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☆写真館で働くとは-ライフスタジオのユニークなとりくみ5-②☆
投稿日:2019/7/31
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教育と学習編②
「哲学入門」第3章~4章
3. 本能と知性
本能とは、「自然のイデー」
人は、環境に適応して生きている。人は本能によって環境に適用している。
環境により、身体が変わり、その環境に合わせて、本能が動いていく。
本能は、何かによる反応(客観)から存在している。本能は、固定概念ではない。
人生の目的により、変化していく。本能とは、身体的な反応、経験を通し作られたものであり、無意識的反応をすること。
知性とは、構成されたものによって所与のものを超える力である。技術は与えられたものの上に新しいものを超える力である。世界を革新し、また豊富にする。
→よりよい人間になっていく方向に向かって行く事。
知性は、二つに分けられる。感性と理性。
感性→経験から感じること。生まれた後から自分の中に蓄積されてくるもの。
理性→元々人間として生まれもっているもの。
人は、ほぼ本能により生きているのではないか。知性はあまり使わず、たまにふとしたときにでてくる。
例えば、車を本能とする。そこでの、知性とは、自分で運転をし、何処に行くのかを考え決めてから出発すること。より豊かに生きるために進むこと。経験を通して沢山の事を知っていく。運転初心者は、様々な試行錯誤を繰り返す。経験を通して習慣化されていく。
主題
抽象的な概念の認識はどのように自身が認識しているか論議してみることである。
どのような現象を判断するときに自身により多きい影響を与えることが経験であるか理性であるかに対する話をしてみることである。
即ち愛というならば直接的な経験と間接的な経験または他者に対する規定等によったものであることもあるし自身のみのある規定があるかもしれない。
抽象的というと、何かこれと言って決定するには曖昧なもの。規定を100%下すことが難しいものという印象がある。抽象的な概念の認識はどのように自身が認識しているか。ということについて考えてみる。
自分自身に大きな影響を与えているものは、経験なのか理性なのかというならば、理性と答えるだろう。例えば、人としてより良い人生を送ること。という言葉をよく口にする。ならば、この「良い」ということは何を持ってして良いとすることが出来るのだろうか。基準は人それぞれ異なるという見方もできる。
人は、生まれてからそれぞれの環境の中でたくさんの物をみて、感じて経験を繰り返すことにより、その人の人格や、生き方が変わってくる。それは、自分が成長していく過程において、外部の影響を受けて形成されたものとしてとらえている。
しかし、本来全ての人間には、「良い」という基準となるもの、「理性」を備えて生まれてきていると考えている。人が考えようと考えまいとも、もともと持っているもの。その人が成長する過程においての外部の影響環境により、その人が行う行動は、違う人がみたら「良い」とはみられないこともあるかもしれない。それは、目に見える現象として現れているものの、本来その人が、よりよい人生を送るための方法が、外部の影響により、本来の「理性」とは関係のない行動をとっていると思う。経験も理性も同時に人間の中に存在し、人間が生きていく上で大きな影響を及ぼしている。しかし、理性という、本来人として持っている(「信念」というべきか「良心」というべきか)ものを元に、人は、判断し生きていくことがより人間らしく生きていく事なのだと思う。理性があることによって、人は判断する。しかし、理性を無視した判断をすることにより、人は間違った人生を送っていくのではないか。
4. 経験と習慣
人は経験によって知っていく。経験は知識の重要な源泉になる。
経験するとは、自己が世界と出会うことであり、世界における一つの出来ごと。
経験とは、行為的な物。経験により環境に適用していく。
新しい環境が訪れた時、既存に持っている方法で対処する。
習慣とは、何事も超越していること。経験を通し習慣化する。
自分が意識を高く持っていなくとも、その行為を行う事。
目的ではなく手段として使える事が真の習慣といえる。
より人生が良くなっていくための手段として使って行くこと。
主題
私たちが頻繁に使用する習慣化と関連する単語は、読み、書き、討論するである。
実際、私たちの中の多くの構成員が、ほぼ毎日このような行為をしている。それにもかかわらず、習慣化されたとは思わない場合が多い。
ただ無意識的に行為をしていれば、習慣化がされたと思うだろうか?習慣化の対象が読み書き討論するであろうか?
一体、習慣化がされた状態はどのような状態なのか?ということが今回の主題である。
ライフスタジオで良く使っている、「読み・書き・討論」がなぜ習慣化されていると思わないのかの理由はこうだ。
習慣化するというのは、ただ単に、その行為を繰り返し行う事により習慣化するのではなく、特にしようと思わなくとも、自然に行っていることをいう。行為をすることが、目的なのではなく、手段として使われた時に習慣化されるといえる。
今、私達は「読み・書き・討論」ということが、習慣化されたと思われないのは、結局、「読み・書き・討論」をすることが目的となってしまい、いつまでも、課題をクリアするような行為に留まっていて、するのではなく、しなければならないというように自分の中で思いながら行っているからだ。「読み・書き・討論」が習慣化されたという状態がどんな状態か想像してみると、私たちの口から「読み・書き・討論」という言葉がでないで、「読み・書き・討論」の行為を自然に行っている状態であると思う。
習慣化するというのは、簡単なことではないというのは分かる。自分の手段として使っていくこと。それが自然と成されることにより、自分自身も自由になれ、解放される。
私の経験上、習慣化されたことがあったか思い返してみた。
例えば日記を書く事。読む事も、書くことも、話す事も特別好きでもなく、めんどくさがりなタイプの私は、何においても、そこそここなす程度でいつも過ごしていた。
韓国の大学に入り、韓国語の出来なかった私は、学校で学ぶ勉強だけではなく、自分の日常生活の中でも、学びの行為をとりいれ自然と何かができたらと考えた。
そこで思いついたのが、ハングルで日記を書くことだった。
まずは、続けることが目的にあったため、毎日少しだけでも書きだした。学校からもらった学生手帳のところに毎日短くその日の出来事や、自分の感じたことを書いていくうちに、面白味がでてきて、毎日日記をつけるということは特に考えなくとも、自然と行うようになっていった。それは大学4年間ほぼ毎日行われ、今もその手帳はある。日記というのは、記録として残る。そのためあとから読み返すことにより、自分自身を客観的に見つめることができる。
日記を書くという行為を超え、自分自身の習慣化されたとみなせるのではないだろうか。
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