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下関店
scrollable
Life studio SHIMONOSEKI
投稿日:2018/4/3
1340 2
feel your life.
海の向こうには、水平線があってほしかった。
だったらこんなに、不安な気持ちにはならなかったのかもしれない。
海の向こうには、いつでも町が見えた。
海に浮かんでいるように見える陸の上には、
重たそうにぎっしりと工場や家が並んでいた。
いつもどこか、違和感を感じた。
向こうからこちらを見ると、同じように見えるのだろうと思えば思うほど、
なんてこの場所は不安定で、自分は小さいのだろうと想像するばかりだった。
本州と九州を繋ぐ関門橋には、止まることなく車が走っていき、
その橋の下にはまた船が次々と行き交ってゆく。
海と、その上の陸と、空を同時に眺めると、
この世界は何なのだろうと思わずにはいられなかった。
世界という現実と、進み続ける時間、その中で存在する自分。
当たり前のことが不思議で怖かった。
どこまで続くのか、いつまで続くのか。
どこまで行ったとしても、人は限られた中でしか生きられないということを。
どれだけ止まってほしい時間があっても、待ってはくれないということを。
いつでも気づかせてくるようだった。
希望だけではなく絶望もあり、
無限ではなく有限なのだと。
海はいつでも限界を見せてくるようだった。
得体の知れない不安と、必要以上の焦りをいつも感じながら、
ここではないどこかでならもっと自由に生きていけるような気がした。
向こう側が水平線だったら、
浮かんでいるように見えてしまう地上に怖がることもなかったかもしれない。
自分の小ささをこれほどまでに感じなかったかもしれない。
水平線の先の世界を夢みて無限の想像ができたかもしれない。
そう思って、この町から離れて暮らした。
離れてもなお、気づくと海の前に立ち水平線を眺めていた。
海の向こう側に何があろうと、不安はいつも拭えない。
わたしは何をしてきたのだろうか。
わたしは何をしようとするのか。
結局、問題は目の前にある何かではなく、
常に自分の中にある見えないものだったのだと
そう気づくしかなかった。
今、ここにいるわたしは何なのか。
全て何かが繋がらなくて、不確かで、不安定だった。
わたしたちは、心の底から会話をしているだろうか?
わたしは、していなかった。
たわいもない話で笑うことは出来ても、
時に自分を否定し、誰かを否定し、
それでも共通の価値を探してまた何かを作りあげ
共に協力をしていくほど鮮烈な会話を。
わたしたちは、心の底から信じているだろうか?
わたしは、信じきれていなかった。
今、出会っている人との関係が
ずっとこれからも続いていくということを。
わたしたちは、どれだけのことを知っているだろうか?
わたしは、知っていると思い込んでいるだけだった。
そう思っていたのは自分の知識ではなく、
ただ聞いただけのことばかりで考えてはいない、
知っているとは言えないことばかりだった。
わたしたちは、人生に対して向き合っていると言えるのだろうか?
