Staff Blog
千葉フォレスト店
scrollable
Erijo
投稿日:2014/2/16
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時々みんなにこんな質問を受ける時がある。
一度も撮影してない空間(通常は新しくopenした店舗)で初めて撮影をする時、どういう方法で写真を撮るのかと。
質問をする理由は普通2つくらいの場合によるが一つは自分が循環勤務か店舗が新しくopenし、撮影を目の前にしていて撮ってみるが自分が考えたほど撮れなかった場合か、二つ目は自分が撮影している空間に新しい人が来て撮影をしたら思った以上に写真がよくて‘何故?‘という疑問が沸くからである。
良いと思うのはそれほどふれずにどこに行っても自分のスタイルで撮影を進めていく人をリー社長しか見たことがなかったが今のライフではそんな人が誰かというと何人が思い浮かぶことだ。
だからかずっと悩みつつ進んでいるライフの写真が個人的にはすごく好きである。
改めて言うと悩む過程その自体が好きだとも言える。
今は私もスタジオで撮影をして結構な時間が過ぎた。
そうしたら撮影に関する経験だけで色んなことが積み重ね自分なりの基準が出来上がった。
初めての空間に出会うと一旦すべての人工照明を消して窓から入ってくる光がどこに落ちてくるのかを観察する習慣がある。光で描く絵が写真という言葉が間違ってないという事実が数多い撮影をこなしながら分かってきた。
光で人の顔の色を描いて、光が当たったインテリアが空間の繊細な表現をしてくれるからである。
またかけて撮るぼかしの葉っぱや花、布、椅子、柱などの全てが光と共に混ざりながら名前もない色感を作り出す。
その次は被写体を壁から離してまた私も望遠レンも持ち遠く離れる。
写真のアングルは私自身がどれぐらい動くのかによって多様に出てきて被写体とレンズとの距離感は望遠レンズが持っている効果を生かすからである。
また撮影者が遠くから見渡すことで視覚が広くなり空間がみえ写真を立体的に表現できると考える。
したがって光とレンズで色感を作り、インテリアも利用して写真をフレミング(framing)することが私が撮る写真の基本方式である。
それを基本ベースに維持するためには撮影の時間に集中するしかない。
なぜならば毎回の時間で変わってくるのはどんな被写体を出会えるのかやどんな家族に出会えるのかに関わらず私が撮る写真にはぶれがあってはいけないからである。
子供の条件によって写真が変わってきたら撮影者として義務を果たしてないと考える。
私達に訪れてくる顧客は撮影者よりライフという場所に行きたいからである。
自由に撮影するから自然な写真が作られることになるが結局、それは子供をほったらかしにして撮ることで自由になるわけでなく、写真を撮っている私自身が自由にならなくてはならない。
作られたフレームの中に子供を合わせようとしたら不自然であるしかない。
私達は専門モデルを撮ることでなく恥ずかしがる一般人に会っているから。
どんな環境に出会っても自ら条件を作られたら自由になれる。
そしてその条件が私が持っている武器であるに違いない。
私自身の基準があると、被写体つまり家族、人に集中できる。
そしてその人に入っていく。
どんな表情がその人に似合うのか、どんな姿勢がその人に楽であるのか、どういうふうに撮ればその人が美しく表現できるのかを探せる。
こんな話をした時に誰かが私に質問をした。
”写真を撮る時にその基準があればいい写真が撮れるんですか?”
