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千葉フォレスト店
[レパートリー]何故私は脱がそうとするのか…
投稿日:2012/6/16
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越谷店で新しい写真の方向性として、シナリオ撮影をすることになった。スナップ写真のように流れるように撮るのではなく、カメラマンのスキルを活かし、完成度を高めるためにレパートリーが構成されている。
レパートリーはコメディアンが一つのねたを作るため、アイディアを考えるように、私達も新しいことを持続的に探しだし、写真に適用させようとしている。実際に社長が作ってくれた数十個のレパートリーフォルダーの中に入っている写真を見ながら、カメラマンは自身の写真に取り入れており、活用度が高いことをみると、レパートリーを作っていくおもしろさがある。
始めてシナリオの撮影をしながら、入学・卒業のシーズンであり、園服から制服までsuit撮影が多かったが、その中で作ってきたシナリオが服を着用していく過程であった。シナリオの内容と共に、一着の衣装で多様さを表すためであり、それは、自然に子供の動作につながっていった。靴下から帽子まで着ていく過程であるので、コーディネートによる複雑さを捨て、すっきりとした姿の演出になった。
そして、「バナナ戦法」という名のレパートリーがある。1歳の子供達はおむつ写真の撮影が多いため、おむつ撮影をしながらでてきたレパートリーだった。おむつだけをしたまま、すぐに撮影をするのではなく、着ていた服からズボンだけを脱いで撮影し、その次にシャツを脱いで撮影する。帽子をちょくちょく変えてあげながら、撮影の最後におむつをはいた姿を撮影し終わるというレパートリーである。
今まで撮影されてきた写真はたくさんあつたが、もっと内容を作りあえてシナリオを作っていこうとする面もある。
ジュニアの撮影も同様に、普通私達は服を脱がせてから撮影はしても、脱がしながら撮影をすることはあまりない。シナリオ撮影を行いながら、靴を脱ぐカットを多く撮っているが、靴や帽子、Tシャツ、ズボン、子供が着用しているものを脱がしていかせるのは行動に対する誘導である。
ある程度はコーディネーターが手伝いながら服を脱いでいくのだが、最後に服を脱ぐ部分は子供に任せると、自分で服を脱ごうとしながらその子独自の表情が多様に出てきて、予測もしていなかった行動によりポーズが作られたりもする。
久しぶりに3兄弟の撮影した日だった。シナリオを作らないといけないという無限の圧迫ではない圧迫と共に、何をすればおもしろいのかということを悩んでいた時、写真撮影が好きな子供達に出会った。
3兄弟を撮っている間中ずっと洋服を脱がせていた気がする。1歳の末っ子ちゃんはバナナ戦法で脱がしていき、下の男の子はシャツを羽織らせてズボンだけになるまで、上半身裸になるまで1枚ずつ脱がしていきながらずっと撮影をした。
恥ずかしがる2番目の子が後で、しかめ面の表情をしたけれどおもしろく撮れ、上の子は楽しそうにやってくれ、運動選手のような洋服をさらっと脱いで見せてくれた。
この過程で重要なのは、勿論カメラを見る視線である。下を見て、横を見るのも写真の良いイメージになるが、正面を見る表情は写真に決定打を与えてくれるため、カメラマンはずっと言葉を投げかけないといけない。自分で言うのも恥ずかしいけれど、実際にこの時の写真は多様で面白いものが沢山撮れたし、家族皆撮影の時から写真を見るまで本当に楽しい時間を過ごすことができた。
こんな時考えた、昔から沢山のやりたかったことの中の内、私は家を作る人になりたかったし、洋服を作る人にもなりたかったし、料理を作る人、映画を作る人、テレビプログラムを作る人などになりたかった。韓国でベイビースタジオに始めて入った時、種類が変わり商業写真を撮るようになったが、それでも自分は大韓民国のベイビー写真の文化を作っていく人だと考えていたことを最近思い出した。
映画で希望を作りだしたり、歌を作り世の中を治癒したり、新世代のように流行を作りだしたりすることはできないけれど、写真で人のことを話したり、人に重要な関係は作っていけると今は思っている。カメラマンとしてまだ現場にもう少しいたいと思う理由は、私が後輩に知らせてあげたいこと、彼らが知りたいことを口だけで話すのではなく、共に汗を流しながら共有したい気持ちが残っているため、ただ写真1カットから見える意味だけではなく、それによって説明できる世の中の多くの事と、その中の一つである人に対して今は嫌気がさしていないからかもしれない。
本を通した討論で世の中の道理を知っていき、目を背けたり知らないまま過ごそうとしていたことを学習しているように、誰かが私を引っ張ってくれ、私が自ら知ろうとしていくように、私は写真で私のできるくらいをやってみようとするエナジーがある。
レパートリーのアイディアが尽きて、頭が痛くなったり、髪の毛が抜けたり、あるものを再活用していくことがこれから無数に起きてくる可能性もある。しかし生活の発見のように、どこかから突き出てくるように、他の視覚で見ながら新しく発見できることもレパートリーではないだろうかと思う。
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