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京都桂店
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P.O.P~For unseen you: Satsuki Kudo~

投稿日:2017/10/26

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P.O.P
~For unseen you: Satsuki Kudo~


write & Photo by volvo

 

大丈夫

あなたは生まれるべくして生まれて
所沢店にいるべくして存在している

そして今日
着物を着て

写真を撮られるべくして
この場所に存在している

それは変わらない真理・・・
私たちから見ても、あなた自身から見ても
 

 



誰にだって人には必要とされたいという欲望があります。
親にもらえる無償の愛は私を私としてここに存在させる意味をもたせてくれるものであるし
職場で相談を受ける回数が多いと頼りにされている事を実感します。

 

少し視野を広げて社会に目を向けてみても同じです。
私という存在が今この仕事をしていて、いまのような私生活を送っている意味は
社会全体から見ればとってもちっぽけに見えて実はとてつもなく大きいもの。
私が一人の親として存在している事は保育園に通い扶養を抱えている事になるし
カメラマンとしてライフスタジオで活動する事は
年間700件ほどのご家族を笑顔にする使命を持っていることになります。


またそれとは逆に、時には自分が必要とされているかわからなくなり自信を持てない時もあります。
親に見捨てられれば自分はなぜ生まれてきたのかと自暴自棄になるかもしれないし
仕事の経歴ばかりが重なっていきながら誰にも相談されない立場となっていけば自分の存在に疑問を持つかもしれません。

育ってきた環境や過ごしてきた時間によってその感覚は様々でも
大なり小なり自分の存在意義について他者からどう認識されているか感じることが人間であり
そもそもそれ自体が社会という大海原の中で自分が存在する理由のひとつのようにも思います。

 




所沢店写真プロジェクトPOPの次回の話をしながら、京都で着物を着て撮ろうという話が出て
より一層皆で盛り上がっていた時、その盛り上がりの中で密かに不安な気持ちを忍ばせていた人がいました。

 

モデルとなった工藤さんです。

彼女の悩みはこれでした。

 

私が被写体でいいのだろうか?

 

この一言には相当な重みがありましたし、実際そう思うのも無理はないようでした。
彼女は自分に自信が無いというのは「写真と人」でも書きましたが
彼女と共に働き始めてから長いこと経ちますので
ある程度彼女の性格や仕事に対する考え方などは知っているつもりです。

私の経験から見て判断する工藤さんのその時の心情の中には二つの理由が混在していたように思います。



 

ひとつは単純に自分がプロジェクトの被写体として務まるのかという不安。

そしてもう一つは、自分がみんなの中にどのように「存在しているのか」を知ってしまう不安。

そんな風に見えました。







 

まず、着物で撮るということに彼女は抵抗がありました。
自分がプロジェクトの被写体として務まるのかという不安は、工藤さん自身がもっているある経験が
そう思わせ着物に対する抵抗感を強めていると自ら口を開いて説明してくれました。
工藤さん自身が着物を着た経験は二回、七五三と成人式。
大抵の日本人女性と同じように人生で2度の経験があったようですが、その2回ともが
工藤さんにとって振り返りたくないものだったそうです。



特に成人式の写真は幼少期とは違うこともあり見返したくも無いと言っていました。
人は誰にでも思い返したくも無いいわゆる「自分的黒歴史」は持っているものですが
まさかそれが自分の好きな仕事によってめぐり合わせて返ってくるとは思いもしなかったのかもしれません。
その時の事を思い出すと、着物を着たくないという気持ちが大きくなるのも当たり前です。
なぜなら「着物を着た自分」のイメージがその時から10年以上も更新されず変わらないで自分の中に存在しているからです。
 

 

一方で、自分がみんなの中にどのように「存在しているのか」を知ってしまうということについては

事の本質を映し出している根本的な要素だと思います。

 

今回のPOPのテーマは「存在」

 

存在とはその人の本来持つ「私は誰か」といった本質を探るものでもあるし、その探る過程でその人を主観によって規定することでもあります。
つまりはそれは誰が彼女を見るかによって捉え方は変わってくるものです。
工藤さんという何千万の構成要素でできている人のどの部分を確認しているかによって、工藤さんの見え方は変わっていきます。
私が1から1千万の要素を確認して規定した工藤さんと、たくみが三百万から千五百万の要素で工藤さんをみたのとではそれぞれの考える工藤さんは違います。



 

しかし工藤さんは工藤さんで変わる事はありません。
皆がどのように彼女を見ようとも彼女が彼女であることは変わりません。
私が「実は男なんじゃないか?」と思ったところで彼女が男であるはずもありません。

そこで互いの認識が違います。
人というのは主観で判断するしかないので
どんなに正しいと思っていても相手とは違う考えになってしまいます。
自分自身が被写体となり、書かれる側になることによって見えてしまう周りの人たちの主観。
周りの人たちの中にいる「工藤さつき」という存在のあり方。
それと自分自身が思う「工藤さつき」という存在とのギャップ。
それによって見える仲間との本質的な関係性。
みんなは私をどう見ているのか?という部分。
 

工藤さんは常々言います。

「一番いやなのは嫌われる事でも憎まれる事でも無い、関心が無い事だ」と。


自信を持てない彼女の言葉の端々からは
皆の中の自分の存在が、もしかしたら自分が思っているよりもずっとちっぽけで
被写体を担う事によってどれがあらわになってしまうのではないかという
不安を感じている事を受け取れました。
 







