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下関店
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cambodia
投稿日:2014/2/21
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生きている中で、
どれだけのきっかけや出会いがあるのか。
そういうことを考えずにはいられないほど、
様々な状況はそれぞれにあるけれど、
わたしたちはひとりひとり、
生まれて、生活する中で、常に何かを感覚器を通して入れ、それらが感情や判断や選択、そんな連続の中で出ていく過程の中で、生きていっているのはないでしょうか。
きっかけと呼び、出会いと呼び、経験と呼び、知識と呼び。
常に関わりを持ち、生存しているが故の葛藤を含め、感じ考えながら過ごしているようにも思えます。
70億という人間と、それ以上の生態系や自然が共存する世の中で、
何が良い、何が悪い、と単に言えるような答えはあるようでなく、
ただできることと言えば、まずは身近なところから、わたしはなぜそう考えるのかを常に探していくことが現段階で自分自身の課題にもなっています。
湘南店の朴社長が取り組むプロジェクトのひとつであるカンボジアへの支援のことを知ったのが湘南店がオープンして半年ほど経った時のことでした。
実際にその活動は湘南店をオープンする前から取り組んでいたことであることも知り、社長が行ってきた事業の中でカンボジアの人が自立し生活するための職業訓練支援をしているということ。
色々と書くと長くなるのですが、目的は人(と書くととても抽象的に思われるかもしれませんが)であり、この世界の中で人や社会を考えた時に、人としての権利や様々な機会を平等に持つことがもっとできるのではないかということを基本に、自分たちにできることからはじめようということでした。
なぜカンボジアなのか、というのも、そこで活動している人と関わりがあったという社長自身のきっかけであり、そのきっかけが現在わたしたちにもつながっているということで、湘南店では現在、カンボジアの村への生活や職業支援の為の寄付と、訪問を去年より行っています。
2013年の2月の終わりから湘南店がカンボジア研修に行ってから、間もなく1年が経ちます。
電気や水道のない村に行きこどもたちの体を洗ったり、お客様や他店舗からも協力をいただいた洋服を寄付したり、小学校のレクレーションに参加したりという時間を過ごしました。
まだまだライフラインや町もそこまで整備されてはいなかったのですが、トゥクトゥクで町を通るたびに暮らす空気感というものを心地よくも感じました。
しかしその歴史の中には、度重なる政権の崩壊や不条理な大虐殺を経た記憶を持ちながらの生きている人たちが今の町を作っているのだということも知りました。
トゥクトゥクのおじさんは、年齢的にきっとあのクメールルージュ時代の生き残りで、きっと死んでいく人も見たのだろうけど、なんであんなに笑ってるんだろう、、、と思ったものでした。
そして、なによりも町中で遊ぶこどもたちの二極化が明確に見えたことを鮮明に覚えています。
純粋な目をして笑いながら川に飛び込んでいくこどもたち、その反対に、薄暗い裏道で明らかに袋をすっている小さなこどもたち。
1ドルを乞う母親と赤ちゃんがわたしたちの車の窓ガラスを叩く、そのすぐ側では盛大な結婚式。
光と陰のコントラストが強かった思い出。
今まで行った海外でもあった光景ですが、カンボジアは激動の中の激動をこの数十年間の中で歩んできたということを、歴史や現状を学んでいく中で体感しました。
何が普通で、何が良いのか、価値観は様々であるけれど、人として生きるということがなんであるのか。
価値観は様々であっても、そこに普遍的な価値がある時、平等な平和を望む時、わたしたちは世界観に目をむけなければならないということを、カンボジアで今こそ必要なのは、ひとりひとりの意志が持てる環境、武力ではなく民主的な公正な選挙である、と地道に、そして情熱的に活動をしていたナカタアツヒトさんという日本人を通し感じたことでもあります。
カンボジアは2013年の7月に選挙がありました。
