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京都桂店
自由なのは「誰?」
投稿日:2017/11/28
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超えていかなければならない課題を先送りにしていると体の中にガスが溜っていくようです。
ガスが溜まりながらも排気口を持たない自分にイライラしながら時間だけが過ぎていくと、いつの間にかガスが充満していることが当たり前になってきます。
その状態が当たり前になってくると動く気力を失い、日々の活動はルーティン化され、極力体を動かさない状態へとなっていきます。
人は楽をしたい生き物です。
特に動機を強くもっていなければ人は選択肢の中から楽なものを選ぶ傾向にあります。
自分にはそんなに選択肢は無かったと思う人もいるかもしれません。
選択といえば進路を決めることであったり、転職をしたりというような
大きな事柄ばかりが思い浮かびますが、人生とは全てが選択です。
朝何時に起きるのか、何分の電車に乗るのか、通勤中にコーヒーを買うのか水で我慢するのか
何件どのように撮影するのか、帰りにご飯をどこで何を食べるのか
今この人に何を語りかけるのか、、、
今日の皆の状態をどう規定するのか、これからの店舗をどうするのか、トイレにはいついくのか・・・。
他にやらなければいけない事がたくさん迫っていながらもこうして写真分析を書いているのも選択ですし、書かない事も選択です。
写真は何百、何千という選択の過程を経て生み出されているように見えます。
私はこの選択の過程をより多く通過してきた写真ほど良い写真だと思っていますが
先日所沢店で話した工藤さんの「写真人文学」の講義でもそのような事が触れられました。
「写真は芸術であるのか?」という問いに対する考察の中で、
写真とは何かしらの目的を持った「道具」でしかないという観点と
撮り手の思いのこもった「作品」であるという観点から話が展開されました。
その話の中で、ではライフスタジオの写真の持つ特性はなんなのだろうかという問いが生まれ、
「道具」と「作品」の両方の側面があるという討論になりました。
ライフスタジオの写真に「作品」の要素が含まれるひとつの理由として取り上げられるのがシステムです。
私たちの日々行っている撮影のシステムには、ある秘密が隠れています。
それは私が過去に(2014年5月ごろ)に書いた二つの写真分析にその事が書いてあったのを思い出したので抜粋してみます(駄文ですが)
https://www.lifestudio.jp/?run_id=brd&bs=photogenic&page_no=24&po_seq=106529
例えばすべてがマニュアルで規定され答えを持った状態で撮影に臨むのであれば
どの店舗で撮っても誰が撮っても同じクオリティを保つ事ができ
それは企業としてひとつの価値を持っている事になります
もしかしたらその方がお客様から見れば安心、安定するかもしれません
牛丼屋さんはどこで食べても同じものを食べる事ができますし
お客さんもそれを臨んで来店します
ではなぜライフスタジオはそれをしないのでしょうか?
中略
私はライフスタジオの撮影スタイルを
「自由と不自由を、撮影者に常に投げかけていく能動的なシステム」であると考えます。
このシステムの前で私達は能動的にならざるを得ません。
自分達で条件を決めなければシャッターを押す瞬間は訪れません。私達にマニュアルは無いからです。
ここで言う自由とは「発展」の事を言い、不自由もまた「発展」の事を言います。
つまり、今私達が実践している毎日の撮影は自分達を開放とプレッシャー
解決と苦悩の相互作用によって発展し続ける事ができるシステムを踏襲し高め続ける事
その結果として個性というものが発揮されていきお客様と撮影者の相乗効果が生まれ
また個性が磨かれていく事
ライフスタジオのリピート率の高さはそれによるものであるようにも感じます
商業写真は「道具」の要素がどうしても強く出てしまいます。
売れなければいけない事から「顧客にとって役にたつ」という側面から逃れる事ができません。
それでもライフスタジオが「作品」の側面を逃さないのは、互いに「人」であろうとするからです。
道具とは手段であり、結果物である写真が手段であれば、撮影者の意思はなくなります。
意思がなくなれば、被写体に対する想いはなくなり、試行錯誤をしなくなります。
そうなれば、最初に書いたように日常がルーティン化され、体を動かさない選択の少ない写真となっていきます。
「作品」の要素があるという事は撮影者に意思があるという事で、意思を写真に反映できるのがライフスタジオのシステムです。
と、言って「あ~ここの撮影ってそうだよなあ」とか思いながら、実際に自分の事を冷静に見てみると
ガスがたまっている事にも気づきます。
もしこのシステムが誰に取っても完璧であれば、ガスが溜まる事などなくどの撮影者も充実した毎日を送る事ができているはずです。
それについても私の過去の写真分析(2014年6月)の文章の中にある事が書いてありました。
https://www.lifestudio.jp/?run_id=brd&bs=photogenic&page_no=23&po_seq=107509
例えば塾に通ったとしても必ず成績が上がるかどうかはわからないように
どんなに良質なシステムがあったとしてもそれを誰もが活用できるわけではありません。
私達がこの自由な撮影スタイルに一種の不自由を感じてしまう理由のひとつに
「自ら条件を作る」ことが出来ないことが考えられます。
人は「変化」が起これば何かしらの成長がありますが
それと同時に「順応」を目指してしまいます
順応が成されていくと言う事は、マニュアルの無いはずの撮影に
マニュアルを作り出してしまう事になります。
それは個人の中だけにある「自分のマニュアル」です。
その内容は様々ですが、自分のクセや店舗の文化、よく見る写真や撮りやすい写真などです。
決してこれが悪いわけではありませんが、もし自分のマニュアルだけを用いて撮影を
していくのであれば、この能動的システムは機能しなくなります。
つまりこの撮影システムを機能させる為には、私達が「条件」を作り
そのプロセスを強めていく事が必要と考えます。そしてそれはまた
「変化と順応」の戦いとなり、また新たな「条件」を必要とします。
「自由」という言葉をこの会社に入ってから何度使用したかわかりませんが
自由であるほど生きるのが難しいと私は思っています。
自由とは責任を持つという事です。
自由であるがゆえに、ガンガンに突っ走ってもいいし、力を抜いても誰も咎めません。
だからこそ自由には意思が必要だし、選択しなければいけないし、決定しなければいけない。
それを重荷に感じる人はガスを溜めていきます。
本当の自由とは、自分の意思で写真が撮れる環境だけではなく、最適な選択を選ぶ事ができる
その意思も必要かもしれないですね。
この撮影では、こんな難しい事を書いていた過去の自分や、工藤さんの講義で聞いた知識が
自分の中で溜まっていたガスを排出してくれたような時間を持つ事ができました。
彼女の特性を見て、日の落ちた室内で一体どのように撮る事が最適なのかを探し
半逆光という基本に立ち返り無駄のないトリミングを心がける。
そしてなにより自分はモデルであるという姿勢でどんなポーズにも取り組んでくれた彼女の
頑張ったカメラマンポーズと思春期に入ってもパパとじゃれあうお姉ちゃんを筆頭に
明るい雰囲気の耐えないご家族との撮影がそうさせてくれたのかもしれません、
ただひとつ言えるのは、どんなシステムであろうとも子供たちはかわいいという事かもしれないですけどね。
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