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千葉フォレスト店
写真と人-想像
投稿日:2012/7/22
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日本での生活ももう1年が過ぎた。
日本語の勉強のために、ずっと学校に通いながら仕事をしてきたため、他の所で長く時間を作ることはないけれど、人生自体が単調で節制されたそのものだった。
今、家族構成が一人なので特に複雑なことはない。残念なことに恋愛をしているわけでもないから。
まず移動するラインも単純。学校と会社、家、そしてスタジオの人達とよく行く居酒屋、たまに外出する新所沢や東京市内。
身分自体が学生のため、生活も自然に節制するようになり、何よりもお酒を飲んでも変に酔わないようにしていることが一番節制している部分だ。
節制というのは、結局は体を取り巻いているということだけど、1年過ぎてみて、生まれて初めて正しい生活をしてきたなと思った。でも、やっぱり普通の人だから小さな脱線はいつでも付いて回る。
短所から言うと、節制するということが良いわけではなかった。
外国という環境のせいで、気をつけようとするから自信も喪失した。年齢も若いわけではないため、体面をたてたり、性格の一部でもあるかもしれないけれど遅くに出歩かないとか、慣れない所には行かないとか、新しい人との接触を試みず、ただライフスタジオの中の人達とだけ過ごしていたため、私的な人間関係を全く形成することができなかった。いろんなところに行くことが好きで、乗るのも好きで、会っておしゃべりすることを楽しんでいた時と比べると、かなり消極的な動きになってしまった。
韓国にいる知人達と通話するものちょうど1年くらい。1年が過ぎると出てくる言葉のほとんどが安否を伝える状態になった。社長からいつも足りないと指摘される「攻撃、前へ」が、私にはなんでこんなにも難しいのか。でなければ、これくらいでも、少しは前に出て来たと言ってもいいのかな?
単調さが長所に変わるということは余白ができたということ。
まだ未成熟で未完成な段階のため、頭の中と心に余裕を持つことが難しい。それは多分、私自身からもう少し自由になること、その時に自然に余裕ということが付いてくるように見え、今は余白を超えれるくらいのこと。
韓国で、30年を超える年月をめいっぱいに生きてきたということを、日本に来て感じるようになった。自分と家族、仕事と人、そして複雑な関係の人達。。。1日も静かな日がないという表現に合わせるかのように、1日1日をめいっぱい生きて来た。時間を少し持って考えて、想像して描く余白が遠くのことを見れるようにしてくれると今は思っている。反面、短く太く、選択と集中ということが余白の他の方にも必ずなければならない。
諸論を長く書いたのは、写真について話したいことがあったから。話を写真に戻すと、私の写真の雰囲気は撮影した自分自身が誰よりも一番よく知っているけれど、撮影する時にすごく敏感で、集中する方なので、余白においても息切れすることが少なくない。でなければ、トリミングをタイトにする。だから写真がすっきりはしているけれど、ふわふわとした柔らかさはない。たまには、穏やかな雰囲気のカットが好きなのに、自分で調節するのがうまくいかない時がたくさんあり、重要なのはマインドコントロールだ。
私が越谷店で心の安定を持ち、撮影している空間がボルボゾーンになった。最近この空間で撮影すると安らかさを感じる。なので、写真にもその感情が含まれ出てきている。窓を開けた時、女の子がその隣に座り、外を見つめたり、本を読んだり花を持っていると、涼しく入ってくる風が子供の髪の毛をなびかせがら、子供の頬を過ぎるけれど、その雰囲気が私の心の中で柔らかく居座る。
写真の中の子供はサッカーが好きな子だった。
おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に撮影に来られたのだけど、撮影の過程がおもしろいと、撮影している間中笑ってくれた。撮影が終わり、モニターをしている時間にお手洗いにいくため2階から降りてこられた。私が案内をし、私達は衣装室で話の花が咲き始めた。今私の日本語の実力はちょこちょこ聞きとれるくらいだけれど、言いたいことを全て表現することはできないくらいの水準だ。
その気持ちを分かって頂けたのか、おじいちゃん、おばあちゃんは最大限簡単な言葉を使ってくれた。お互い言葉が合っているのか合わせていきながら。。おじいちゃんは韓国で生まれたとおっしゃっていた。中学生の頃に日本に帰って来たと。。。ヨンサン、クァンファムンなどの地名が出始めながら、共感体を作ることができた。珍しくも、笑いながらしばらく話していた。とても親切で暖かいご夫婦であり、甘く可愛らしいお二人の姿が失礼かもしれないけれどとても可愛いらしかった。もう一度お会いしたい。もう一度お会いできた時はもっと日本語が上手になっていて、たくさんの話をお聞かせしたい。
Matsuzawa anan君は、明るく穏やかな子だった。撮影中ずっと恥ずかしがりながらも、楽しんでくれる姿がとてもありがたく可愛かった。制服を着て、カジュアル服を着て、サッカーユニフォームを着ながら、楽しく撮影してくれたため、最後のカットでは子供に休憩を与えたかった。そして少しだけれど、想像できるようにしてあげたかった。そして私はそれを余白として表現したかった。勿論、カメラマンのこのような計画された発想により子供を寝ころばせたり小さな本1冊を拾ってみたりした。入ってくる涼しい風に汗を乾かし、本を持ったり、顔にかぶせたりしながらどんなことを考えていたんだろう。。。撮影は、演劇の幕が下りるかのように、つかの間の沈黙と「オッケイ」という声と共に拍手をしながら終わった。とてもすっきりとしていた。何回写真を見返しても気分がとても良かった。
そして写真を私が望む雰囲気で作業してみた。雰囲気がもっと良かった。
私が子供の姿になりたかったのかもしれない。
穏やかで平安な空間で、長く寝そべりながら目を閉じて想像すること。わざと空間を作るのではなく、自然に余白を残すこと。
写真を演出するように私の人生も演出してみよう。「オッケイ」がでてくるように。。。
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