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水戸店
読書②『「つぶやく」時代にあえて「叫ぶ」』斉藤孝著 を読んで
投稿日:2012/6/19
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『「つぶやく」時代にあえて「叫ぶ」』斉藤孝著 を読んで
最近私がずっと感じてきたことを代弁してくれているような気がして、躊躇せずこの本を手に取った。
―つぶやく―。
今、ブログでフェイスブックでmixiで、ありとあらゆるソーシャルネットワーク上で人々がつぶやいている。
(ツイッタ―はつぶやき専門だと思っているから最初から見ようとは思わないけれど)
面白いつぶやきもあれば なぜそれを皆に言う?的なつぶやきもあり、
さまざまなつぶやきは、取捨選択の余地無しに 目に飛び込んでくる。
自分が如何にがんばっているか、苦しんでいるかというつぶやきはあまり楽しくない。
つぶやきを目にして思うのは、なぜそれを言いたい人の前で正々堂々と述べないのかということである。
この本が そんなつぶやきに対して言及しているのは実は最初の章だけであったのだが、
それでも つぶやきの原理がよくわかる内容であった。
「言葉の力」といものがあるが、自分自身の「意思」「判断」「思い」「決意」といったものが息づいていない言葉は軽い。
力のある言葉とは、その人の中から湧き上ってきたことを実感させるものである。
つぶやきは小声でぼそりと言うもの。
強い主張や発信力を持たなくてよく、エネルギーの放出の仕方が消極的かつ小出しである。
低燃費のエコスタイルとも言えるが、つぶやいてばかりいると、心身が縮こまっていくような気がすると著者は言う。
一方 「叫ぶ」となると主張が要る。それなりのパワーが要る。積極的にエネルギーを外に放つ構えが必要となる。
つぶやきは拾ってくれる人がいなければただの独り言である。闇に向かってつぶやき続けるのはむなしい。
コミュニケーションを拡大していきたいのであれば、やはり外に開かれた身体「叫べる身体」をもっていなければならない。
声が届くとは心が届くことだと筆者は述べている。
そもそも日本人はこれまでの教育の中で、個人の主張というものに重きを置いてこなかったし、実際に私自身もそのような教育を
施されたことはなかった。さらに性格もあいまって、言いたいことがなかなかすっと口から出るようなタイプでもなく、
急に意見を求められても言葉につまることの繰り返しであった。
ライフスタジオに入ってからも、長年身に染みついている自身の習慣はなかなか払拭されず、
意見を言わなければならない場の多い、というか討論ありきのこの会社で 最初は本当に苦しんだし、
私はダメ人間なのだと自己嫌悪に陥ったりということが日常であった。
会議や討論の終わった帰り道に、「あ、こんな事を言いたかった!」と脳の回転の遅いことを悔やみつつ、
頭の中では意見を述べている自分を妄想しながら帰途につくという繰り返しがずっと続いていたが、
ところが やはり人間慣れというものはおそろしい。
最近は言いたい事が沢山でてきた。
結局思うのは 堂々と自分の意見を持ち述べるには、常に考え、それをアウトプットするという作業をせずには
難しいという事である。
なにもない空っぽなままでは つぶやくだけが関の山なのである。
最近ちょっとだけ、考えることが楽しくなってきた。
と 書いたところでふと思った。
この文も結局「つぶやき」なのではなかろうかと・・・・・。
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