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下関店
scrollable

投稿日:2014/5/6

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なんでいつも手を見ているのか
 
そう言われなければ、自分の癖には気がつかなかったかもしれない。
たしかに。
ふとした時、いつも手を見る癖がある。
 
なにかを、確かめてるんだと思う
 
そう応えたような気がする。
何か考えている時、何も考えたくない時、
そのどちらとも。
 
 
多分、ずっと昔から。
 
小さな頃からいつもずっと手を見ていた。
握ってみたり、重ねてみたり。
なんで動くのかをずっと見ては、
指をひとつずつ曲げ、小指は1本で曲がらないことが不思議だった。
人差し指曲がれ、と頭の中で唱えても、薬指を曲げられる。
曲がるな、と唱えても容易く曲がる。
だから、言葉があっても思考が別の指令を出せるのだと、
言葉だけではきっとたいしたことないのだと、
なんとなく思った。
動くのか動かされるのか動いているのか動いてしまうのか。
言葉と思考、なんというか、精神という不思議。
想像は何かを超えて、怖さを感じた。
存在という、信じたくても不確実の恐れのような。
 
いつも自分で自分を見れる範囲は手ぐらいしかないからか。
手を見ているのかもしれない。
今日も、動いている。
今日も、同じ。
その不思議は未だに変わらない。
自分は自分でしかないことを確かめる。
でもその反面、自分は、本当は自分じゃないんじゃないか。とも考えてしまう。
曲がってしまった左手の指のせいで、
歪んでしまう音に悩んでいた頃は、
明日には、もしかしたら変わっているかもしれない、と思ったりもした。
でもいつも、変わらなかった。
そういうものか、と諦めた。
 
海は触れるのに、空は触れない。
触れられるものと触れられないもの。
触りたいと思うものと、
触りたくないと思ってしまうものすらある。
 
その差は何なのか。それもまた、不思議なもので。
なんでそう思うのか。なんでそう感じるのか。
可能と不可能の違いは何なのか。
手を見ながら、考えてみる。
 
あの日も。
自分の手を見ていた。
重ねた手と見比べていた、静かな時間。
わたしがわたしであることは、
わたしが生まれる前の生から引き継がれた生であることへの確信となった。
愛する人と同じ血が流れていることを、確かめていた。
似ている手。
1ヶ月前は触れられていたのだと思うと、
今でもまだ受け入れられないものもある。
多くの後悔と多くの感謝を。
 
大きくて、いびつで、
働き詰めが現れているような、祖母の手。
今はもう触れられずとも、祖母の面影が残る自分の手を。
重ねて想っています。
海から空へ。
 

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