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4月の主題 「嘔吐」
投稿日:2012/3/26
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「嘔吐を経験したことがあるか?」実存に対する悩みをしたことがあるか?
この質問を見たときドキッとした。嘔吐がどういった物なのか。勿論物理的に吐く事を意味する嘔吐ではない。サルトルの本ででてくる、嘔吐の感覚。
私が嘔吐を感じる時はどんな時なのか。私という存在が果たして本当にあるのか?
小学生の頃ふと「私は何なのか?何で生まれたのか?何で私という存在として生まれたのか?」考えた事があった。答えは特にでずにそのまま過ぎた。
幼い頃は韓国で過ごし、日本へきてからも普通に日本語が話せるようになり、普通に過ごしていた。今は国際社会といわれるほど、グローバル化されている世の中だが、90年代はまだまだ外国人に対する目は厳しいものがあった。韓国名で育ってきたこともあり、他の子供達にとっても自分たちとは違う人種は不思議であり、奇妙でもあったのかもしれない。見た目は何も変わらない。ただ名前だけで。それでも関係ないという子もいて、私はその子達に救われた。今でこそ、韓国に対して軽視したり、悪くいう人はかなり少なくなった。よかったなと心から思う。この時感じた、自分という存在。別に日本の名前にすることもできた。もしそうしていたら、違ったのか?と思うとそうでもないのかなと思う。根本的な私という存在。周りの子と決して違わない私という存在について考えた。違うのは国籍だけ。そんなことで、自分を低く見たくなかったし、他の子達のためにも、むしろ韓国人ということに誇りをもって生きていかなければいけないと思った。今もそれは変わらないし、だからといって、私という人が韓国にだけ属しているわけでもない。私、人、国籍というものに対して、考える。結局は皆同じこの地球に住む人間なんだ。みんな一緒なんだ。
他にも私という存在を考えた事は何度かあった。私という体がある。その肉体に私という精神(適した言葉が見つからないため、精神と呼ぶ事にする)がある。肉体と精神が分離しているわけではないけれど、なぜ私という体に私という精神が一緒にいるのか?何故私という肉体に、他の人の精神があってはいけないのか?何故、私という精神は、私しか知る事ができないのか?そんなことを考えながら過ごすことがあった。考えても考えてもわからない。誰かに質問し、答えをもらっても、なんとなく理解できるけど、100%納得することができなかった。なんで、私なのか?なんで私という精神を持って私が生まれなければいけなかったのか?意味はあるし、答えも実はもう知っているのかもしれない。でも今はまだ、答えの前の段階で何かが絡まっていてでられない。その答えを早く見つけたいと思いながらもまだ同じ場所にいるのだ。
嘔吐の経験は。あるとはっきりは言えないが、あると思う。
どんな時だったか。2通りあった。
1つは、自分の存在をその場に見出せなかった時。
いつからか、人の顔色をうかがい生活するようになった。良くも悪くも。人の意見に合わせて自分の意見を言ったり、人の顔色を伺いながら行動する。今はだいぶ変わったけれど、中・高の頃は多分ひどかったと思う。
家に帰ると疲れるし、友達と話をしていてもつまらない。人に合わせるばかりで、本当の自分をさらけ出さない自分。皆にそうしていたわけではないけれど、殆どそんな生活だった気がする。だから、ピョンちゃんはいい人で通っていた。人に嫌われないように、迷惑をかけないように、自分をあまりさらけ出せなかったのだと思う。自分で勝手にそう考えていただけで、実際はもっと単純なことだったと振り返ってみると思う。だからというわけではないが、今でも、人前にでて何かをしたり、話したりする事はどうも苦手なのだ。
自分という存在を隠し、周りに合わせるしかない状況の時。合わせていると、自分ではわかっているのに、それを改善しようとしないこと。そんな毎日の自分の姿にムカムカしてきて吐き気がする。自分をさらけ出せず、周りに合わせる事しかできない自分に腹がたつのだ。
2つ目は、自分の存在を否定された時。
特に、何かがあったとかではない。たまに、あること。いつもは普通に過ごしながらも、いきなり、自分を全否定されたかのように言われたり行動されること。勿論、原因は私にある。それに対して反論できない自分、相手に対する腹立たしさ、誤解されないようにうまく伝えればよいものを、会話する事を拒絶し、そこで終わらせる。そして、一人でムカムカ。
私にとっての嘔吐の経験は、この2種類であったと思う。
結局2つとも、自分のせいなのだ。自分が自分として、ちゃんとその場に存在し、自分という物を回りに主張していけたのなら、こんな気持ちにはならなかったし、自分という物に対し、嫌気がさすこともなかったのかなと思う。
結局は解決策を見出せず、見出せたとしても行動に移す事ができず、どれも時間だけが過ぎていった。
人によって必要な過程もあれば、必要なかった過程もある。これらのできごとは私にとって、半分はひつようであり、半分はなくてもよかった事だった。
どれも自分次第で変える事ができたこと。変えようとせず、そのまま過ごした事。
これから、またいつどこで何が起きるのかわからない。今までの事を教訓に、次似たようなことが起きたとしても、うまく対応できる自分でありたい。
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