写真とは存在証明の道具です。

もしかしたら工藤さんは
人に写真を撮ってもらうというのは
存在を証明する行為であるという事を知っているからこそ
写真を撮って存在をはっきりさせる事で
逆に自分の存在を否定する証明になってしまうのではないかと
思ったのかもしれません。

 


 

 

「存在」というのは、更新されるものです。

私がおもう工藤さんも日々変わっていきますし、工藤さん自身も日々変わっていきます。

 

しかし変わってこなかったものがありました。

 

「着物を着た自分」と「所沢店の自分の必要性」

という自分の中にいる自分という存在
 




今回の撮影のポイントはここだと私は思いました。
 

〜今日のあなたは、昨日のあなたではない〜


実際には変わってこなかったのではなく、変わっていないように見えていただけ・・・

それを証明してあげたい。

私はこの撮影をするにあたり、それをテーマにする事に決めました。




そのイメージを工藤さんに伝えるために、撮影前、彼女にこう伝えました。

 

今からあなたは着物モデルだ。

着物を着て歩きながら街を紹介するイメージ。
そう、今から雑誌の撮影をするんだ。

どんな雑誌か?着物でブラブラしているような・・・
そうだ!OZだ!OZトリップだ!

 



 

OZがどんな雑誌なのかイメージしか頭にないのでこの声かけが効果的であったかは微妙だったけれど、

工藤さんには「順番が回ってきたから被写体になっている」のではなく

「着物で京都で撮るならあなたが適任なんです」という事に気付いて欲しかったのでそう表現しました。





雑誌のように撮るというのは今までもたくさんやってきたことですし
誰でも目指そうとすることだと思います。
でも今回はただ「美しく撮る」というだけではなくて
「あなたは美しい存在なんだ」
ということに気づいて欲しい願いがありました。

だから写真のすべての構成要素を「工藤さんの中の工藤さつき」が変わるようにセッティングする必要がありました。
着物は、今の工藤さんにとってベストな選択ができるようにお店を選び、ようちゃんが細かくコーディネートしてくれました。
 

そして実は、もう一つの「存在」が更新されるテーマがありました。
それは私の中にある「京都」という存在です。

私は私がカメラを始めるきっかけをくれた場所であることから京都に強い思いを持っています。
しかし私の中にある「京都」はあくまでも「風景写真の京都」でした。
京都そのものにはいろんな要素があって、もちろん風景も魅力的で風景写真を撮りにきたり
楽しみに来る観光客が多いですし、むしろそれがほとんどだとも思います。

 

私はこの仕事を始めてからも何度か京都に足を運んでいますが、しっかりとポートレートを
撮った事はありませんでした。
ライフスタジオで人を撮るようになり、次第にポートレートに対する考えが強くなっていきながら
京都という場所を見つめ、いつかここで人を撮りたいという欲望が強くなっていく事を感じていました。

 

自信はありました。

街で撮ろうがカフェで撮ろうが、またはお寺で撮ろうとも、絵にならない場所は無いと言ってもいいくらいの
京都という街は、ライフスタジオのインテリアが写真を撮るようにうまくできているのと同様に
いわば街全体がコンセプトのはっきりした大きなインテリアのような存在感を発揮しているからです。

それと同時に当然不安もありました。京都といえば日本有数の観光名所。人も多ければ規制も多い。

なにより自分の腕がこの街に通用するのかという疑問はぬぐえずにいました。
ところが、初めて京都にカメラを持って行ってから約10年。
「風景写真の京都」から「ポートレートの京都」へ変化していく事を感じ、実際に

工藤さんを撮りながらその自信と不安は撮れるという確信に変わっていくのを感じる事ができました。




蓄積された私の中にある「京都」が次から次へと工藤さんを撮影することに対する代案を提示してくれる
感覚を覚えながら、久しぶりに写真のイメージと被写体、そしてインテリア(京都)が一致していく事を実感します。

それは私の中で京都という「存在」が変わっていくようでした。
しかし、実際には京都という場所は、撮影という面から見れば最初から風景写真もポートレートの面も両方持ち合わせています。

 

ただ私の中にポートレートの要素がなかっただけで、実際にはあったのです。
という事は、私の中の「京都」と「京都そのもの」は少し近づく事ができたのだと思います。


工藤さんとも同じです。
私の中にいる工藤さん強い側面と弱い側面を持ち合わせた人。
工藤さん自身がみていた「着物を着た自分と所沢店の自分の必要性」。
このどちらも間違いではなく、工藤さんを構成している要素のひとつではあると思いますが
情報の少ない主観でもあることから正しくはない部分もあります。

しかしこうして写真を撮り、工藤さんについてふかく考えることで
お互いの中に存在している「工藤さつき」が更新されていくことを感じました。

 

写真というのは不思議な道具です。

たった一回の撮影、たった一枚の写真で撮る側も撮られる側も
それまで見ていたのとはまるで違う世界が見える。
気にしなければそんな事には気付きもしないし
心を込めないで撮影が行われればそんな変化も無いかもしれない。

 

しかし実際にそういう不思議な撮影はあるし、写真にはそういう力があります。
撮影という行為が撮影者と被写体、二人の人生のクロスポイントであるという認識でいれば
自分の中にある様々な「存在」が更新され、いつか真の存在「真理」へと近づいていく事になるのではないかと思っています。


工藤さんとはもう長い付き合いになりますが、まだまだ知らないことがたくさんありました。
意見が違うことも多いしケンカもよくするけれど
今回、京都という場所で工藤さつきという存在を撮影できた事に感謝しています。



 

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