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下関店
scrollable
photo:人と生きる
投稿日:2015/10/12
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今という時間がものすごく長く感じて、
早く時間が過ぎないものか、早くこの状況から抜け出せないかと、
今を受け入れられずに、すぐそこにある明日に臆病になるような、
そんな時期があったことがあります。
10代の頃、自分が学生ではなくなり、社会人となり仕事をして
いつか家庭を持ち、人の親となり、20代、30代、40代を迎えるという、
自分の人生というもの、将来というものを想像しては、
なかなか想像がつかず、どうすればいいのだろうと思うばかりでした。
目の前にいる、人、人、人間という人間が、何食わぬ顔で歩いていても生きている。
全ての人に、人生があるのだとそこらじゅうを眺めて思っては、
みんなよくまっすぐに生きてるな、と感じるばかりで、
この世界でどのように生きていきたいという明確な希望が持てずにいました。
いつしか「早くばあちゃんになりたい」、そう口にするようになり、
自分がどうしたいかは分からないけど、生きていたいという気持ちだけはあるという慢心ばかりであったと、今思うと恥ずかしさしかありません。
ばあちゃんは、ただ生きていたのではなく、確実に生きてきた人だったのだと、今だからこそ思います。
わたしはわたしが生まれてきてから出会った祖母という姿しか知らず、
その楽しげに笑う一面しか見ていませんでしたが、
時折話してくれる昔話から、生まれて間もなく実の母親が亡くなったこと、
親が再婚してから歳の離れた兄弟が3人できて母親同然に面倒を見てきたこと、
戦争中は赤痢にかかって死ぬ寸前だったこと、命を救ってくれた女医の先生の名前を70年経った今でも覚えていること、
ずっと貧乏で働き詰めだったことなど、わたし自身が億劫になったりしている日々よりも
遥かに苦労も挫折も耐えられなくなりそうな人生を経験し、
それでも今の祖母になるまで1分1日1年、時間を飛び越すことなく、
現実から逃げることなく生き続けたからこそ、いつも寛容に笑っていられたのだと思い知りました。
そしてまた、今だからこそ分かったことがあります。
人との出会いがあったからこそ、生きてこれたのではないかと。
数々の苦労も、その時々に出会った人との支え合いの中で諦めずに生きてきたのだと、
人々の中に残る祖母の話を聞いているとより強く感じることができ、
同時に自分自身でもそう思えたからこそ10代の頃の迷いは今、なくなっています。
10代から20代になり、次第に自分自身のやりたいことよりも、この人生の中でやるべきことを想像しながら、自分の人生をどのように使うのか、どうすれば役に立てるのかを考えていると、
次第に同じような意志を持つ人達と出会うようになり、考えや行動を共にする中で、
まだまだやることはあると思うようになりました。
下関店がオープンしてから半年が経ちました。
下関店のこの場所は、去年の12月、下関中の物件探しをしている時に直感ですぐに決めました。
社長もまだ店の中を見ていない時に、です。
•まちの中にあること
•こどもたちの通学路にあること
写真館という店、そしてこの場所があるからこそ出来ること、したいことを考えた上での自分なりの条件だったのですが、もうひとつ条件がありました。
•おじいちゃんおばあちゃん、家族みんなで来れる場所
だから、他にも見ていた入口が二階にある物件はやめました。
通路の狭い物件もやめました。
ワンフロアにできて、車いすでも入って撮影できる場所だと思い、今のこの物件に決めたのです。
いつまでも祖母が元気でいてくれると思っていました。
だから、わたしは写真を仕事にしているのにも関わらず、祖母とその家族の写真を改めて撮ったことがありませんでした。
それが大きな後悔に変わり、叶わない願望にもなりましたが、
出来ることなら親子だけでなくおじいちゃんおばあちゃんも含めた家族写真を残してほしいという気持ちになったのです。
「一生懸命に生きてきた人たちの生を、繋いでいくこと」
改めてわたしの命題になりました。
今では、下関店での撮影の半分くらいはおじいちゃんおばあちゃんが来ているのではないかというくらいです。
その多くは、下関から離れたご家族が帰省のタイミングで、なかなか会えないおじちゃんおばあちゃんと写真が撮りたいという希望からです。
そんな下関店の9月のある日。
下関に住むひいおじいちゃんひいおばあちゃんと一緒に撮影がしたいとのことで、
