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下関店
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こどもたちの写真
投稿日:2014/10/27
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こどもたちは、
いつもおとなたちの真似をしようとしているように見えます。
全身で、全神経で、何かを感じて受け止めている。
そこからどこに向かっていくのかを、
きっと本能で掴んで、人と人の間で、
またひとりの人になっていくんだろうと、
こどもたちの姿を見ていると思います。
撮影中にインテリアのカメラを手渡すと、
たしかにそれってもう飾りみたいなものだから動かないし、撮れないし、
昔のカメラだからデジカメみたいに画面はないし。。。
でも、なんだかみんな、撮ろうとしてくれるんですよね。
真似して、ちっちゃいファインダーを覗いて。
わたしはちっちゃいファインダーから、外の世界を見るのが楽しくて、
雰囲気に合わせて露出を調整するのにもたつくのも笑えて、
限り有るフィルムで撮ることに切なくなりながらも、
限りなくどこでシャッターを切るかを考えるのが好きです。
と言っても、最後は衝動の場合も多いですけど。。。
最近は、携帯でもデジカメでも、カメラが考えてくれてシャッターを押せば、
簡単で綺麗に写真が撮れて、36枚とかよりももっともっと撮れるし、
その後もすぐに画像も見れるいい時代だとも思います。
なんだかんだ、わたしもiPhoneばっかで撮ってますけど。。。
それでもフィルムで撮った写真を、いつもの写真屋さんに持って行って、
数日待って、プリントを手で触っている、その時間が、
もう一度、その大切な時間を思い出す時間にもなるから、
だいたいカメラを持って行くときはフィルムのカメラを持って行きます。
でも最近は、そのフィルムカメラをこどもたちに貸しています。
わたしが持ってると、尋常じゃない勢いで撮りたがるので。。。
もう5歳以上になるとすぐに覚えるんですね。。。
というか、難しいくらいの方がおもしろく感じるのかも知れません。
一応、露出だけはわたしが調整するんですけど、(10歳の男の子は調整せずに自分でやってました)
マニュアルフォーカスも合わせて、おもしろい場面を切り取ってきて、
ちゃんと残り何枚かを数えてて。
考えて、でも楽しんで全開で、わたしなんかより、全然目をみはる写真を撮ってきます。
まずは感じて見る、見て感じる、撮りたいものを撮る、
そんなことから全てが始まるんだという、
一番シンプルなところに戻ってきます。
ということで、いつもの写真屋でインスタントカメラがなぜだか400円で激安だったので
4つ買って、この前の湘南店のBBQに持って行きました。
マニュアルのカメラよりも簡単だから、もっとちっちゃい子でも、
画面がなくてすぐ見れない変なカメラに触れる機会だと思いつつ。
カメラを渡して、好きに撮ってきていいよーって言ったら。
案の定、小学生組も、どうやるか分からん!って言うし、
かと思ったら、隣で2歳の女の子が構えて撮ってるし、
撮り方が分かった子たちはどんどん撮っていくしで、
途中やっぱり取り合いみたいになってしまったけど、
譲り合いながら、思い思い動き回り、時には「こっち向いて」って言われながら、
あっという間にみんな全部撮り終わっていました。
何を撮ったのかなんて、撮った本人しか分からない。
でも現像してから、これを撮ってたんだなってまた見るのが楽しい。
なんでこれ撮ったんだろうっていうのが、
なんでって言っても、なんでになる。
こどもたちのそういう感性が垣間見える写真たち。
こどもが撮るこどもは、無愛想。
(お互いかなりフラットに見つめあってる)
こどもが撮るとおとなは、笑う。
(さすがだよなー)
こどもたちの視野の低さからの、切り抜くポイント。
(いつもここから世界を見てるんだなー)
ちなみにネガをデータにも起しましたが、比べものにならないくらい、
やっぱりプリントしたものの方が色彩や質感があっていいなーっと思いました。
こどもたちが、おとなを見上げるとそこには青空がありました。
なんだかその青が無性に綺麗で、
なんだかよく分からないけど、感動してしまいました。
それと同時に、こどもたちが見ているおとなたちの姿を考えました。
こどもたちの視線の先に、この青い空がいつでも見えるような、
そんな人でありたいと、しばらくの間そんなことを考えていました。
毎日を過ごしていると、見ているようで見れていないこともあって。
いつでも楽しいわけじゃないし、いつでも笑っていられるわけでもありません。
胸が痛くなるようなことばかりで、何かがどんどん歪んでいっているような、
それは気のせいでもなく、確実に進行しているものもあるように感じます。
なのに、こどもたちの見ている世界はこんなにも綺麗なんだと思った時に、
偽りではなく、本当の意味でこの世界を見ていくこと、
見るだけじゃなくて引き継いでいく責任があるのだと思っています。
だとしたら必要なのは、おとなたちがこどもたちを見るだけではなく、
おとなたち自身をもう一度見直すところから始まるのかも知れません。
そもそも、わたしはいつも何を見ていたのか。
色々なことから目を逸らしている気が、わたし自身あるように、
こどもたちの写真を見ながら感じました。
いつもこどもたちに見られていることを忘れてはいけないなと思うものです。
カメラはもう今では100年前と全く違う環境を得て、一家に1台どころか、
携帯も含めるとすべての大人たち、そして小中高、学生たちも含めると、
膨大な写真やデータがこの世界を行き交っているのも事実であります。
良い面もあれば、見たくないものでも目に入ってしまう機会もあり得るようになった今、
改めて写真というもの、今という存在の尊さについての感性、何を見つめ何を残すのか、
いつもこどもたちと対峙しているとき、教えてもらっているように感じています。
