多数派と言えるだろう ー が、心と観念以外には何も実存しないと主張してきた。

このような哲学者たちは「観念論者」と呼ばれている。

彼らは物質を説明する段になると、バークリのように、物質は実は観念の集まりにほかならないと言ったり、ライプニッツ(1646-1716)のように、物質のように見えるものも、実は多少発達していないところのある心の集まりだとしたりする。
しかしこれらの哲学者も、心に対比されるものとしての物質を否定するとはいえ、別の意味では物質を認める。

二つの問いを立てたのを憶えているだろう。

(1)そもそも実存のテーブルはあるのか?

(2)もしあるのなら、それはどんな対象でありうるか。

ところで、バークリもライプニッツも実存のテーブルがあると認めるのだが、バークリはそれを神の心の内なるある種の観念とし、ライプニッツは群棲する魂だと言う。

ということは、どちらも第一の問いは肯定し、第二の問いに対してのみ常人からかけ離れた答えをするわけである。

事実はほとんどすべての哲学者が、実存のテーブルがあることに同意するように思われる。

つまり、

「色、形、なめらかさなど、どれほど多くのセンスデータが私たちに依存するとしても、それらが生じていることは、私たちから独立な何かが存在するしるしである。

そしてそれはセンスデータとはまったく異なるのだが、しかし実存のテーブルと私たちが適切な関係にあるときには、いつでもセンスデータの原因になると見なされているものである」

ということは同意されるのである。

すべての哲学者が同意するこの店 ー その本性がなんであれ、実存のテーブルがあるという見解 ー が決定的に重要なのは明らかだろう。

それゆえ、実存のテーブルの本性に関するさらなる問いにとりかかる前に、この見解を受け入れる理由を考察することには意義がある。

次章では、そもそも実存のテーブルがあると思う理由を考えることにする。

先に進む前に、これまでに分かったことは何かを、ざっと頭に入れておこう。

五感によって知られるとされる、ごくありふれた対象を取りあげるなら、次のように思われたのだった。

五感が直接教えることは、私たちから独立な大賞についての真理ではなく、センスデータについての真理にすぎない。

そしてセンスデータは、これまでに分かったかぎりでは、私たちと対象との関係に依存する。

したがって私たちが直接に見て感じているのはただの「現象」であり、そしてそれを私たちは背後にある何らかの「実存」の記号だと信じているのだ。

しかし実存が見えないのなら、そもそも実存の有無を知る手立てがあるのだろうか。

そしてもしそれを知りうるのだとすれば、実存がどんなものかを見出す手立てはあるのだろうか。

これはまったく途方にくれる問題なので、それに答える仮説がどんなに奇妙なものでも、正しくないということがなかなか示せないのである。

かくして、今までまったくといってよいほど何も考えさせなかった見なれたテーブルが、驚くべき可能性に満ちた一つの問題になる。

テーブルについて分かったのは、私たちが思っているものとは違うということだけだ。

このささやかな成果を超えると、今のところはどのように推測しようとまったく自由なのだ。

ライプニッツはそれを魂の共同体であると言い、バークリは神の心の内なる観念だけだと告げる。

真面目な科学は驚異的であることにかけてはまったくひけをとらず、

膨大な数の激しく動き回る電荷の集まりであると教えてくれる。

かくも驚くべき可能性にとりかこまれると、そもそもテーブルなど存在しないのではないかという疑いが生じてくる。

このように、哲学は、望まれているほど多くの問いに答えられないとしても、問いを立てる力は持っている。

そして問いを立てることで、世界に対する興味をかきたて、日々の生活のごくごくあありふれたもののすぐ裏側に、不可思議と驚異が潜んでいることを示すのである。

 

 

 

 

 

わたしは、たまたま生まれたときから目が見えた。

耳も聞こえたし、話すこともできた。

生まれたときから自然に、または必然的に自分を主観とした世界を見て、

成長の中で物と名前を一致をさせ、存在を確認していくようになった。

テーブルはテーブル。

短絡的にものと名前、それだけ把握していれば問題なかったし、

「これは本当にテーブルなのか?」そう疑ったことはなかった。

基準はたしかに、

自分の経験からで、外見から、そしてその用途「ものを置いたり、食事をしたりするもの=テーブル」ということからの認識だった。

だから今ここでマクロまで細やかな話を聞いても、

テーブルテーブルと繰り返して結局何が言いたいのか全然ピンとこなかったのだけれど、

バークリが言った、「心」というもの、

物質は、神の心の内なる観念というまとめかたが曖昧そうでありながら、それでもなんとなく納得せざるをえないものなのかと思った。

宗教観のない私は、自分の存在が実存しているのかどうかが定かにはよく理解しきれていないので、物質も現象も何にしろ疑いぶかい(哲学者ほどではないけども)ので、こういう考え方は新しく、へぇ、、、っと思ってしまった。

しかし、そうだと何でもすぐに自分の存在を超えたもので何もかもを納得していくことになるのかとも思えもする。

それはそれで、つまらないような、、、どうなのか、、、。

最後の「ありふれた日々の中の不可思議と驚異」というニュアンスが残り、

ありふれた日々に感じてしまう時間の中で、より感じ求め発見していくことが、

自分の存在にも近づく刺激となり、人生というものを具体的にしていくことなのかも知れないと、

やはり何を言いたいかまとまらないが、それが哲学なの?っと第1章で思いました。

めんどくささから逃げなくなったら、何かまた気づけるかもしれない。

 

 

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