東京からおばあちゃん、そのこどもさんたち、そしてお孫さん計7名が帰省をし、9名でご来店されました。
すごく不思議な縁で、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんは、
スタジオのあるこの町で生まれ育ち、おばあちゃんも小学生までここで過ごしていたそうです。
どこで生まれて、この町は昔は一番栄えていた、正月はあそこでたくさん買い物をして…、この町で過ごしたたくさんの思い出が湧き出ます。
お子さんたちと別々にスタジオに来たので、昔話を30分ほどしたのでしょうか。
わたしが知っているこの1年足らずの上新地の町の、80年前の景色が浮かぶようでした。
ひいおばあちゃんへ撮影中に投げかけた「むすめさんはどんなお子さんでしたか?」という質問に昔を思い出してこわばった顔が笑顔になり話をしてくれた瞬間が忘れられません。
おばあちゃんのこども時代を聞いて周りも笑っていました。
目の前にいるひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも、昔はひとりひとりの人生で、そこから出会い、父親母親になった。
その娘さんが今はおばあちゃん、そしてお孫さんも母になり、ひ孫に囲まれているという、1日1日を休む事なく生きてきたからこその今。
「この撮影のために、この場所を選んだのかもしれません」
そう、伝えたのは冗談でもなく、この写真のイメージがあったからこそ、
今、ここで写真を残すことができたのだと思います。
車いすでも一緒に撮影に入る写真。
ずっと、このイメージは出来ていました。
このイメージがあったからこそ下関店はここに存在しています。
手をにぎること。側に寄り添うこと。目をみつめあうこと。
普段しなくなったようなことでも、この場所では小さなきっかけをつくることができます。
その感触を、その瞳を、その気持ちを、その命を忘れないように。
生きている、生きていく。
ひとひとりの存在がこの世界に突然出現したのではなくて、
人の生の上に生きているということを、家族を通して気がつくことがあります。
誰一人かけていても、わたしはきっといなかった。
この世界に生きている「わたし」ひとりひとりが、ひとりではなく生きているということ。
生きてきた。あなたと生きてきた。
その光景が目の前にある奇跡。
いつも今が一番美しい。
そう感じた撮影でした。
shimonoseki
kawano yoh
早く時間が過ぎないものか、早くこの状況から抜け出せないかと、
今を受け入れられずに、すぐそこにある明日に臆病になるような、
そんな時期があったことがあります。
10代の頃、自分が学生ではなくなり、社会人となり仕事をして
いつか家庭を持ち、人の親となり、20代、30代、40代を迎えるという、
自分の人生というもの、将来というものを想像しては、
なかなか想像がつかず、どうすればいいのだろうと思うばかりでした。
目の前にいる、人、人、人間という人間が、何食わぬ顔で歩いていても生きている。
全ての人に、人生があるのだとそこらじゅうを眺めて思っては、
みんなよくまっすぐに生きてるな、と感じるばかりで、
この世界でどのように生きていきたいという明確な希望が持てずにいました。
いつしか「早くばあちゃんになりたい」、そう口にするようになり、
自分がどうしたいかは分からないけど、生きていたいという気持ちだけはあるという慢心ばかりであったと、今思うと恥ずかしさしかありません。
ばあちゃんは、ただ生きていたのではなく、確実に生きてきた人だったのだと、今だからこそ思います。
わたしはわたしが生まれてきてから出会った祖母という姿しか知らず、
その楽しげに笑う一面しか見ていませんでしたが、
時折話してくれる昔話から、生まれて間もなく実の母親が亡くなったこと、
親が再婚してから歳の離れた兄弟が3人できて母親同然に面倒を見てきたこと、
戦争中は赤痢にかかって死ぬ寸前だったこと、命を救ってくれた女医の先生の名前を70年経った今でも覚えていること、
ずっと貧乏で働き詰めだったことなど、わたし自身が億劫になったりしている日々よりも
遥かに苦労も挫折も耐えられなくなりそうな人生を経験し、
それでも今の祖母になるまで1分1日1年、時間を飛び越すことなく、
現実から逃げることなく生き続けたからこそ、いつも寛容に笑っていられたのだと思い知りました。
そしてまた、今だからこそ分かったことがあります。
人との出会いがあったからこそ、生きてこれたのではないかと。
数々の苦労も、その時々に出会った人との支え合いの中で諦めずに生きてきたのだと、
人々の中に残る祖母の話を聞いているとより強く感じることができ、
