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京都桂店
Life goes on...
投稿日:2019/6/15
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Lifestudio tokorozawa
Photo:volvo
Codi:moriya
〈普遍的な美しさはインスタグラムでも同じ〉
インスタグラムが流行っている。
まあ、今更ですが…
中高生のアンケートでは、スマホに入ってるSNSランキングでツイッターを抜いて一位となった。
これは自分の好きな有名人の動向を確認したり、自分の人生をリアルタイムで公開していく事で社会と繋がってるという実感を得ている証拠だろう。
もちろん若者だけでなく大人でも色々な用途で使用されている。
例えばママの子育てアカウント。
毎日あわただしく過ぎていく子育てな日常を人に見てもらうことで
共感と彩が加えられるのかもしれない。
ビジネスで利用している人も多い。
我々もその一人かもしれないが、自分たちの事業をもっと知ってもらいたいという
思いからインスタグラムを利用している会社はたくさんあるし、これからもっと増えていくだろう。
写真を撮っている人にとってインスタグラムは最も有効だ。
写真そのものがコンテンツとなるインスタグラムは、写真家や写真館にとってはとても有効なツールとなる。
時代は変わり、インスタグラムという世界によって
写真という物質の見せ方や流れてくる量そのものは変化の一途をたどるが
実は写真そのものの存在意義に関してはそこまで変わってはいないのかもしれないと最近思うようになった。
例えば自分の家から会社までの道中に何枚の写真を目にするかを見てみてほしい。
改めて数えてみるとびっくりするかもしれないが
目に飛び込むほとんどの情報が実は「写真」なのだ。
チラシ、看板、ポスター、ニュース、yahooなどの情報サイトなど。
情報は山のようにあるが、その媒体を分類するとほぼ全部写真だ。
最近では動画も増えてはきたが、写真の量に比べればまだまだ少ないし、動画の中にも写真はたくさん入っている。
ラインに流れてくる広告も、いつ登録したかもわからないDMも、文字だけで流れてくる情報はもはや皆無といってもいい。
写真が登場してから100年の年月が流れても社会はまだまだ写真に頼るしかなく
情報における写真の占めるウエイトはとてつもなく大きいのだと思える。
写真が情報において大きなウエイトを占めるということは、写真そのものが目を惹く力を持つことはとても重要な事だ。
インスタグラムの中ではエンゲージメントといって、その写真の人気を示す数値評価で写真の価値が数値化される。
人気アカウントであっても、ポストする写真の評価は写真の良し悪しで大きく変化していく。
私もインスタグラムに関係するようになってから、このSNSの特徴を知ろうと必死になった。
そうしているうちに
「インスタグラムの世界と、実際の写真そのものの良し悪しは必ずしも合わない。インスタグラムにはインスタグラムの人気が出る写真の傾向があるんじゃないか?」
と思うようになった。
「インスタ映え」なんて言葉もあるくらいだからきっとそうなのだろうと。
実際に写真をアップしながら研究し、実際にヒットしてる人のインスタを眺めながらその傾向を考えてみたが、今はまた、それとは違った考えに至るようになってきた。
「もしかしたら、インスタで人気がでる写真とは実は普遍的な美なのではないか?」
ここでいう人気とはただ単純ないいねの数とかフォロワーが多いねとかではなく、自分の他の投稿に比べて数値が上がったり下がったりといった相対的な人気の事だ。
例えば10万人のフォロアーを持つ人のいいねが1万だったらさみしいが、1000人の人が1万のいいねがついたらとても人気投稿ということができる。
つまりフォロアーに関係なく、普段の自分の投稿に比べて今回の写真がどうか?という判断基準においてである。
人の美的感覚と言うのは、個体差はあれどある程度の人数に評価をされるとそれは平均的で一般的な美の評価になるのではないだろうかという考えのもとでだ。
〈普遍的な美はあるか?〉
「普遍的な美」というと、目に見えない、形のない困った言葉に聞こえる。
でも、ミロのヴィーナスを見て汚いという人がほぼほぼいないように、きっとどこかに限りなく普遍に近い美というのは存在する。
それはいっぺんの妥協もない、本当にミスや落ち度のない、神様が作ったありえない状態なのかわからないが・・・。
我々が毎日撮影をさせてもらっている子供達には、ある種の普遍的な美しさがある。
