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なぜ世界は存在しないのか:読書感想文vol1 マルクス・ガブリエル

投稿日:2019/10/12

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唯物論でも、観念論でもない、新しい実在論

 

例えば私が数年ぶりに友人に会ったとする。

友人は私に「まだ横浜の店舗で働いてるの?」と聞くだろう。

 

当然だ。なぜなら久しぶりに会うわけだし、その友人にとって私は青葉店で働いている人間であることになっているからだ。

友人の中では横浜にいることになっているのだから、私は横浜青葉店の人間である。

 

これが観念論である。

 

しかし実際に私は今は横浜青葉店で働いていはもちろんいない。

本当は所沢店にいる。友人がどう思おうとも、それは揺るぎようのない事実である。

 

これが唯物論である。

 

私たちは日常をこの二つの感覚を用いて判断し、生きている。

時に間違い、時に思い込み、時に正しい。

正しい事実を知ったとしても、納得できないという時もある。人だから。

 

観念論が唯物論と違い、事実ではないという印象を持つが、観念論がよくないということでもない。

例えばただの器があったとする。

作った人がそれを物入れだと思って作っていたとしても

使用する人たちがそれをコップだと思い込み、そのように使えば、それはコップになる。

事実になるのだ。

 

論理的にあまり良いとは言えない写真だったとしても、皆が良いと言えばそれは良い写真になる。

 

絵画につくとんでもない値段はまさに観念的だと思う。

実際の絵画はただの絵の具と紙でしかないが、人たちが貴重だと思えば思うほど値段があがる。

 

こうして話してみると、もしかしたら私たちは事実よりも観念の中に生きている方が多いのかもしれない

 

マルクスガブリエルの提唱する新しい実在論というのは、唯物論、観念論、この二つがどちらも間違いではなく

どちらもそこに存在しているというより人間的な感覚に近い考えを示す

 

例えば万引きGメンと万引き犯の攻防があったとする。

Gメンは現行犯でないと捕まえることができないため、怪しい人を探し、その人がやるまで必死に見張る

やったのを見て、お店を出た瞬間に声をかけるわけだが、時々間違えてしまし、実際には盗んでいなかったという事もある

 

唯物論的に言えば、その人は「盗んでいなかったただの買い物客」となる

観念論的に言えば、その人は「盗みそうな雰囲気を持っていて、Gメンの目には盗んだように見えた買い物客」となる

 

実在論的に言えば、その人は「盗みそうな雰囲気を持っていて、Gメンの目には盗んだように見えたが、実際には盗んだりしてないただの買い物客」となる

 

つまり、盗みなんかしてないただの買い物客というのが事実だったとしても、Gメンからは怪しく見えたというのもまた事実であるという事である。

 

 

山梨県側から見る富士山と静岡県側から見る富士山はまるで形が違って見えるが、富士山は富士山である。

しかし、お互いの県から見える富士山もまた本当の富士山である。

 

 

こうは書いてみたが、私的には少し腑に落ちない部分がある。

どうにも私にはあれも本当だし、これも本当。いろんな意見があるよね~みたいに聞こえて仕方ない。

これがマルクスガブリエルの言いたい実在論なのだろうか??  つづく

 

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