同時に自分自身でもそう思えたからこそ10代の頃の迷いは今、なくなっています。
10代から20代になり、次第に自分自身のやりたいことよりも、この人生の中でやるべきことを想像しながら、自分の人生をどのように使うのか、どうすれば役に立てるのかを考えていると、
次第に同じような意志を持つ人達と出会うようになり、考えや行動を共にする中で、
まだまだやることはあると思うようになりました。
下関店がオープンしてから半年が経ちました。
下関店のこの場所は、去年の12月、下関中の物件探しをしている時に直感ですぐに決めました。
社長もまだ店の中を見ていない時に、です。
•まちの中にあること
•こどもたちの通学路にあること
写真館という店、そしてこの場所があるからこそ出来ること、したいことを考えた上での自分なりの条件だったのですが、もうひとつ条件がありました。
•おじいちゃんおばあちゃん、家族みんなで来れる場所
だから、他にも見ていた入口が二階にある物件はやめました。
通路の狭い物件もやめました。
ワンフロアにできて、車いすでも入って撮影できる場所だと思い、今のこの物件に決めたのです。
いつまでも祖母が元気でいてくれると思っていました。
だから、わたしは写真を仕事にしているのにも関わらず、祖母とその家族の写真を改めて撮ったことがありませんでした。
それが大きな後悔に変わり、叶わない願望にもなりましたが、
出来ることなら親子だけでなくおじいちゃんおばあちゃんも含めた家族写真を残してほしいという気持ちになったのです。
「一生懸命に生きてきた人たちの生を、繋いでいくこと」
改めてわたしの命題になりました。
今では、下関店での撮影の半分くらいはおじいちゃんおばあちゃんが来ているのではないかというくらいです。
その多くは、下関から離れたご家族が帰省のタイミングで、なかなか会えないおじちゃんおばあちゃんと写真が撮りたいという希望からです。
そんな下関店の9月のある日。
下関に住むひいおじいちゃんひいおばあちゃんと一緒に撮影がしたいとのことで、
東京からおばあちゃん、そのこどもさんたち、そしてお孫さん計7名が帰省をし、9名でご来店されました。
すごく不思議な縁で、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんは、
スタジオのあるこの町で生まれ育ち、おばあちゃんも小学生までここで過ごしていたそうです。
どこで生まれて、この町は昔は一番栄えていた、正月はあそこでたくさん買い物をして…、この町で過ごしたたくさんの思い出が湧き出ます。
お子さんたちと別々にスタジオに来たので、昔話を30分ほどしたのでしょうか。
わたしが知っているこの1年足らずの上新地の町の、80年前の景色が浮かぶようでした。
ひいおばあちゃんへ撮影中に投げかけた「むすめさんはどんなお子さんでしたか?」という質問に昔を思い出してこわばった顔が笑顔になり話をしてくれた瞬間が忘れられません。
おばあちゃんのこども時代を聞いて周りも笑っていました。
目の前にいるひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも、昔はひとりひとりの人生で、そこから出会い、父親母親になった。
その娘さんが今はおばあちゃん、そしてお孫さんも母になり、ひ孫に囲まれているという、1日1日を休む事なく生きてきたからこその今。
「この撮影のために、この場所を選んだのかもしれません」
そう、伝えたのは冗談でもなく、この写真のイメージがあったからこそ、
今、ここで写真を残すことができたのだと思います。
車いすでも一緒に撮影に入る写真。
ずっと、このイメージは出来ていました。
このイメージがあったからこそ下関店はここに存在しています。
手をにぎること。側に寄り添うこと。目をみつめあうこと。
普段しなくなったようなことでも、この場所では小さなきっかけをつくることができます。
その感触を、その瞳を、その気持ちを、その命を忘れないように。
生きている、生きていく。
ひとひとりの存在がこの世界に突然出現したのではなくて、
人の生の上に生きているということを、家族を通して気がつくことがあります。
誰一人かけていても、わたしはきっといなかった。
この世界に生きている「わたし」ひとりひとりが、ひとりではなく生きているということ。
生きてきた。あなたと生きてきた。
その光景が目の前にある奇跡。
いつも今が一番美しい。
そう感じた撮影でした。
shimonoseki
kawano yoh
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