わたしは、目を逸らしてばかりいた。
自分以外の事で人生はいつでも左右されるのだから、
人生などどうなるかなど分からない、そう言い訳ばかりしてきた。
だから、
不安なのだ。
そう気づかせたのは、海ではなくライフスタジオだった。
「本当に恐れているものと、本当に望んでいるものは同じだ。」
李社長のこの文章を読んだ時に、何かが繋がったような感覚になった。
大切なものは時間だと、ずっと思ってきた。
生きている時間、それが人生なのだと。
限りある時間の中で、時間を大切にすることで大切な人を大切に出来るのだと。
そうずっと思ってきたこと、それが違うのではないかと思いはじめた。
時間が大切なのだと、そう思うしかしてこなかった。
大切にしなければならないものを求めないでいられるように。
恐れていて、それでいて本当は望むもの。
それは、存在としての確認であり、存在としての実感である。
あるようで、あることが怖かった、今という現実と、そこに存在する自分。
恐れが上回っていたのは、
この世界に対する不条理さや矛盾に対して、
自分に何が出来るのかという無気力さからだったように思う。
不安はいつも無知から来る。
自分が今生きていることに対しての存在と理由を明確にすることが、
この不安を克服していく方法なのだと、
そこには確認を共にしていく関係性というものが必要不可欠であるということを、
この場所で繰り返し行ってきた学習や討論を通し理解してきた。
ライフスタジオという場所も、いつも限界を見せ、
それでも立ち向かわせる覚悟をさせてくれるような場所だった。
傷つくことを避け、挑戦する前から諦めて、
それなりに日々を過ごして残るのは後悔だけかもしれない。
今、改めてまた同じ海を眺めてみる。
雄大な貨物船は、今日も海峡を進み続ける。
昔は気にもとめなかった美しさを感じるようになった。
諦めないことだ。
ただ、それだけでいい。
絶望は希望でもあり、有限は無限にもなることができる。
人ひとりの人生には限りがあっても、
人が人として生きてきたという事実があり、わたしたちは存在し、
そしてこれからも人は人として生きていく。
変わっていくものがあり、そして、変わらないものがある。
時代は変わった、と、この町でよく聞く。
時代は変わる、それはいつの時代も変わらない。
変わるのか、変えるのか、変わってしまうのか。
それは、その時代に生きた人の存在のあり方次第であり、
何を望み実現させていくかでもある。
写真館はその時代という日々の流れの中で生きる人々への
まなざしを絶やさない場所として存在していくこととなるだろう。
誰と共に過ごし、誰と共に笑い楽しみ涙を流してきたのか。
しあわせや愛や喜びというものを少しずつ知っていき、
時には悲しさや苦しみにも遭遇しながら、また進んでいく。
そのすべてが人生という存在であり、ひとつひとつが歴史になる。
人生は、きっと美しい。
人が人として生きるとはどういうことなのか。
この場所から見つめていこうと思います。
***
photo: neighbors by所沢店
はじめての、関門橋とわたしたち。
この水平線の向こうの街々を一緒に見れて嬉しかったです。
ありがとうございました。
海の向こうには、水平線があってほしかった。
だったらこんなに、不安な気持ちにはならなかったのかもしれない。
海の向こうには、いつでも町が見えた。
海に浮かんでいるように見える陸の上には、
重たそうにぎっしりと工場や家が並んでいた。
いつもどこか、違和感を感じた。
向こうからこちらを見ると、同じように見えるのだろうと思えば思うほど、
なんてこの場所は不安定で、自分は小さいのだろうと想像するばかりだった。
本州と九州を繋ぐ関門橋には、止まることなく車が走っていき、
その橋の下にはまた船が次々と行き交ってゆく。
海と、その上の陸と、空を同時に眺めると、
この世界は何なのだろうと思わずにはいられなかった。
世界という現実と、進み続ける時間、その中で存在する自分。
当たり前のことが不思議で怖かった。
どこまで続くのか、いつまで続くのか。
どこまで行ったとしても、人は限られた中でしか生きられないということを。
どれだけ止まってほしい時間があっても、待ってはくれないということを。
いつでも気づかせてくるようだった。
希望だけではなく絶望もあり、
無限ではなく有限なのだと。
海はいつでも限界を見せてくるようだった。
得体の知れない不安と、必要以上の焦りをいつも感じながら、
ここではないどこかでならもっと自由に生きていけるような気がした。
向こう側が水平線だったら、
浮かんでいるように見えてしまう地上に怖がることもなかったかもしれない。
自分の小ささをこれほどまでに感じなかったかもしれない。
水平線の先の世界を夢みて無限の想像ができたかもしれない。
そう思って、この町から離れて暮らした。
離れてもなお、気づくと海の前に立ち水平線を眺めていた。
海の向こう側に何があろうと、不安はいつも拭えない。
わたしは何をしてきたのだろうか。
わたしは何をしようとするのか。
結局、問題は目の前にある何かではなく、
常に自分の中にある見えないものだったのだと
そう気づくしかなかった。
今、ここにいるわたしは何なのか。
全て何かが繋がらなくて、不確かで、不安定だった。
わたしたちは、心の底から会話をしているだろうか?
