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下関店
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Exhibition
投稿日:2014/2/21
1014 0
写真展HP
http://www.hakone-oam.or.jp/specials/2013/ichihashiorie/
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
メッセージ(HPより引用)
この10数年、
世界の様々な地と地の狭間を淡々と切り撮りながら
未だ出会っていない、これから出会う瞬間を
可能な限りの透明な眼で見ようとしてきた。
おそらくこの100点の作品の中のものたちは、
誰一人として今ここに写真が存在することを知らないだろう。
そしてその瞬間があったことさえ誰の記憶にも無いか
もしくは思い出すことなく
奥底に眠っているかもしれない。
今ここにあるのは、
10数年という月日の凝縮のようでいて
実は約3秒でしかないと知ったとき、
写真の儚さに改めて気づく。
市橋織江
------------------------------------------------------------------------------------------
もう、これだけで全てが伝わるわけです。
なおさら写真を見ると、この文章と全てが合致するのです。
市橋織江さんの写真が好きとかどうとかいうのではなくて、
わたしはこの人の写真に対する何かしらの冷静さにとても興味があるのです。
昔、1度だけ一緒に撮影に入ったことがありました。
学生の頃から市橋さんのことは知っていたから、
かなり緊張しつつ気合いを入れたものの、
スチールではなくCMの現場だったので、
ムービーカメラマンとしての彼女と関わる時間はほとんどありませんでした。
小柄でカメラに届いていないカメラマンの姿を見て、
今や!っと箱馬(足場)を持って行ったのですが、
その際にちゃんと目を見て大きくなく小さくもない声でありがとう、
と言ってくださったことを覚えています。
撮影中も、存在感がないことはないのですが、
あくまでも一体の中の一部という感じで静かに冷静に撮影を進めていっているような雰囲気でした。
もの静かで穏やかな人。そんな印象。
その頃もまぁまぁ有名でしたが、今はもう知らない人はいないんじゃないかってくらいになっていて、驚いてもいます。
彼女特有の色彩だったり柔らかさだったり、それでもなんだか冷たかったり、繊細で綺麗な、不思議な写真。
シアンがかったボケ味のある写真は、最近のカメラマンやアマチュアの中にも多く見られますが、市橋さんの影響も少なからずあるのではないかと思います。
でも、真似出来ないなって思いました。
彼女は彼女でしかなく、彼女のスタイルがあり、それが写真として存在する。
可能な限りの透明な眼
誰一人として今ここに写真が存在することを知らないだろう
今ここにあるのは、
10数年という月日の凝縮のようでいて
実は約3秒でしかないと知ったとき、
写真の儚さに改めて気づく。
これだけで鳥肌ものになるのは、なんでだろう。
誇張しているわけではなく、これが、この人の姿であり、写真であるということを、展示を通して目撃しているからでもあるかもしれません。
実は約3秒。
でもその3秒が永遠でもあるように。
写真が写真であるということ。
なぜ写真なのか。
儚さとか切なさとか。
そんなことを考えつつ。
客観的に事象を切り取るという市橋さんの写真。
展示空間で、限りなくひいた場所から写真を眺めていました。
(展示空間に誰もいなかったし。)
街、船、犬、ビーチ、車と人、海、森、果物、きのこ、、、
1枚1枚の写真を次から次に見ていったあと、それだけではなく、
この10数年という中で積み重なった写真たちをできるだけ多く視野に入れたかったから。
客観視(写真)を客観視(目視)する。
そうすることによって、なんとなく気づくことがありました。
奥まってゆく場所にある写真たちは、段々と緑が深まるように配置され、
箇所箇所に分かれて配置されている晴れた日の空の青はどれも同じような濃さの青。
きっと、この青が、彼女の中にある青なのかと思いながら。
100点という数の写真があるのにも関わらず、一貫性を持ち感じるのは、
撮り手と対象の承認(容認)というものが一切ないということ。
そこに映っている人は、とりわけカメラなどに気づいていないようでした。
だからきっと、誰しも今日ここで写真が展示されているなんて思いもしないだろうし、
知る由もない。
人物が写っていようが、それはあくまでも風景の一部にしか過ぎないように思える。
(逆に果物には接近していて不思議だった。
果物に感覚器あったら気づかれてるやろな、なんて。人には大抵気づかれてないのに。)
写真たちを見ながら感じたのは、ハービー山口さんの写真と人物を撮るタイプは反対かもしれないということでもありました。
