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この1枚の写真への長い道のり〜57

投稿日:2024/10/2     更新日:2024/10/2

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私たちが普段、写真を見ながら感じる「生命力」や「躍動感」、「動的な写真」や「整理された写真」など心や頭で感じることはできるが名前を付けることが難しい事柄が、実は名前を持っているという事を何年も前に【写真人文学】という本で学んだ。もちろん私は本を読む前からそれらの現象に気付き、勝手に名前を付けていたカリスマなのだが、本を読んだことで確信に変わったのを覚えている。具体的な内容について知りたい人は写真人文学の本を読んでみることをオススメするが、なにぶん韓国語の本のためAmazonでお買い求め頂いても写真に活かすことはできないだろう。そんな時は所沢店の「Education」を見てみてください(著:工藤)ライフスタジオが目指している写真とは何なのかが少しわかるかもしれないし、もしかしたら読めば読むほど全く理解ができないかもしれない。その場合、読んだうえで質問にきてください。

先日、所沢店の後藤君に写真の構成要素が写真の質に与える影響(写真人文学の単語で言うところのステディウムとプンクトゥム)について話をした。

勉強熱心なのはとても良い事だし、きょうび写真について深く考える時間を持つという事、良い写真を撮るためには技術の向上だけではない「何か」なのだと肌で感じ取っているのは誰にでもできることではない。

だからこそそういう時に私はもっているものを伝えなければいけないのだが、私はなぜだかいつも写真の話をする時にはどんなに寝かしつけても地面に置いたら泣いてしまう背中スイッチを持っている赤ちゃんくらいの隙のなさで話をする。30点くらいの写真を撮影したとしても、80点かのように・・・。口がうまいと得をするものだが、本質を解決するものではない。だから言葉以上に重要なのは「実際にどのような写真を撮っているのか」ということだ。結局は一線を退いた引退者のような人間にならないようにする為に現役以上に一度の撮影のクオリティが求められてしまうし良く撮らなければいけない。腕は錆びているというのに・・・。だからとりあえず写真を撮ってみたので説明を書いてみようと思う。

私の写真を見た人に良く言われるのは「気持ち悪いぐらい整っている」という言葉だ。褒められているのか微妙なところではあるが、私自身意識していることなので悪い気はしない。これを私は「調和」や「統一感」という言葉で表現しているが、その範囲は写真のすべてである。衣装、光、画角、ポーズ、四隅まで意味を持たせることを意識しているつもりだ。

なぜそうするのか?答えはひとつ。「被写体をより美しく、より良く写すため」だ。

写真の構成要素のすべてはこの結論ありきで使用しなければいけない。なぜならポートレートだからだ。当たり前に思うかもしれないが、意外と当たり前ができていないのが私たちだ。スタジオにあるおしゃれな衣装や小物、背景は何のためにあるのか?ドライフラワーが主役の写真を撮っていませんか?写っている全ての要素が、被写体を引き立たせるために存在している事を忘れてはいけない。

そういう意味でこの写真を見てみるととても解釈が難しくなるだろう。ライティングというのは特に判断が難しい。ともすれば作った光に被写体を当て込むという逆転現象が起きるからだ。「こういう光で撮影したい」という準備は悪くないが、思いが強すぎると被写体は誰でもよくなってしまい、人を当て込むだけの調和の取れない写真になる。

じゃあどうすればいいか?実現できるかは別として、言葉だけを発するのであれば「被写体に合うライティングを作る」ことだ。

例えばこういう写真。いわゆる写真館的なライトを被写体に当てているが、これも技術の基礎的な面で被写体のスタイル、顔の形状によって当てる角度が変わる。簡単に言えばそういうことだ。

だが、中にはやってみないと合うかどうかわからないライティングもある。それが表題の写真だ。所沢店の宮崎君がセッティングした少しテクニカルなライティング。イメージとしてはカッコよくというのが最初に思い浮かぶだろう。もちろん光の中に被写体を飛び込ませるだけでも何かは生まれるかもしれないが、私のセンサーが感知しないものがいくつかあった。ようは調和をもたらすために何か少しスパイスが必要だったのだ。私がこの時に感じたそれは「曲線」だった。ライトとバランスの取れる曲線のでるポーズ。方法の中のひとつは「アングル」もうひとつは「首を右にかしげて口を見せる」ことだった。もちろんこれが正解かどうかはわからない。なぜそれが良いと思ったかは私の中のリトルボルボに聞いてみるとして、結果として上から撮影したこの写真は私の中では調和のとれた一枚となったのではないかと思う。

 

カメラマンというのはプライドのカタマリだ。自分の写真に自信を持っているし、だれよりも優れていると考える。私はそれ自体は良いことだと思っている。お客さんは自分の子供を自信のないカメラマンに撮ってほしいとは思わないからだ。だが時としてプライドが邪魔をして自分の成長を阻んでしまうのもまた事実。誰もが自分の写真に対して指摘をうけたくないし、落ち込みたくはない。だが、怒られたことのない子供が大人になって苦労するように、写真というのはそこそこの努力ですぐ撮れてしまうだけに気付いたら能力が横ばいのまま何年もたってしまうことも多い。自分の写真がどの段階にいるのかを冷静に見る目も必要だ。

NO PAIN NO GAIN。

さあ、反省でもするか。

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