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下関店
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girl*つづきの話
投稿日:2014/9/1
1296 0
自分が自分で思っているよりも、美しい自分を発見すること。
美しさに気づくこと。
それが、第3者が介入する写真だからこそ実現するものであると思っています。
自分がどのように見えているのか、存在しているのか。
普段過ごしていると、そこまで意識するものではないかも知れませんが、
こうしてスタジオにいらっしゃっていただくと、それこそが目的にもなります。
「人」を撮影する時、上からも下からも右からも左からも、よく観察すると見えてくるものがあります。
注意深く探す目のことを蛇の目という言い方もしますが、
写真を撮る側の場合も、コーディネーターである場合でも、常にその目を意識しながら撮影に臨みます。
また顔に現れる凹凸や表情だけでなく、その人、個人個人の言葉ひとつにおける反応や歩き方、体の固さや綺麗に見えるラインなども、撮影の中で動きながら見つけてもいくものになります。
今回の撮影も、コーディネーターの佐々木さんの存在の大きさったらなかったです。
肌の色に合わせて、ちょっとチークを塗ってもらったり、髪の流れを整えてくれたり、さすがなのです。
人を撮っているからこその興味深さと難しさを、
写真を始めた頃からいつも感じています。今でもです。
わたしは、誰をどのように撮りたいのか。
撮影で発見しながら気づいていくことを紡ぎ、
その都度、足、腰、肩、顔の向きを調整しながら、
口は閉じるのか開けるのか、笑うのか微笑みなのか、そういった細かい部分に結びつくには何をどうすればいのか、
一番良いと思える状態に誘導しながら瞬間に人という美しさを捉えて写すこと。
そういったことを、ハーフ成人式を行っている青葉店でまた更に学んだように思います。
そんな中で求められるクオリティと、自分自身の求める撮影を併せて考えた時、
何かがまだ自分の中でずっと引っかかっていました。
確かに調整されて整った写真の美しさというものを提供することは必要です。
ただ、全てを誘導しすぎるのではなく、わたしの中でのずっと課題であった「遠い」写真のことを考えていました。
ずっと、ずっと遠くにいるような。
目線はあるけど、見えているのか見えていないのか、不確かなもの。
遠い写真。第3者でも介入できない範囲。
その人が、ただ、その人であるという事実。
「関係しているけど、関係していない」そんな写真を、撮影の中でどう表現するかをずっと考えていたように思います。
それが何を意図しているのかといえば、形と形の間にある、時間と時間の間にある、素性というものでもあるのですが、
それはまだずっと追求しなければならないものだとも思っています。
その写真が最後の1枚になるのですが、これは遠くにカーテンを引いて、レンズ全てを覆った状態で撮影したものです。
被写体の近くにカーテンがあればそのままでも撮れるのですが、これは遠くからカメラ側にカーテンがあったので、マニュアルフォーカスで撮らざるを得ませんでした。
それでも撮りたいと思ったものは、届くか届かないかの距離から、1枚の壁の向こうにいる人、でした。
それは、誰でもなく、あなたであり、ただそれだけが撮れればよかった。
最後の1枚の後に、背筋を伸ばしたり、顔の角度を変えたり、ポーズを入れたりしました。
(最後から2番目のものなど。)
しかし、最後の1枚が、はじまりの1枚でもありました。
決して、意図して調整をして伝え整えた写真ではないですが、この1枚をずっと追求していたように思います。
自分の中で、あまり指示を出しすぎたくないというものがありましたが、
まったく指示がないというのも無責任となり、その必要性を感じています。
いつも必要なのは、その人、その人に合わせた加減、距離感なのではないでしょうか。
遠くから、はじめていくこと。
そこから近づくこと、そしてまた離れていくこと。
探す、というのは、その繰り返しだと思います。
愛とは何かを問われた時、わたしは「関係しているけど、関係していないこと」だと答えました。
自分で言っておきながら、まだその答えが何かを探しています。
美しさに気づくこと。
それが、第3者が介入する写真だからこそ実現するものであると思っています。
自分がどのように見えているのか、存在しているのか。
普段過ごしていると、そこまで意識するものではないかも知れませんが、
こうしてスタジオにいらっしゃっていただくと、それこそが目的にもなります。
「人」を撮影する時、上からも下からも右からも左からも、よく観察すると見えてくるものがあります。
注意深く探す目のことを蛇の目という言い方もしますが、
写真を撮る側の場合も、コーディネーターである場合でも、常にその目を意識しながら撮影に臨みます。
また顔に現れる凹凸や表情だけでなく、その人、個人個人の言葉ひとつにおける反応や歩き方、体の固さや綺麗に見えるラインなども、撮影の中で動きながら見つけてもいくものになります。
今回の撮影も、コーディネーターの佐々木さんの存在の大きさったらなかったです。
肌の色に合わせて、ちょっとチークを塗ってもらったり、髪の流れを整えてくれたり、さすがなのです。
人を撮っているからこその興味深さと難しさを、
写真を始めた頃からいつも感じています。今でもです。
わたしは、誰をどのように撮りたいのか。
撮影で発見しながら気づいていくことを紡ぎ、
その都度、足、腰、肩、顔の向きを調整しながら、
口は閉じるのか開けるのか、笑うのか微笑みなのか、そういった細かい部分に結びつくには何をどうすればいのか、
一番良いと思える状態に誘導しながら瞬間に人という美しさを捉えて写すこと。
そういったことを、ハーフ成人式を行っている青葉店でまた更に学んだように思います。
そんな中で求められるクオリティと、自分自身の求める撮影を併せて考えた時、
何かがまだ自分の中でずっと引っかかっていました。
確かに調整されて整った写真の美しさというものを提供することは必要です。
ただ、全てを誘導しすぎるのではなく、わたしの中でのずっと課題であった「遠い」写真のことを考えていました。
ずっと、ずっと遠くにいるような。
目線はあるけど、見えているのか見えていないのか、不確かなもの。
遠い写真。第3者でも介入できない範囲。
その人が、ただ、その人であるという事実。
「関係しているけど、関係していない」そんな写真を、撮影の中でどう表現するかをずっと考えていたように思います。
それが何を意図しているのかといえば、形と形の間にある、時間と時間の間にある、素性というものでもあるのですが、
それはまだずっと追求しなければならないものだとも思っています。
その写真が最後の1枚になるのですが、これは遠くにカーテンを引いて、レンズ全てを覆った状態で撮影したものです。
被写体の近くにカーテンがあればそのままでも撮れるのですが、これは遠くからカメラ側にカーテンがあったので、マニュアルフォーカスで撮らざるを得ませんでした。
それでも撮りたいと思ったものは、届くか届かないかの距離から、1枚の壁の向こうにいる人、でした。
それは、誰でもなく、あなたであり、ただそれだけが撮れればよかった。
最後の1枚の後に、背筋を伸ばしたり、顔の角度を変えたり、ポーズを入れたりしました。
(最後から2番目のものなど。)
しかし、最後の1枚が、はじまりの1枚でもありました。
決して、意図して調整をして伝え整えた写真ではないですが、この1枚をずっと追求していたように思います。
自分の中で、あまり指示を出しすぎたくないというものがありましたが、
まったく指示がないというのも無責任となり、その必要性を感じています。
いつも必要なのは、その人、その人に合わせた加減、距離感なのではないでしょうか。
遠くから、はじめていくこと。
そこから近づくこと、そしてまた離れていくこと。
探す、というのは、その繰り返しだと思います。
愛とは何かを問われた時、わたしは「関係しているけど、関係していないこと」だと答えました。
自分で言っておきながら、まだその答えが何かを探しています。
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