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京都桂店
『存在している決定的な証明』
投稿日:2017/4/14
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photo by volvo
codi by misato
write by volvo
写らなければいけないのは、本当に「顔」なのだろうか?
写真館のカメラマンという職業に就いていながら何を言っているのか・・・
そう思うかもしれないけど、もちろん写真を撮りすぎて変になったわけではない。
私が何を記録に残す事を生業としているのか改めて考えてみると、やはり私の中では「顔」ではなく「今、その子が存在している決定的な証明は何なのか?」を残そうとしているように思う。
しかし実際に撮っている写真に「顔、表情」を重視した写真が多い。だけどそれは「顔」を撮る事がそれを実現する確率として高いからそうしているだけであって「顔を撮る」事自体が目的ではない。
過去にこのような文章を書いた事があった。
人生が絶え間ない「動」の連続であるなら、写真は連続した「動」の中の一瞬です。
人生の一瞬を切り取ったとも言える写真という物質によって確認ができるのは
ただ単純に写っている「事実」だけではなく、写っているその一瞬の前後にある
「過程」が想像される事でその写真からにじみ出るものが「価値」として深みを
出し、それが多ければ多いほどその写真は深みを増してゆきます。
それは「時間」と言い換えることもできます。
このスタジオで私たち撮影者と過ごした時間が、作り上げた関係性の深さによって
写真に表現され、それはポーズや表情、原本の質となって現れます。
写真の特徴は「一瞬が永遠となる」事だと私は思う。
よくモニター中、写真を見た親御さんが「こんな瞬間ありましたか?」と驚きの感想を言ってくれる事があるが、現実ではあったかどうか確認する事もできない一瞬の出来事が写真にする事によってまるで時間が止められたかのように見る事が可能だからこその感情だ。
この写真のように目を帽子で隠し、がに股で足首を触りながらにやりと口角を上げるという行為は
本当に一瞬だ。
なぜこのようにしたのか。
それは彼が撮影中、常にカエル跳びでスタジオ中を飛び回るのでがに股が特徴的だという事、
そして笑った時の口の両端に広がる笑い皺この二つが今、彼がここに存在している決定的な証明であると決定したからだ。
その証明をする為には「目」は見えなくてもよかった。
むしろ見えないことによってこの二つに集中する事ができる。
20年後、この写真を見た時に何が思い出されるだろう?といつも考える。
もしカエル跳びでスタジオを駆け回った事や口角の感じ、私たちがこの写真を撮る為にかけた言葉などが
思い出されるならば、この写真はきっとただ「雑誌のような」見た目だけではなく、この家族の人生の一枚になれた事になるだろう。
もしそうなるなら、もしかしたら笑顔満点のアップ写真よりも価値があるのかもしれない。
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