その選挙結果や内容についてはある程度離れた日本でも情報は得られましたが、結果に対して民主化を本当の意味で理解し求めない限りは実現までは遠いのだろうと、私自身の現状もふまえ感じたものでした。
来週、実際にまた現地を訪れどのような変化が1年であったか、人々の暮らしの中でどのような会話が出来るのか、帰ってくるときに感じられるものを通し、日本のこと、自分自身にも目を向けていかなければならないとも思っています。
と、長くはなりましたが、そんなことをレポートにまとめていたところで、
湘南店の菅原さんからこの内容にレスポンスがありました。
もうすぐ1年かあ。
こちらもいろいろありましたが、カンボジアでもいろいろな変化があるでしょうね。
ここ最近は空前の日本ブーム到来で日本企業が30社くらい増えたという情報も聞きました。
情勢の移り変わりとともに、国としても自立に向かっていきながら
そうする間に外交も深まっていく。
国際社会の中に積極的に入り込むことが国にとって良い面とそうでない面を併せ持つような気がするけど、
そうして国が成り立つのなら、国は何を守って残していくのかって
そういうことがきちんと民意を汲んで判断できるかどうかがとっても大切になるんだろうなって思います。
そもそも民意や意思を持てるかどうかが今はまだ課題かも知れないけど。
だから教育って必要なんでしょうね。
知識がないがため、モラルができていないがために命が失われたり傷つく子どもが少しでも減ってほしいと願います。
昨年も思ったけど、私たちにできることは少しのことだけど、
目の前にいる人が笑ってくれたらいいなと思うし、
それには誠意を持ちたい。
このメッセージにじんときた、というのが、今回のblogの内容なんですが。。。
(レポ部分なくてもいいか、とも思ったんですけど、何の話やらになってしまうので載せただけで。)
偽善だとか、非力だとか、無意味だとか、この世の中にはたくさんの事に対してたくさんの非難があるかもしれないけど。
善が何か、力が何か、意味が何か、ちゃんと意志を持って説明できるように、
あたりだろうがハズレだろうが、考えを持てるようになっていきたいとも思います。
そんなことを、考えるようになったのも、きっかけがあっただけで。
何年先を見ていくか。それは夢じゃなくて、現実で。
そんなことを思いながら、ただ、目の前の人の笑顔が見たいって想い。
同じ気持ちでいれる仲間と、おなかに注意してカンボジアへ行ってきます。
どれだけのきっかけや出会いがあるのか。
そういうことを考えずにはいられないほど、
様々な状況はそれぞれにあるけれど、
わたしたちはひとりひとり、
生まれて、生活する中で、常に何かを感覚器を通して入れ、それらが感情や判断や選択、そんな連続の中で出ていく過程の中で、生きていっているのはないでしょうか。
きっかけと呼び、出会いと呼び、経験と呼び、知識と呼び。
常に関わりを持ち、生存しているが故の葛藤を含め、感じ考えながら過ごしているようにも思えます。
70億という人間と、それ以上の生態系や自然が共存する世の中で、
何が良い、何が悪い、と単に言えるような答えはあるようでなく、
ただできることと言えば、まずは身近なところから、わたしはなぜそう考えるのかを常に探していくことが現段階で自分自身の課題にもなっています。
湘南店の朴社長が取り組むプロジェクトのひとつであるカンボジアへの支援のことを知ったのが湘南店がオープンして半年ほど経った時のことでした。
実際にその活動は湘南店をオープンする前から取り組んでいたことであることも知り、社長が行ってきた事業の中でカンボジアの人が自立し生活するための職業訓練支援をしているということ。
色々と書くと長くなるのですが、目的は人(と書くととても抽象的に思われるかもしれませんが)であり、この世界の中で人や社会を考えた時に、人としての権利や様々な機会を平等に持つことがもっとできるのではないかということを基本に、自分たちにできることからはじめようということでした。
なぜカンボジアなのか、というのも、そこで活動している人と関わりがあったという社長自身のきっかけであり、そのきっかけが現在わたしたちにもつながっているということで、湘南店では現在、カンボジアの村への生活や職業支援の為の寄付と、訪問を去年より行っています。
2013年の2月の終わりから湘南店がカンボジア研修に行ってから、間もなく1年が経ちます。