ハービーさんは基本モノクロの写真で、町中で出会った人々とコミュニケーションを撮りながら目に力のある写真や、被写体の感情が見える写真を多く撮るようなイメージ。承認を得て、限りなく本心を映し出す。
おもしろいおっちゃんが写真を撮ってった、と被写体は思うだろうし、それがいつかハービーさんだと気づく。嫌な気はしない、だって、おもしろいおっちゃんだったし。みたいな感じに、ハービーさんの写真を見ると感じます。
そんな市橋織江さんと、ハービーさんが、12月にこの美術館で対談したというから、、、、あぁ、なんて機会を逃したんだろうと落胆しました。
まぁ、土曜日だったから、行けないんですけど。土曜日。。。
全くテイストの違う写真家ふたりが、写真を通してどのような会話をするのか、
想像するだけでおもしろくなります。
きっと、写真に対するテンションとか、向き合い方とかも違ってくるんだけど、
どっかで出会う共通点なんかもありそうで。
(Youtubeで検索しても出てこないだろうな、、、)
「感情が入らないように撮影する」
というのが、市橋さんのスタイル。透明の眼。
きっと、承認もなければ、対話(言葉としてのもの)さえもないだろう。
静かに、淡々と。
(無言の意思疎通はあるかもしれないですが)
重いRZを携えて、フィルムで切り取り続けた13年間。
なにかを掴み、なにかを紙に焼き付けている。
なにかは、世界。視野。真実。
ありのまま、以上に、儚く美しい。
全ての写真で、何かが際立っている。際立たせている。
それは、当たり前の毎日が、きっと美しいものだという証明。
気づかせられること。
わたしが感じる市橋織江さんの写真。
感情を入れないからといって、写真を撮る意志がないわけではない。
むしろ、その正反対である。
写真に対する真面目さは、語らずしもにじみ出ている。
それもこの人のすごいところでもある。
(全てのプリント手焼きらしいし。。。気が遠くなる。。)
その写真があるか、ないかで、
写真家だけではなく、その写真に出会う人の視界によって、
世界を感じられるものは変わっているんじゃないか、というくらいに感じることもある。自己満足ではないもの。
写真を写真たらしめるものは何か、最近も、ずっと前から、
そんなことばかり考えています。
切なくも儚い、その時間にかけながら。
願いでもあり、記憶でもある。
写真が好きだとか
人が好きだとか
あんまり口にして言ったことはないけれど。
好きとか嫌いとかでもなく、
好きとかでは言いくるめられない何かがある。
それが一体なんなのか、興味がある。
ただ、それだけなんだろうなと、また思った日。
http://www.hakone-oam.or.jp/specials/2013/ichihashiorie/
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メッセージ(HPより引用)
この10数年、
世界の様々な地と地の狭間を淡々と切り撮りながら
未だ出会っていない、これから出会う瞬間を
可能な限りの透明な眼で見ようとしてきた。
おそらくこの100点の作品の中のものたちは、
誰一人として今ここに写真が存在することを知らないだろう。
そしてその瞬間があったことさえ誰の記憶にも無いか
もしくは思い出すことなく
奥底に眠っているかもしれない。
今ここにあるのは、
10数年という月日の凝縮のようでいて
実は約3秒でしかないと知ったとき、
写真の儚さに改めて気づく。
市橋織江
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もう、これだけで全てが伝わるわけです。
なおさら写真を見ると、この文章と全てが合致するのです。
市橋織江さんの写真が好きとかどうとかいうのではなくて、
わたしはこの人の写真に対する何かしらの冷静さにとても興味があるのです。
昔、1度だけ一緒に撮影に入ったことがありました。
学生の頃から市橋さんのことは知っていたから、
かなり緊張しつつ気合いを入れたものの、
スチールではなくCMの現場だったので、
ムービーカメラマンとしての彼女と関わる時間はほとんどありませんでした。
小柄でカメラに届いていないカメラマンの姿を見て、
今や!っと箱馬(足場)を持って行ったのですが、
その際にちゃんと目を見て大きくなく小さくもない声でありがとう、
と言ってくださったことを覚えています。
撮影中も、存在感がないことはないのですが、
あくまでも一体の中の一部という感じで静かに冷静に撮影を進めていっているような雰囲気でした。
もの静かで穏やかな人。そんな印象。
その頃もまぁまぁ有名でしたが、今はもう知らない人はいないんじゃないかってくらいになっていて、驚いてもいます。
彼女特有の色彩だったり柔らかさだったり、それでもなんだか冷たかったり、繊細で綺麗な、不思議な写真。
シアンがかったボケ味のある写真は、最近のカメラマンやアマチュアの中にも多く見られますが、市橋さんの影響も少なからずあるのではないかと思います。