私の方法は最善を尽くすことである。
撮影をしているその時間は私は理性的な人になり、最善を尽くすこと。
私のいい、悪い感情が写真に入り、浮き沈みができたら顧客に申し訳ないことだ。
自分の感情を少し置いといて撮影に集中し最善を尽くさなければならない。
そして一緒に撮影をしている仲間も最善を尽くしていると信じること。
今は撮影を一緒にしている人達の大体は後輩である。
以前の私が撮影に関して怒ったことはアシスタントをしている後輩のテクニックについて怒ったりしたが今は最善を尽くさないことになるど怒る。自分自身にも同じである。
写真に対して私の見解は撮影に当たって環境と条件を自ら作り出すことが自分に自由になる道となり、その時間に訪れてくれた家族の為に最善を尽くし、汗かいてからこそ感動もあり、いい写真も出来上がることになると思う。
これからは写真に対して教育という単語を使わないと決心した。
私は教育者でもなく写真において誰かを教える資格がないと思う。
写真哲学に関する本を読みながら難しくて理解もできない自分が恥ずかしいと考えた。
今までどんな知識よりも経験だけに頼り、ずっと繰り返しながら教育という単語を使ってきた。
もちろんこれからも写真を撮り始めた後輩達に色々と教えなくてはならないが私も誰かに教わってから写真を知っていたとは思わない。
写真に正解をつけようとすると自由にならない。
今までの経験と目でみてきた数多い写真の資料やそしてリー社長の写真について書いた文書や講義を聴きながら人生を通じて写真を知っていくと考える。
これからも持続的にやりたいことは写真に主題を決めて、写真を分析しながら人と一緒に語っていきたい。
撮影をしている間に私がやっていることから生産される価値もちろんそれをお金ということにつけられているがそれを忘れられるくらいの楽しさと面白さを顧客に与えることになる。
そして後ろについてくる後輩達がいい影響を受けそれが循環していくことを願う。
そして今は写真も教育ではなく討論の方向にいかなくてはならない。
教育は一方的ではない。
だが答えがないものを一方的に教えようとしたら子供をまたその場所に立たせようとすることのように自由がなくなり苦しくなる。
お互いに写真について自由に発言し、何がいい写真であって何故私たちは写真を通じて価値を生産しようとするのかを定義しながら共感しそれを自分のことだけでなくお互いの為に分け合っていかなければならない。
写真の討論を通じて垂直的で一方的であった現れなかった関係を、または間違えて認識していた関係を水平的に作り認識の変化を作っていかなくてはならない。
一度も撮影してない空間(通常は新しくopenした店舗)で初めて撮影をする時、どういう方法で写真を撮るのかと。
質問をする理由は普通2つくらいの場合によるが一つは自分が循環勤務か店舗が新しくopenし、撮影を目の前にしていて撮ってみるが自分が考えたほど撮れなかった場合か、二つ目は自分が撮影している空間に新しい人が来て撮影をしたら思った以上に写真がよくて‘何故?‘という疑問が沸くからである。
良いと思うのはそれほどふれずにどこに行っても自分のスタイルで撮影を進めていく人をリー社長しか見たことがなかったが今のライフではそんな人が誰かというと何人が思い浮かぶことだ。
だからかずっと悩みつつ進んでいるライフの写真が個人的にはすごく好きである。
改めて言うと悩む過程その自体が好きだとも言える。
今は私もスタジオで撮影をして結構な時間が過ぎた。
そうしたら撮影に関する経験だけで色んなことが積み重ね自分なりの基準が出来上がった。
初めての空間に出会うと一旦すべての人工照明を消して窓から入ってくる光がどこに落ちてくるのかを観察する習慣がある。光で描く絵が写真という言葉が間違ってないという事実が数多い撮影をこなしながら分かってきた。
光で人の顔の色を描いて、光が当たったインテリアが空間の繊細な表現をしてくれるからである。
またかけて撮るぼかしの葉っぱや花、布、椅子、柱などの全てが光と共に混ざりながら名前もない色感を作り出す。
その次は被写体を壁から離してまた私も望遠レンも持ち遠く離れる。
写真のアングルは私自身がどれぐらい動くのかによって多様に出てきて被写体とレンズとの距離感は望遠レンズが持っている効果を生かすからである。