それは見かけだけでも、内面だけでもなく、存在そのもの。
だから写真という形に残るだけで私たち大人は喜び、涙する。
彼女の存在ももちろん普遍的な美しさを持っている。
特別にこだわった写真なんかを撮らなくても彼女は美しいし、もし1ヶ月モデルとして撮り続けたならもっと彼女の美しさを知ることはできただろう。
しかしこのような写真を撮ったのには理由がある。それを説明する前に、つい先日起きた事を紹介させてほしい。
〈真面目な後輩〉
5店舗合同で行う会議が終わったあとの飲み会で、写真の話をする真面目な後輩たちに写真の普遍的な部分に関する質問を受けながら困ったことがあった。
質問は単純に解釈すれば「良い写真を撮るにはどうすればいいのか?」ということだ。
これに答えられる人間は……おそらくいないだろう。
私もそうなった。
真面目な後輩たちの助けになれればと思いごたくを並べたが、正直何を言っても良い写真に直結するようなきはしなかった。
普遍的が何かはわからないが、そこに近づけるためのセオリーのようなものが存在しているのはわかる。でもそれをしたからといって良い写真に必ずなるわけでもない。
その時は自分の持っている情報を全て投げたつもりだったが、あまりにノーコンだったと気づいたのは、家に着いてからだった。
次の日まで考えた結果、結果といえるかわからないけど少し整理されたきがするので、被写体である彼女への想いとともにここに書いてみようと思う。少しでも伝われば嬉しいが…
写真の技術というのは写真をうまく撮るためだと思うのが普通だ。
でも本当にそうだろうか?
あなたは何のために写真の技術はあると思いますか?
「普遍的な美しさ」というのは定義することはできない。
しかし、これだと思うものがなければそこに近づくこともできない。曖昧なまま写真を撮ることになる。
個人的にはポートレートにおける普遍的な美しさというのを
追い求めながら8年が過ぎようとしている…
今だにわからないというのが本当のところだ。
その8年の間に考えもいろいろと変わった。
見つけたと思えばやはり違うと思ったり、一周回ってただ笑ってる事が一番美しいのではないかとさえ思った時もあった。
常に考えは変化しながら日々撮影をし、時に写真から距離を置いて考えたこともあったが、明確な結論には至らない。
ただ、時間をかけたメリットがひとつだけあった。
じーっと体の中のどこかで変わる事のないものが見つかったのだ。
それは自分が良い写真を撮ろうと躍起になるといつも実践していたこと
「ナチュラリズムとヒューマニズムの合意点」を探すことだった。
さあ、いよいよ意味がわからないかもしれませんが(笑)この言葉が1番近いと思ったから表現してみた。できるだけ説明してみようと思います。
〈私が説明できる唯一の普遍性〉
カメラの技術や、構図や光などの写真の技術は、人間が見ていて違和感を感じない
気持ちの良くなる自然法則にのっとった美しさである。
例えば写真でよく言われる黄金比率や三分割といった構図における普遍的な美しさは
植物の形など自然の中から生まれた法則であり、それが2:3の四角に収まった時の微調節で
成り立つ法則である。顔の角度や体を小さく見せる技法なども、ヒューマニズムな観点というよりは
すでに決まっている自然法則の話だ。勉強さえすれば誰でも実践できる。勉強さえすれば。。
一方でポートレートというのは人を中心とすることから人に寄り添った写真になるのは当然であり
被写体と撮影者が寄り添わなければ人間の内面的な美は映し出されない。ライフスタジオにはこのタイプの写真が多いように思う。もちろん深みなど論点はたくさんあるが、、
かわいい雰囲気を持った被写体に対してアップの写真が多くなるのは、人に執着しすぎて
バランスを崩した時に発生する現象だ。
人間性にフォーカスを当てすぎて写真という物質的な要素に違和感を持つ人も現れ「カメラが邪魔だ」という結論に至る人も少なくないが、私達は写真で勝負をしている。
この結論では成り立たない。
私たちカメラマンは写真の話をしようとすると、必ず技術的な観点か、人間性の観点か、どちらかの話に偏ってしまう。写真はこの二つのバランスによって成り立っているにも
関わらず。
その理由はおそらく、技術的な部分と人間的な部分それぞれの意味はわかるが、その接点がわからないことによるものだろう。
写真館なんだから技術が大切だという意見が出れば、人を撮っているのだから人が重要だという意見で対抗する。
行き着くのはいつも「どっちが大事か?」という結論だ。結論というか、終わりようのない着地点だ。
私はこう思う。