でも、真似出来ないなって思いました。
彼女は彼女でしかなく、彼女のスタイルがあり、それが写真として存在する。
可能な限りの透明な眼
誰一人として今ここに写真が存在することを知らないだろう
今ここにあるのは、
10数年という月日の凝縮のようでいて
実は約3秒でしかないと知ったとき、
写真の儚さに改めて気づく。
これだけで鳥肌ものになるのは、なんでだろう。
誇張しているわけではなく、これが、この人の姿であり、写真であるということを、展示を通して目撃しているからでもあるかもしれません。
実は約3秒。
でもその3秒が永遠でもあるように。
写真が写真であるということ。
なぜ写真なのか。
儚さとか切なさとか。
そんなことを考えつつ。
客観的に事象を切り取るという市橋さんの写真。
展示空間で、限りなくひいた場所から写真を眺めていました。
(展示空間に誰もいなかったし。)
街、船、犬、ビーチ、車と人、海、森、果物、きのこ、、、
1枚1枚の写真を次から次に見ていったあと、それだけではなく、
この10数年という中で積み重なった写真たちをできるだけ多く視野に入れたかったから。
客観視(写真)を客観視(目視)する。
そうすることによって、なんとなく気づくことがありました。
奥まってゆく場所にある写真たちは、段々と緑が深まるように配置され、
箇所箇所に分かれて配置されている晴れた日の空の青はどれも同じような濃さの青。
きっと、この青が、彼女の中にある青なのかと思いながら。
100点という数の写真があるのにも関わらず、一貫性を持ち感じるのは、
撮り手と対象の承認(容認)というものが一切ないということ。
そこに映っている人は、とりわけカメラなどに気づいていないようでした。
だからきっと、誰しも今日ここで写真が展示されているなんて思いもしないだろうし、
知る由もない。
人物が写っていようが、それはあくまでも風景の一部にしか過ぎないように思える。
(逆に果物には接近していて不思議だった。
果物に感覚器あったら気づかれてるやろな、なんて。人には大抵気づかれてないのに。)
写真たちを見ながら感じたのは、ハービー山口さんの写真と人物を撮るタイプは反対かもしれないということでもありました。
ハービーさんは基本モノクロの写真で、町中で出会った人々とコミュニケーションを撮りながら目に力のある写真や、被写体の感情が見える写真を多く撮るようなイメージ。承認を得て、限りなく本心を映し出す。
おもしろいおっちゃんが写真を撮ってった、と被写体は思うだろうし、それがいつかハービーさんだと気づく。嫌な気はしない、だって、おもしろいおっちゃんだったし。みたいな感じに、ハービーさんの写真を見ると感じます。
そんな市橋織江さんと、ハービーさんが、12月にこの美術館で対談したというから、、、、あぁ、なんて機会を逃したんだろうと落胆しました。
まぁ、土曜日だったから、行けないんですけど。土曜日。。。
全くテイストの違う写真家ふたりが、写真を通してどのような会話をするのか、
想像するだけでおもしろくなります。
きっと、写真に対するテンションとか、向き合い方とかも違ってくるんだけど、
どっかで出会う共通点なんかもありそうで。
(Youtubeで検索しても出てこないだろうな、、、)
「感情が入らないように撮影する」
というのが、市橋さんのスタイル。透明の眼。
きっと、承認もなければ、対話(言葉としてのもの)さえもないだろう。
静かに、淡々と。
(無言の意思疎通はあるかもしれないですが)
重いRZを携えて、フィルムで切り取り続けた13年間。
なにかを掴み、なにかを紙に焼き付けている。
なにかは、世界。視野。真実。
ありのまま、以上に、儚く美しい。
全ての写真で、何かが際立っている。際立たせている。
それは、当たり前の毎日が、きっと美しいものだという証明。
気づかせられること。
わたしが感じる市橋織江さんの写真。
感情を入れないからといって、写真を撮る意志がないわけではない。
むしろ、その正反対である。
写真に対する真面目さは、語らずしもにじみ出ている。
それもこの人のすごいところでもある。
(全てのプリント手焼きらしいし。。。気が遠くなる。。)
その写真があるか、ないかで、
写真家だけではなく、その写真に出会う人の視界によって、
世界を感じられるものは変わっているんじゃないか、というくらいに感じることもある。自己満足ではないもの。
写真を写真たらしめるものは何か、最近も、ずっと前から、
そんなことばかり考えています。
切なくも儚い、その時間にかけながら。
願いでもあり、記憶でもある。
写真が好きだとか
人が好きだとか
あんまり口にして言ったことはないけれど。
好きとか嫌いとかでもなく、
好きとかでは言いくるめられない何かがある。
それが一体なんなのか、興味がある。
ただ、それだけなんだろうなと、また思った日。
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