わたしは、していなかった。
たわいもない話で笑うことは出来ても、
時に自分を否定し、誰かを否定し、
それでも共通の価値を探してまた何かを作りあげ
共に協力をしていくほど鮮烈な会話を。
わたしたちは、心の底から信じているだろうか?
わたしは、信じきれていなかった。
今、出会っている人との関係が
ずっとこれからも続いていくということを。
わたしたちは、どれだけのことを知っているだろうか?
わたしは、知っていると思い込んでいるだけだった。
そう思っていたのは自分の知識ではなく、
ただ聞いただけのことばかりで考えてはいない、
知っているとは言えないことばかりだった。
わたしたちは、人生に対して向き合っていると言えるのだろうか?
わたしは、目を逸らしてばかりいた。
自分以外の事で人生はいつでも左右されるのだから、
人生などどうなるかなど分からない、そう言い訳ばかりしてきた。
だから、
不安なのだ。
そう気づかせたのは、海ではなくライフスタジオだった。
「本当に恐れているものと、本当に望んでいるものは同じだ。」
李社長のこの文章を読んだ時に、何かが繋がったような感覚になった。
大切なものは時間だと、ずっと思ってきた。
生きている時間、それが人生なのだと。
限りある時間の中で、時間を大切にすることで大切な人を大切に出来るのだと。
そうずっと思ってきたこと、それが違うのではないかと思いはじめた。
時間が大切なのだと、そう思うしかしてこなかった。
大切にしなければならないものを求めないでいられるように。
恐れていて、それでいて本当は望むもの。
それは、存在としての確認であり、存在としての実感である。
あるようで、あることが怖かった、今という現実と、そこに存在する自分。
恐れが上回っていたのは、
この世界に対する不条理さや矛盾に対して、
自分に何が出来るのかという無気力さからだったように思う。
不安はいつも無知から来る。
自分が今生きていることに対しての存在と理由を明確にすることが、
この不安を克服していく方法なのだと、
そこには確認を共にしていく関係性というものが必要不可欠であるということを、
この場所で繰り返し行ってきた学習や討論を通し理解してきた。
ライフスタジオという場所も、いつも限界を見せ、
それでも立ち向かわせる覚悟をさせてくれるような場所だった。
傷つくことを避け、挑戦する前から諦めて、
それなりに日々を過ごして残るのは後悔だけかもしれない。
今、改めてまた同じ海を眺めてみる。
雄大な貨物船は、今日も海峡を進み続ける。
昔は気にもとめなかった美しさを感じるようになった。
諦めないことだ。
ただ、それだけでいい。
絶望は希望でもあり、有限は無限にもなることができる。
人ひとりの人生には限りがあっても、
人が人として生きてきたという事実があり、わたしたちは存在し、
そしてこれからも人は人として生きていく。
変わっていくものがあり、そして、変わらないものがある。
時代は変わった、と、この町でよく聞く。
時代は変わる、それはいつの時代も変わらない。
変わるのか、変えるのか、変わってしまうのか。
それは、その時代に生きた人の存在のあり方次第であり、
何を望み実現させていくかでもある。
写真館はその時代という日々の流れの中で生きる人々への
まなざしを絶やさない場所として存在していくこととなるだろう。
誰と共に過ごし、誰と共に笑い楽しみ涙を流してきたのか。
しあわせや愛や喜びというものを少しずつ知っていき、
時には悲しさや苦しみにも遭遇しながら、また進んでいく。
そのすべてが人生という存在であり、ひとつひとつが歴史になる。
人生は、きっと美しい。
人が人として生きるとはどういうことなのか。
この場所から見つめていこうと思います。
***
photo: neighbors by所沢店
はじめての、関門橋とわたしたち。
この水平線の向こうの街々を一緒に見れて嬉しかったです。
ありがとうございました。
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