また撮影者が遠くから見渡すことで視覚が広くなり空間がみえ写真を立体的に表現できると考える。
したがって光とレンズで色感を作り、インテリアも利用して写真をフレミング(framing)することが私が撮る写真の基本方式である。
それを基本ベースに維持するためには撮影の時間に集中するしかない。
なぜならば毎回の時間で変わってくるのはどんな被写体を出会えるのかやどんな家族に出会えるのかに関わらず私が撮る写真にはぶれがあってはいけないからである。
子供の条件によって写真が変わってきたら撮影者として義務を果たしてないと考える。
私達に訪れてくる顧客は撮影者よりライフという場所に行きたいからである。
自由に撮影するから自然な写真が作られることになるが結局、それは子供をほったらかしにして撮ることで自由になるわけでなく、写真を撮っている私自身が自由にならなくてはならない。
作られたフレームの中に子供を合わせようとしたら不自然であるしかない。
私達は専門モデルを撮ることでなく恥ずかしがる一般人に会っているから。
どんな環境に出会っても自ら条件を作られたら自由になれる。
そしてその条件が私が持っている武器であるに違いない。
私自身の基準があると、被写体つまり家族、人に集中できる。
そしてその人に入っていく。
どんな表情がその人に似合うのか、どんな姿勢がその人に楽であるのか、どういうふうに撮ればその人が美しく表現できるのかを探せる。
こんな話をした時に誰かが私に質問をした。
”写真を撮る時にその基準があればいい写真が撮れるんですか?”
私の方法は最善を尽くすことである。
撮影をしているその時間は私は理性的な人になり、最善を尽くすこと。
私のいい、悪い感情が写真に入り、浮き沈みができたら顧客に申し訳ないことだ。
自分の感情を少し置いといて撮影に集中し最善を尽くさなければならない。
そして一緒に撮影をしている仲間も最善を尽くしていると信じること。
今は撮影を一緒にしている人達の大体は後輩である。
以前の私が撮影に関して怒ったことはアシスタントをしている後輩のテクニックについて怒ったりしたが今は最善を尽くさないことになるど怒る。自分自身にも同じである。
写真に対して私の見解は撮影に当たって環境と条件を自ら作り出すことが自分に自由になる道となり、その時間に訪れてくれた家族の為に最善を尽くし、汗かいてからこそ感動もあり、いい写真も出来上がることになると思う。
これからは写真に対して教育という単語を使わないと決心した。
私は教育者でもなく写真において誰かを教える資格がないと思う。
写真哲学に関する本を読みながら難しくて理解もできない自分が恥ずかしいと考えた。
今までどんな知識よりも経験だけに頼り、ずっと繰り返しながら教育という単語を使ってきた。
もちろんこれからも写真を撮り始めた後輩達に色々と教えなくてはならないが私も誰かに教わってから写真を知っていたとは思わない。
写真に正解をつけようとすると自由にならない。
今までの経験と目でみてきた数多い写真の資料やそしてリー社長の写真について書いた文書や講義を聴きながら人生を通じて写真を知っていくと考える。
これからも持続的にやりたいことは写真に主題を決めて、写真を分析しながら人と一緒に語っていきたい。
撮影をしている間に私がやっていることから生産される価値もちろんそれをお金ということにつけられているがそれを忘れられるくらいの楽しさと面白さを顧客に与えることになる。
そして後ろについてくる後輩達がいい影響を受けそれが循環していくことを願う。
そして今は写真も教育ではなく討論の方向にいかなくてはならない。
教育は一方的ではない。
だが答えがないものを一方的に教えようとしたら子供をまたその場所に立たせようとすることのように自由がなくなり苦しくなる。
お互いに写真について自由に発言し、何がいい写真であって何故私たちは写真を通じて価値を生産しようとするのかを定義しながら共感しそれを自分のことだけでなくお互いの為に分け合っていかなければならない。
写真の討論を通じて垂直的で一方的であった現れなかった関係を、または間違えて認識していた関係を水平的に作り認識の変化を作っていかなくてはならない。
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