Staff Blog


水戸店
scrollable

読書⑯「憲法がヤバい」を読んで

投稿日:2013/10/26

952 0

「憲法がヤバい」白河敬裕著 を読んで            

( もう1冊分の【付録】付きです。)

 

mito mikiko

 

 日本国憲法。私は日本に生まれ育ちながら、春にAチームの討論のテーマとなるまで、きちんと読んだことは正直ありませんでした。

憲法には、基本的人権の尊重・国民主権・平和主義(戦争放棄)が謳われているという事だけは知っていましたが、これにより、私達国民は、日本という国家に人権と平和を保障されて安心して暮らしていけるのだと、疑うことなく信用していたような気がします。だから敢えて詳細までも知ろうとしなかったのかもしれません。

 先日の討論では、このままでは日本も軍隊を持ちかねない、果たして憲法の改正は何の為に、そしてこのまま改正されてしまってよいのかという議論が紛糾しました。

しかし、現行の憲法の本質と、9条に対する理解、そして草案との違いを十分に理解しない事には、是非も論ずることはできません。前回の討論では、戦争に発展する恐れのある草案について、私は単純に、感情のみで反対を唱えましたが、実際にどの部分にどの言葉にどのように危機感を感ずるのか、もっと把握する必要を感じました。

憲法改正の草案に対するもやもやとした不安を抱えたまま、書店に立ち寄ると、私の心に呼応したように、真っ先にこの本のタイトルが目に飛び込んできました。

―「憲法がヤバい」―

 やはりヤバいのでしょうか・・・。手に取ってパラパラと読んでみましたが、私はすぐに購入を決めました。この本には、日本国憲法の本質から、現行の解釈、そして草案との違いが解り易くそして何より『道徳的解釈』で書かれていることが解ったからです。

著者は、東大法学部在学中に司法試験に合格し、24歳最年少で裁判官に任官され、様々な事件に関わった後、弁護士に転身した、謂わば“法律のスペシャリスト”です。法に対する正しい認識を持ち得た人間の書いた憲法解釈についての本は、今の今まで憲法を深く知ろうとしなかった自分を悔やむ程面白く興味深く、そして解り易いものでした。

そして、草案の根本的な恐ろしさをも知る事となりました。

それだけでなく、本当に怖いのは、9条や96条の改正だけではないという事に気付かされます。

 自衛隊を軍化させることもそうですが、もっともっと根本的な恐ろしさが潜んでいたのです。

 

 まず、憲法の本質とは何でしょう。それは「国家権力を縛る」ことにあると著者はいいます。国民を、権力から守るための、国と国民との契約である、ということです。

契約である以上、憲法の改正は、国民の承認なくしては決定されないのです。

憲法の改正がどうあるべきかの判断は、憲法の本質を知る事から始まります。

憲法は誰に向けられたものなのでしょうか。法律は国民を強制するルールですが、憲法は11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵す事のできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」

そして97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵す事のできない永久の権利として信託されたものである」と、銘記されている通り、憲法の本質は、基本的人権(=人間であることによって当然に有している権利)を保障する事にあり、国民の権利・自由を保障するために国家権力を縛る為に、国に向けられた憲法なのです。

憲法を改正しようという理由の一つに、戦後の占領下における、アメリカによるおしつけ憲法で、全く日本人の手によるものではないからという意見もありますが、では、その時にその時の内閣が書いた原稿がどのようなものであったのかというと、「人間は生まれながらにして自由で平等である」という思想はなく、明治憲法とほぼ変わらない「国民が権力に支配される者(=臣民)」と定義されていたのです。

基本的人権の保障や、国民主権などは盛り込まれていません。

この原案にアメリカ側は驚き、マッカーサー原案と呼ばれる現在の憲法にほぼ近いものを提示し、日本側は、その内容に逆に驚嘆したそうです。

では、この時、日本が提示した憲法草案が通っていたならば、今の私達はどのような立場に置かれていたでしょうか?今やアメリカの言いなりの腰抜けの国になり下がっているとも言われていますが、果たしてそれはアメリカだけのせいなのでしょうか?敗戦国でも、占領下に置かれた国でも、世界を見渡すと、頭に浮かぶのは、決して自分たちのアイデンティティーを失わず、誇りを持ち、自国の文化を持ち続けようとする強い姿です。自分の生まれた国に確固たる誇りを持てるような教育を、おしつけや独善的なものではなく、国民を大切にし、世界的な視野をもとに、戦前・戦中に行えていた日本であったのなら、今の姿とは違ったものになっていたのかもしれませんし、それ以前に、戦争なぞしなかったかもしれません。

ですから、私は、日本国民の自由意思によって作られたものではない現行の憲法であると言われても、そこに、西洋の人々が、思想として積み上げ、その思想のもとに政府や国王の専制政治に対抗し、長い間戦いながら勝ち取った人間の基本的な権利をうたったものが根幹にあるという事実によるものであるという事、その考えは、支持したいと思います。

 驚くことに、今度の草案では、先ほどの97条がそっくり削除されるというのです。

それどころか、前文がこのようにかわっています。

 【現行の前文】日本国民は・・・わが国全土にわたって、自由のもたらす恵沢を確保し、

        ・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する

 【草案の全文】日本国民は・・・基本的人権を尊重するともに、和を尊び、家族や社会

        全体が互いに助け合って国家を形成する。

現行のものにも「自由のもたらす恵沢を確保し」という基本的人権が、そして草案にも基本的人権という言葉が謳われているが、主語が変わってしまっています。

現行では、自由のもたらす恵沢であるところの基本的人権を「国」が確保するとありますが、自民党草案では、「国民が」と解釈できます。では国は何をするのでしょうか?国民の自立を促し、自覚を持った強い国民であってほしいという意思が読み取れますが、そもそも憲法とは、国民へのしばりつけではなく、国という国家の権力を縛る為のものだったはずです。