目に見るよりも青い空が、気づかせてくれたもの。
お互いをよく見ること、それも、写真だけではなく大切なこと。
いつもおとなたちの真似をしようとしているように見えます。
全身で、全神経で、何かを感じて受け止めている。
そこからどこに向かっていくのかを、
きっと本能で掴んで、人と人の間で、
またひとりの人になっていくんだろうと、
こどもたちの姿を見ていると思います。
撮影中にインテリアのカメラを手渡すと、
たしかにそれってもう飾りみたいなものだから動かないし、撮れないし、
昔のカメラだからデジカメみたいに画面はないし。。。
でも、なんだかみんな、撮ろうとしてくれるんですよね。
真似して、ちっちゃいファインダーを覗いて。
わたしはちっちゃいファインダーから、外の世界を見るのが楽しくて、
雰囲気に合わせて露出を調整するのにもたつくのも笑えて、
限り有るフィルムで撮ることに切なくなりながらも、
限りなくどこでシャッターを切るかを考えるのが好きです。
と言っても、最後は衝動の場合も多いですけど。。。
最近は、携帯でもデジカメでも、カメラが考えてくれてシャッターを押せば、
簡単で綺麗に写真が撮れて、36枚とかよりももっともっと撮れるし、
その後もすぐに画像も見れるいい時代だとも思います。
なんだかんだ、わたしもiPhoneばっかで撮ってますけど。。。
それでもフィルムで撮った写真を、いつもの写真屋さんに持って行って、
数日待って、プリントを手で触っている、その時間が、
もう一度、その大切な時間を思い出す時間にもなるから、
だいたいカメラを持って行くときはフィルムのカメラを持って行きます。
でも最近は、そのフィルムカメラをこどもたちに貸しています。
わたしが持ってると、尋常じゃない勢いで撮りたがるので。。。
もう5歳以上になるとすぐに覚えるんですね。。。
というか、難しいくらいの方がおもしろく感じるのかも知れません。
一応、露出だけはわたしが調整するんですけど、(10歳の男の子は調整せずに自分でやってました)
マニュアルフォーカスも合わせて、おもしろい場面を切り取ってきて、
ちゃんと残り何枚かを数えてて。
考えて、でも楽しんで全開で、わたしなんかより、全然目をみはる写真を撮ってきます。
まずは感じて見る、見て感じる、撮りたいものを撮る、
そんなことから全てが始まるんだという、
一番シンプルなところに戻ってきます。
ということで、いつもの写真屋でインスタントカメラがなぜだか400円で激安だったので
4つ買って、この前の湘南店のBBQに持って行きました。
マニュアルのカメラよりも簡単だから、もっとちっちゃい子でも、
画面がなくてすぐ見れない変なカメラに触れる機会だと思いつつ。
カメラを渡して、好きに撮ってきていいよーって言ったら。
案の定、小学生組も、どうやるか分からん!って言うし、
かと思ったら、隣で2歳の女の子が構えて撮ってるし、
撮り方が分かった子たちはどんどん撮っていくしで、
途中やっぱり取り合いみたいになってしまったけど、
譲り合いながら、思い思い動き回り、時には「こっち向いて」って言われながら、
あっという間にみんな全部撮り終わっていました。
何を撮ったのかなんて、撮った本人しか分からない。
でも現像してから、これを撮ってたんだなってまた見るのが楽しい。
なんでこれ撮ったんだろうっていうのが、
なんでって言っても、なんでになる。
こどもたちのそういう感性が垣間見える写真たち。
こどもが撮るこどもは、無愛想。
(お互いかなりフラットに見つめあってる)
こどもが撮るとおとなは、笑う。
(さすがだよなー)
こどもたちの視野の低さからの、切り抜くポイント。
(いつもここから世界を見てるんだなー)
ちなみにネガをデータにも起しましたが、比べものにならないくらい、
やっぱりプリントしたものの方が色彩や質感があっていいなーっと思いました。
こどもたちが、おとなを見上げるとそこには青空がありました。
なんだかその青が無性に綺麗で、
なんだかよく分からないけど、感動してしまいました。
それと同時に、こどもたちが見ているおとなたちの姿を考えました。
こどもたちの視線の先に、この青い空がいつでも見えるような、
そんな人でありたいと、しばらくの間そんなことを考えていました。
毎日を過ごしていると、見ているようで見れていないこともあって。
いつでも楽しいわけじゃないし、いつでも笑っていられるわけでもありません。
胸が痛くなるようなことばかりで、何かがどんどん歪んでいっているような、
それは気のせいでもなく、確実に進行しているものもあるように感じます。
なのに、こどもたちの見ている世界はこんなにも綺麗なんだと思った時に、
偽りではなく、本当の意味でこの世界を見ていくこと、
見るだけじゃなくて引き継いでいく責任があるのだと思っています。
だとしたら必要なのは、おとなたちがこどもたちを見るだけではなく、
おとなたち自身をもう一度見直すところから始まるのかも知れません。
そもそも、わたしはいつも何を見ていたのか。
色々なことから目を逸らしている気が、わたし自身あるように、
こどもたちの写真を見ながら感じました。
いつもこどもたちに見られていることを忘れてはいけないなと思うものです。
カメラはもう今では100年前と全く違う環境を得て、一家に1台どころか、
携帯も含めるとすべての大人たち、そして小中高、学生たちも含めると、
膨大な写真やデータがこの世界を行き交っているのも事実であります。
良い面もあれば、見たくないものでも目に入ってしまう機会もあり得るようになった今、
改めて写真というもの、今という存在の尊さについての感性、何を見つめ何を残すのか、
いつもこどもたちと対峙しているとき、教えてもらっているように感じています。
目に見るよりも青い空が、気づかせてくれたもの。
お互いをよく見ること、それも、写真だけではなく大切なこと。
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