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千葉フォレスト店
写真
投稿日:2012/3/13
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妙子の娘、奏美
3年前に日本に来た時、ひばりが丘で初めて妙子に会った。
その時少し会った妙子は、肌が白く性格がか弱く見えたけれど、意外と多様な表情を持っていた。
無表情な時は、少し冷たい印象を与え、笑顔の時は明るい印象を与え、何か悩んでいる時は表情が険しくなりながら、一つの方向をずっと見つめ、外見は力のない蒼白な姿であるが、内面には強い何かがずっと作用されてきているのだと感じた。
そして去年もう一度出会った時も、そんなに変った姿はなく、もう一人彼女の娘の奏美を、偶然撮影する機会になったが、ママの気運をそのまま引き継いだように思えた。
とても人見知りをしたが、遊ぶ時はとても愛嬌があった。
今回会った奏美はいたずらっ子のように活発な女の子になっていた。
始めは少し恥ずかしがっていたけれど、いつの間にか写真の楽しみ方を知っていった。
可愛げのない洋服を渡すと、可愛い洋服をちょうだいと言い、遊びたいのに写真を撮ろうとして話しかけると、何を言われているのか分かっているかのようにママの言葉に耳を傾ける。そして、いろんな表情を見せてくれる。
無表情の姿が見たいというと、ピタッと無表情の姿になって見せることを知っている。
駄々をこねてはママの後ろで泣いていた奏美が。
なぜか奏美の表情を見ながら、妙子からも感じた無味乾燥しているだけではない、様々な印象のママと娘の共通部分が見えた。
ママに似た娘。。。
奏美は奏美だけの特別な表情がある。
そして私はその表情の中で奏美だけ持っている無表情が好きだ。そして無表情の後からくるやわらかい笑顔が好きだ。今回の撮影でも私が一番期待した部分がその表情だ。なぜなら、3歳の女の子のいろいろなポーズを創ってみたいと思うけれど、それは、ずっと笑わせたからといって1枚の写真が完成されるのではなく、ポーズごとにその子にあった被写体の表情も必要だからだ。ありがたいことに奏美は前よりもそれ以上の表情を自分から表現することを知っている子供になっていた。
この1枚の写真は私が頭の中で考えていたことが、奏美の行動と表情により、それ以上を創りだしてくれた。
子供の遊び場のように作ったこの空間は、晴れている日に後ろから入ってくる逆行がカメラマンにとってはとてもありがたい光なのだ。窓から入ってくる光はこの空間のカラフルな様々な色合いをやわらかくしてくれる。3歳の奏美がはしごに上った時、その光は奏美の体に乗っかって頭から足の先まで光のラインを創ってくれた。もし洋服を長い袖、長いズボンを着ていたら、このように逆行からさす光のラインがはっきりとは見えなかっただろう。
そこに少し離れた蛍光灯の照明が補助の役割をしてくれ、被写体の後ろにある空間まで明るくなれるような役割をした。「そして奏美は無表情のあとからくる、やわらかい笑顔やしかめっ面な姿など、極大化された表情を見せてくれればよい。」ここまでが、私の計算した通りだったが、この写真から見える奏美の力を入れる表情と足の指先まで力が入っているポーズはそれ以上を期待していなかった私に与えてくれたチャンスになった。
奏美の撮影を準備しながらいろんなことを考えた。
3歳の奏美位の女の子が着物撮影から始まる、スタジオ撮影を一番たくさんしに来てくれるが、いつも撮影はカメラマンの思うように進まないことが普通だ。
勿論、カメラマンのレパートリー不足もあるかもしれない、完全な赤ちゃんでもなければ、聞き分けの良い時期でもない。一番動きまわって遊びたい時期なので、慣れているアシスタントや、カメラマンでなければ、子供に特別なポーズを要求することは難しい。だから動きのある写真が多くなり、何か自然ではない、構成要素が写真にたくさん添加されながら、カメラマンは撮影された写真の写真をみて、また寂しさにはまるようになる。
私も同じである。自分がことばができないため、子供達に要求しようとすることを、先に諦めて撮影をすることが多い。だからアシスタントに要求をし、それがうまく繋がらなければ、そのままの状態から私が望むものをずっと探すようになる。
今回の奏美の撮影では、条件を創り、可能ならばそれを思い通りにできるように計画した。
臨んだ空間で、臨んだ光を調節し、臨んだスタイルの衣装を着せられるように、奏美のママである妙子に頼んだ。臨むポーズを要求し、まだ幼く思うようにいかないときは、自然なイメージカットの撮影をしようとした。そこに、奏美の自由な行動と多様な表情が追加され、パパとママを登場させ、私達がいつも話している空間撮影をするようになった。
勿論、私が想像している空間撮影のような空間と、家族の流れが最初のカットから最後のカットまでドラマチックに繋がってはいない。写真の主題をドキュメンタリーの方向性をもっと決め、そこに向うために、撮影の方向性も感知してきたが、まだ私の写真には行動力が不足していると感じている。脱皮しようとする長い習慣がずっと持続されているのかもしれない。しかし、どこに向かうべきなのかを自らちゃんと知っているため、実践の努力を繰り返している段階だ。今まで私の写真を見る人達の評価は、大体「人」と「ストーリー」が見えるという、意見が多かった。それは、私が主体になり、写真を創るために被写体を動かすというよりも、与えられた環境にあう被写体を、自分の技術で探していったから、明確な写真ではない流れる写真になったような気がする。
越谷店で撮影をしながら自分に約束したことがある。
「もう少し、もう少し深く入ろう。人に、写真に、私自信に」
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