 作者の解釈を読み進んでいくうちに、自民党草案のあちらこちらに、今まで権力を縛っていたはずの憲法の主語「国」が、いつのまにか「国民」になっていると受けとれ、憲法の本質がすり替わっていく恐れのあることに気付きました。

 9条の解釈も、国語の屁理屈をこねているような気がします。同じ一文でも、「ああもこうも解釈できる」と、拡大解釈や子供の言い訳のを聞いているようにも感じます。正しい解釈、戦争の放棄の本質については、じゅうぶんすぎるほどの論議が行われ、やはり国民の総意を基に改正が行われるべきでありますし、それが現行の憲法のいう国民主権であると思います。

 現行の憲法では、[私たちの基本的人権は、生まれながらに持ち得ている自然権である]と規定しているのに対し、草案の基本的人権の定義は、[権利は日本古来の歴史の中で、共同体(国家)によって生成されたものである]としています。

日本の歴史の中で、一体いつの時代で民主的だったことがあるでしょうか?

 

はじめは、戦争へ移行する事への恐れの為に、憲法と、改正草案を深く知ろうとこの本を読んでみたのですが、もっと本質的な、恐ろしさを感じる事となりました。

国民として守られていたはずの基本的人権は、私たちが、私たちの義務として互いに国民同士が守るものと変化し、ひいては作者が危惧する、国民には国家の安全を自ら守る義務があると拡大解釈もできるものとなるかもしれません・・・。(改正草案の全文に、“日本国民は、国と郷土を・・・自ら守り、とある事から)

私たちは国を選んで生まれてきている訳ではありません。否が応でもこの国に生まれ、国民となったわけです。

ですから私は、基本的に、国民があってこその国、だと思っています。大多数の国民が、選択肢を持たずに国民として存在している以上、国の為に生まれたという理屈はとおりません。であるならば、その個の集合体である国は、たまたまこの国に生まれた私達にこそ、国の形成の源である個人個人を尊重することを義務とし、文化を築き、国民を守り、国益よりも、国民ひとりひとりが幸せであることを願う国であってほしいと思っています。

自民党の改正草案で感じたことは、憲法が国民の為の物ではなく、国家の為の物であるということです。もしそうであるならば、これまで様々な国々で、人々自由の為に闘ってきた歴史を、今度は日本が繰り返す事になりかねません・・・。

 

 

 

 

 

【付録】

 

「日本国憲法の正体」-アメリカ製憲法の改正を阻むのは誰か-を読んで

 

 反論も読まなくては公平でないと考え、少し過激なものを選んでみましたが、この本には作者がいるわけではなく、何人かの知識人の寄稿によって作られています。

大学教授や、防衛相の方、元自衛隊の方などなど。

 この方たちがおっしゃっていることは、日本という国の特色がまったくない、という事。だから草案に、「日本古来の・・・」というくだりが出てくるのかもしれませんが、歴史を遡ると、日本のみならず、どのような国においても圧制や専制政治に戻ってしまいます。

国民を守り、権力を縛ることに、古来云々が必要なのでしょうか?

どのような国においても、人間の持つ本質的な権利というものは同じではないでしょうか?それを守るために、どのような訳で国の特色をいれなければならないのでしょう。憲法の本質は国の特色を語るものではなく、あくまでも国民を守るものであり、そのために国が負うべきもの、あるべき姿を書いたものであると私は考えます。その中にこそ、日本人としての性質が良い形で表れていればよいのではないのでしょうか。

 少し怖いことに、本の前書きには(筆者名なし、編集部記か?)、日本がアメリカや中国が、日本に圧力をかける理由は、日本に独立した安全保障体制が確立していないからであると論じています。日本は物理的な反撃を加える事ができないがために侮られていると。

ひいては9条を早めに改正することで、歴史認識や教科書問題も片が付くであろうと述べています。

そうなのでしょうか?

もしそうであるとしても、それが日本にとっての最良の選択なのでしょうか?

また、「民主主義は爛熟、腐乱、腐敗しており、憲法が、〈政治権力に圧力・制限を与えるものだ〉とする説は、時代錯誤も甚だしい。」と書いていらっしゃる方もいました。

 憲法の本質の解釈すら、先ほどの本とは真逆ですので、もう憲法改正をするというならば、国民、政治家すべての間で、憲法を定義づけるための「憲法とは」と、討論が行われるべきではないのでしょうか?共通理解のない所には、憲法はおろか、小学校のめあてすら決定できないと考えます。

 この本を読んで一番感じたのは、どの方も、「国家」を主体と考えているという事です。

世界に於いての日本の立場、経済、権利、国力。

どこにも日本国民の自由・権利、そして幸せについては述べられていませんでした・・・。

 

この記事をシェアする

美しさを表現し、思い出を記録する、楽しい遊びの空間

人生の写真館ライフスタジオという名前に込めた想い。
それは、出会う全ての人が生きている証を確認できる場所になること。
家族の絆とかけがえのない愛の形を実感できる場所として、
人を、人生を写しています。

撮影のご予約はこちらから

スタジオ予約

お役立ち情報をお送りします

新規会員登録

Official SNS

  • Instagram
  • sns
  • Instagram
  • Instagram
/