電気や水道のない村に行きこどもたちの体を洗ったり、お客様や他店舗からも協力をいただいた洋服を寄付したり、小学校のレクレーションに参加したりという時間を過ごしました。
まだまだライフラインや町もそこまで整備されてはいなかったのですが、トゥクトゥクで町を通るたびに暮らす空気感というものを心地よくも感じました。
しかしその歴史の中には、度重なる政権の崩壊や不条理な大虐殺を経た記憶を持ちながらの生きている人たちが今の町を作っているのだということも知りました。
トゥクトゥクのおじさんは、年齢的にきっとあのクメールルージュ時代の生き残りで、きっと死んでいく人も見たのだろうけど、なんであんなに笑ってるんだろう、、、と思ったものでした。
そして、なによりも町中で遊ぶこどもたちの二極化が明確に見えたことを鮮明に覚えています。
純粋な目をして笑いながら川に飛び込んでいくこどもたち、その反対に、薄暗い裏道で明らかに袋をすっている小さなこどもたち。
1ドルを乞う母親と赤ちゃんがわたしたちの車の窓ガラスを叩く、そのすぐ側では盛大な結婚式。
光と陰のコントラストが強かった思い出。
今まで行った海外でもあった光景ですが、カンボジアは激動の中の激動をこの数十年間の中で歩んできたということを、歴史や現状を学んでいく中で体感しました。
何が普通で、何が良いのか、価値観は様々であるけれど、人として生きるということがなんであるのか。
価値観は様々であっても、そこに普遍的な価値がある時、平等な平和を望む時、わたしたちは世界観に目をむけなければならないということを、カンボジアで今こそ必要なのは、ひとりひとりの意志が持てる環境、武力ではなく民主的な公正な選挙である、と地道に、そして情熱的に活動をしていたナカタアツヒトさんという日本人を通し感じたことでもあります。
カンボジアは2013年の7月に選挙がありました。
その選挙結果や内容についてはある程度離れた日本でも情報は得られましたが、結果に対して民主化を本当の意味で理解し求めない限りは実現までは遠いのだろうと、私自身の現状もふまえ感じたものでした。
来週、実際にまた現地を訪れどのような変化が1年であったか、人々の暮らしの中でどのような会話が出来るのか、帰ってくるときに感じられるものを通し、日本のこと、自分自身にも目を向けていかなければならないとも思っています。
と、長くはなりましたが、そんなことをレポートにまとめていたところで、
湘南店の菅原さんからこの内容にレスポンスがありました。
もうすぐ1年かあ。
こちらもいろいろありましたが、カンボジアでもいろいろな変化があるでしょうね。
ここ最近は空前の日本ブーム到来で日本企業が30社くらい増えたという情報も聞きました。
情勢の移り変わりとともに、国としても自立に向かっていきながら
そうする間に外交も深まっていく。
国際社会の中に積極的に入り込むことが国にとって良い面とそうでない面を併せ持つような気がするけど、
そうして国が成り立つのなら、国は何を守って残していくのかって
そういうことがきちんと民意を汲んで判断できるかどうかがとっても大切になるんだろうなって思います。
そもそも民意や意思を持てるかどうかが今はまだ課題かも知れないけど。
だから教育って必要なんでしょうね。
知識がないがため、モラルができていないがために命が失われたり傷つく子どもが少しでも減ってほしいと願います。
昨年も思ったけど、私たちにできることは少しのことだけど、
目の前にいる人が笑ってくれたらいいなと思うし、
それには誠意を持ちたい。
このメッセージにじんときた、というのが、今回のblogの内容なんですが。。。
(レポ部分なくてもいいか、とも思ったんですけど、何の話やらになってしまうので載せただけで。)
偽善だとか、非力だとか、無意味だとか、この世の中にはたくさんの事に対してたくさんの非難があるかもしれないけど。
善が何か、力が何か、意味が何か、ちゃんと意志を持って説明できるように、
あたりだろうがハズレだろうが、考えを持てるようになっていきたいとも思います。
そんなことを、考えるようになったのも、きっかけがあっただけで。
何年先を見ていくか。それは夢じゃなくて、現実で。
そんなことを思いながら、ただ、目の前の人の笑顔が見たいって想い。
同じ気持ちでいれる仲間と、おなかに注意してカンボジアへ行ってきます。
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