「人を想えなければポートレートの意味がないし、技術がなければどんなに想いがあっても、その想いは形には残せない」
形に残すというのはシャッターを押せるという意味ではなく、表現できるかという意味である。
この論争には正直あまり意味がなく、そもそも写真自体がなんなのかを理解していない主題でもある。
「ナチュラリズムとヒューマニズムの合意点」
の話に戻るが、この言葉を少し言い換えると
「被写体である彼女の人間性を、技術を用いて最大限に引き出す」あるいは「個人と社会が調和を保ちながら最大限発揮される状態」「小手先の技術と人間」「歴史と個人」など色んな言い方ができてしまうが、どれも部分的で包括的ではない。
まずは被写体である彼女の人間性を引き出す能力が必要になる。
正直これには正解はない。
だから困る部分なのかもしれないが、ここが写真を撮る上での最初のスタート地点だ。
前回の記事で「写真とは撮影者と被写体それぞれの人生のクロスポイント」と書いたが、このクロスポイントをより濃いものにするには、お互いの人生がどれだけその空間に現れているかで決まる。
被写体である彼女の事を何も知らなければ、情報0で撮るしかないし、撮影者が何も持っていなければ、0で撮るしかない。
0×0=0だ。
彼女の事を1知ることができたら少し変わるかもしれないが、これでも撮影者が何も持っていなければ、0で撮るしかない。
1×0=0だ。
写真は良いとは言えないだろう。
しかし、露出とピントを合わせられる情報が1だとして、それをもっていたとしたら
1×1=1の写真になる。
彼女の事を6知ったら
6×1=6だ。
もし、撮影者が望遠レンズが使えたら2になる。
6×2=12だ。
もし、撮影者が彼女の人間性を引き出すような哲学をもっていたら
10×10=100
なんてことにもなるかもしれない。
これが互いの人生のクロスポイントという言葉の意味だ。より濃く出れば出るほど数字は高くなる。
撮影者の数字には技術も入れば、情報、経験、そして人間性や哲学が入る。被写体の内面を出すための引き出しも必要だ。
だからカメラマンには色んな経験が必要だし、哲学が必要なのである。写真には撮影者の人もなりがでるのだ。
しかし人間性に正解も不正解もないし、彼女の全てを出さなければいけないわけでもない。
重要なのはカメラマンが自分の中で規定し、その規定が的外れでないかどうかである
〈彼女の事〉
この写真の見た目に関する細かい説明は改めてはしないことにしようと思う。
今更左の前ボケの意味や、光の当て方などは説明しなくても誰でもわかることだし、誰でもやってることだと思う。
唯一説明ができるとすれば、これらの目に見える構成要素は、彼女の良さを引き出す1つの方法として選択したということだ。
双子の姉妹でもある2人は性格が全然違っていた。
髪が長いという雰囲気もあいまってか、どちらかというと物静かでカメラ目線以外を見るのが似合う感じだった(雰囲気が良いという意味)
もう1人は反対に髪が短く力強い目をしていて、カメラ目線が似合うような強さを持っていたように感じたし、実際そのように撮影をした。
逆光の西日は、美の観点から見れば被写体が誰であっても使用する価値はある代物だ。
部屋に入った瞬間、カメラマンなら誰でも気づくような光だ。ここまでは大体皆同じように辿り着く。
しかしどのように使うかは彼女の人間性と撮影者の持ってる経験値による。つまり、ここからが合意点の探しどころだ。
私は彼女の性格と横顔の鼻筋、そして指の長さを知っていた。
西日で光り出すからのビンを持てば指がどのようになるかはある程度予測ができたし、うまく指が運べなければ私の経験から支持をすれば良い。
逆光の使用法は横向きに決定した。
便を顎に当てるかどうかは、やりながら考えればよく、撮影が進む過程でどちらが彼女の雰囲気に合うかを判断する。
ポイントは満足せずやってみることだ。
ビンをもたせて光が当たった時点で満足しがちだが、最後にもう一声、写真の完成度を高める一言を付け加えたい。
撮影後、物静かだった彼女からアナザーミーに応募があった。言葉は少なかったが、撮影自体を楽しんでいてくれたのだと実感した瞬間だった。
これだけ長々と文章を連ねてみても、何かを期待して読まれた方には申し訳ないがやはりこれだと書ける決定打は見つからない。
ただ言えるのは、インスタグラムであってもスタジオ写真であってもポートレートである以上、見間違うことのない美しさがそこにはあり、写真という媒体を通すことによってそれが減るか増えるかは私達撮影者にかかってるということだ。
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