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水戸店
「許すという事」と「受入れる」について
投稿日:2012/9/26
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いつのころからかはよく覚えてはいないが、若い頃より「頭にくる」という感情がずっと減った気がする。
「傷つく」といく事も減った。・・・気がする。
これは、感情の幅が狭まったり、無感動無関心になったり、という事ではない。と断言できる。が、
では、どういう事なのだろう、年齢のなせるわざでは説得力もないし、と思っていた所、
未央ちゃんから勧められた、タオイストの加島祥造の本「受入れる」に出会った。
そこにはこう書いてあった。
―”心が広いから受いれるんじゃないよ。受入れるから広くなるんだよ”―
年齢でいうならば、受入れる回数も多くなるので、人間の熟成度より私は回数により、といった所で
自分に納得している。
受入れていた結果、その方がいろんな出会いがあり、面白い事も増えた。
そしてその出会いによって、たくさんの事を教えられ、与えられ、という循環が起こっている気がする。
受入れているよりも、はるかにお釣りがくるぐらいの恩恵に、あずかっている。
そんな私でも、やはりまだまだ心が平穏でなくなる時がある。答えの出ないちょっとした苦しみもあったりする。
そんな時は、この間水戸店の鈴木くんが書いた感想文の「許すという事」を繰り返し読んで、
早く心から苦しみを取り去りたいと思うのだが、
許す、という事は、許さなければならない「原因」があるからこそおこる行為である。
鈍感を装っても、理不尽や無理解は感じる。
しかもそれが非論理的に発揮された時、何ともいえない脱力感が襲う。
「許す」と、意識しなければならない段階で、許すことに移行するまでの心はやはり苦しむ。
許すことは、我慢することでも妥協することでも甘やかすことでもなく、
少し違う角度で世界を見てみようというアプローチなのである、と鈴木くんの文に書いてある。
多分まあ結果そうなるのであろうと、自分でも心の動きはわかるが、
ちょっとした期間、そこへ行き着くまで、未熟者は苦しまなくてはいけない。
でも、今ふと思ったのだが、「許す」という結果は大切だが、
そこへ行き着くプロセスこそが大切なのかもしれない。
何故許すことにしたのか、その葛藤の中に、それが消極的な原動力でない限り、
必ず自分がひとつ階段を昇った答えが入っているような気がする。
ん、ちょっと晴れてきた。
「受入れる」の中で、もうひとつ大好きな一節が浮かんだ。
―「受入れる」の洗練された形として「受け流す」ということもあるんだよ―
そこまで行き着くのはいつになるのかわからないが、目指していきたい。
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